△建物外観(1階~3階部分。地階はレストラン)
12月1日から、言葉の森が新しい教室に移転します。
11月22日(木)から通学教室は休講にさせていただき移転作業に入りますので、電話になかなか出られないことがあるかもしれませんがよろしくお願いいたします。
新しい教室は、JR港南台駅から徒歩4分です。
▽新住所
234-0054 横浜市港南区港南台4-21-15
(電話番号は変わりません)
▽地図
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新しい教室では、通学式の寺子屋オンラインを開く予定です。
どういう形かというと、教室に通って、そこで全国の生徒と一緒にオンラインで勉強するのです。
学年分けやクラス分けがやりやすくなるので、生徒どうしの交流が活発になると思います。
引越しが落ち着いたら、近所の卒業生と保護者の方を呼んで移転記念パーティーを開きたいと思います。
もちろん、現生徒と現講師も別途行います。
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「自分の勉強なんだから、自分でやりなさい」という言い方をしてしまう人が多いと思います。
しかし、子供がなにか助けを求めてきたときは、すぐに助けてあげるといいのです。
作文には特に、子供が手助けを求める場面が多くあります。
子供が、「書くことがない」とか、「何を書いていいかわからない」というときは、親や先生とのコミュニケーションを求めています。
なぜコミュニケーションを求めるかというと、自分のやることに自信が持てないからです。
例えば、たくさん書けそうもないとか、書いてもすぐに注意されそうだとかいうことを思い浮かべるからです。
そのときに、親や先生が手助けをしてあげると子供は安心します。
この安心感が、勉強を続ける上で大切なのです。
作文の手助けのコツは、子供と話を交わしながら、構想図を書いてあげることです。
10分ぐらい話をしながら構想図を書くと、作文に書く内容のほとんどが埋まります。
子供は、それをもとに作文を書いていけばいいのです。
そのときに、ただ手助けをするだけでなく、手助けを生かすことを考えていくと、二重の効果があります。
それは、勉強を教えるだけでなく、勉強を楽しむ雰囲気を教えることです。
多くの子供は、勉強は義務感でやる退屈で面倒なものという感覚を持っています。
それは、小中学校の勉強の中身は、もともとそういう面があるからです。
しかし、これを我慢してやるのではなく、楽しんでやるように工夫するのです。
大人の人であれば、退屈な仕事を楽しくやるコツをいくつも知っています。
例えば、単純作業でも、タイマーをセットして自分が決めた時間内にやれば、意欲的に取り組めます。
面倒な仕事のあとには、自分にちょっとしたご褒美をあげようと思えば、これも意欲的に取り組めるコツになります。
しかし、大事なことは、こういう楽しくやるコツを子供にさせるのではないということです。
例えば、タイマーをセットして、子供に制限時間内にやるように要求すれば、それは単に子供をコントロールしていることでしかありません。
そうではなく、親が、「よし、お母さんはこれを5分以内にやるからね」という感じで、喜び勇んでやる姿を見せるのです。
こういう後ろ姿の教育ができるところが、親が手助けをする勉強の大きな副産物です。
そして、子供の心の中に残るのは、勉強の内容よりも、こういう親の生きる姿勢の方なのです。
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「自分でやらせるか親がやってあげるか」
https://www.mori7.com/index.php?e=3076#e3076
先日の小1~小3の保護者の懇談会で、次のような質問がありました。
「作文の構想図を子供がまだ書けないので、親が書いてやっているが、それでいいのか」ということでした。
小学1年生から3年生ぐらいの子は、まだ自分で要領よく構想図が描けない方が多いものです。
そのときは、親が子供と話をしながら構想図を書いてあげ、それを参考に子供が作文を書くということでいいのです。
しかし、その質問のお母さんは、「子供がこれまで曲がりなりにも自分で作文を書いていたのに、親が構想図を書いてやるようになってから、親の書いたものをそのまま写すようになっている」ということを問題にしているのでした。
けれども、私の答えはそれでいいということです。
「それでいい」という理由は、二つあります。
第一は、子供は学年が上がれば必ず自立するようになるからです。
親は、その子が自立するときの手本を教えていると考えるとよいのです。
勉強に限らずどんなことでも、誰でも最初の自信がないうちは、見ているだけのことが多いものです。
見ているうちに自分でもできそうだという自信がつくと、自然にやってみたくなるという流れがあるのです。
第二の理由は、勉強というものの考え方がこれから変わってくるからです。
それは、いい手本を見ることが勉強になるという考え方です。
例えば、算数数学の難問を解く場合、自分で何時間も考えるという方法と、すぐに解法を見て解き方を理解するという方法があります。
自分で考えるというのは、一見正道のように見えますが、難点は時間がかかることです。
ノーベル賞級の最先端の数学の世界であれば、自分で何ヶ月も何年も考えるというのは価値があることでしょう。
しかし、入試問題のレベルの算数数学で、自分で何時間も考えるという無駄な勉強だと考えた方がいいのです。
勉強は、答えや解法を見て理解して、すぐにできるようになることで基礎力がつきます。
その基礎力の土台の上に、自分で考える実力がついたところで、その子にとって答えのない世界で考える機会が出てきます。
その答えのない世界とは、遊びであったり、勉強であったり、又は将来の仕事であったりするのです。
したがって、親が子供の勉強や作文の手助けをするときは、親自身がそれを不本意な手助けだと思ってやるのではなく、逆に親が楽しめるくらい積極的にやっていくといいのです。
それは例えば、構造図を書くときに、ダジャレを使ったり、たとえを入れたり、親の感動的な体験実例を教えてあげたりすることです。
それを、子供に対する押し付けではなく、親が楽しむような余裕を持って行っていくのです。
余裕を持つということは、ほとんどアドリブで手助けをするということです。
もちろん余裕があれば、下準備をして手助けをしてあげることもいいのです。
しかし、準備しすぎるとつい子供にもそれに対応した努力を要求するようになりがちです。
それは、子供の自主性にとっては逆効果です。
子供が小学1年生や2年生のときは、親の子供に対する見方を次のように変えていく必要があります。
「今ここで親の最良の手本を見せておけば、その土台の上に、子供が高校生になったときにやがて親の今のレベルを超えるような考え方をするようになるはずだ」という見方です。
できるだけ視野を遠くに置いて、子供の成長を見ていくとよいのです。
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教育の方法には、叱る教え方と褒める教え方とがあります。
しかし、本当に大事なのは、叱るか褒めるかということではなく、叱るような状況を作るか褒めるような状況を作るかということです。
叱る状況になったら、それは叱られる子供が悪いのではなく、叱るような状況を作ってしまった大人が悪いのです。
褒める状況になったら、それは褒められる子供も偉いのですが、それ以上に褒めるような状況を作った大人が偉いのです。
子育ての理想は、朝から晩までいつも褒めるような状況で子供を育てることです。
子供は、親の苦労を知らないように見えます。
しかし、成長すれば必ずあとからいろいろなことがわかってきます。
個人的なことですが、私の母はいつも笑顔で何でも許してくれました。
それが普通のことだと思っていましたが、自分が大人になってみると、それはかなり難しいということがわかってきました(笑)。
親の教育は、そういう後ろ姿の教育なのです。
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子供が何かを吸収するのは、それが楽しいからです。
子供が興味を持たないものは、いくらすすめてもなかなか身につきません。
強制されてやるときの吸収力は、自分から進んでやるときの吸収力に比べてはるかに小さいのです。
しかし、楽しいからといって、甘いお菓子だけを食べていては体が成長しません。
楽しいと同時に、それによって子供が成長するようなものを吸収させる必要があります。
それが、楽しいけれど難しいというものです。
その第一のものは、子供が興味を持って読めるような説明文の読書です。
物語文の読書も子供の心を成長させる上で大切ですが、今の日本の読書環境では物語文の本の豊富さに比べると、説明文の本を読む環境はかなり限られています。
子供の興味や関心のある分野を考えながら、少し難しい説明文の読書をすすめていくというのが、子供の身近にいる大人の役割になります。
楽しいけれども難しいという第二のものは対話です。
高校生以上になれば友達との対話が中心になりますが、小学生の場合は、主に親子の対話です。
子供たちは、お父さんやお母さんと楽しい話をするのが好きです。
話の内容ももちろん大事ですが、それ以上に家族で話をするという雰囲気が好きなのです。
この楽しい話の中で、親が少し難しい言葉、少し難しい説明をしていくと、子供たちはその話を一生懸命に聞き取ろうとして自然に難しい言葉や難しい考え方を身につけていきます。
小学校低学年の間に、こういう親子の楽しい対話の習慣を身につけた子は、学年が上がっても親子の対話を続けていけます。
低学年のころは親もあまり準備せずに楽しく難しい話ができますが、子供が小学校高学年になり難しい作文の課題に取り組むようになると、親もその分野について勉強し直したり考えを深め直したりする必要が出てきます。
楽しいけれども難しいという第三のものは、子供自身が挑戦する経験です。
この挑戦する経験には、初めて取り組む遊びのようなものも含まれます。
難しそうだがやってみたいというものは、すべて子供を成長させます。
子供たちは、勉強によって成長するのではなく、読書と対話と経験によって成長するのです。
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世の中には、楽しくて易しいものや、つまらなくて難しいものはよくあります。
楽しいけれども易しいことだけをやっていては成長しません。
しかし、難しいけれどもつまらないことだけをやっていても同じように成長しません。
楽しいけれども難しいものを見つけていくことが大事なのです。
難しい話をしたり、難しい本を読んだりすることは大切ですが、その難しさの基準は知識の難しさではありません。
考え方の難しさです。
考え方の難しさは、理解できたときに目を輝かせるような喜びがあるのです。
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この世の中で価値あるものは、お金でも食料でも資源でも知識でもありません。
真に価値あるものは、創造です。
創造とは、単に耳当たりのよいキャッチフレーズのようなものではありません。
創造とは、すでにあるものを組み合わせて、まだないものを作りだすことです。
この単純な定義から、子供たちの創造力というもも考えていく必要があります。
既存のものただ並べるだけであれば、それは創造ではなく、単に知識を詰め込んだことにすぎません。
それらの既存の知識を組み合わせて新しいものを作り出したときに創造が生まれます。
その既存のものを組み合わせて新しいものを作り出す力を創造力と呼ぶとすると、創造とは、既にある知識を横軸とし、縦を創造力とする三角形の面積と同じように考えることができます。
現在、子供たちが校で学ぶ知識の多くは、国数英理社のような主要教科の知識です。
これをメジャーな知識と呼ぶとすると、メジャーな知識を底辺とした創造を作り出すためには、極めて高い創造力を持つことが必要になります。
世の中には、既に大きな三角形が作られているので、その三角形の枠の中に収まるものは、すべて二番煎じ三番煎じの小さな三角形です。
プログラミングの世界では、「車輪を自分で作る必要はない」という言葉があります。
最初に車輪を作った人は、確かに創造者でした。
しかし、今新しく車輪を作ろうとする人はいません。
今は、既にある車輪を生かして、ほかの新しいものを作り出す時代だからです。
学校教育で行われていることは、既に作られたことのある車輪の作り方を学び直すことです。
現代の社会では、学ぶことがあまりにも多いため、学ぶこと自体が目的のようになりがちです。
しかし、本当に大事なことは、既存のものを学ぶことではなく、既存のものの上に新しいものを作り出すことです。
ほかの人と同じ知識の横軸にとどまっているかぎり、創造に参加できる人はほんのわずかで、そのほかの大多数の人は追随者の役割しか果たせません。
子供時代に何かに熱中することが大切だというのは、この創造の文脈で考える必要があります。
何かに熱中するとき、人はそれがどのように役に立つかということを度外視して熱中します。
何かに役立つということがわかるものは、ほとんどが既にある横軸の上に存在するものです。
何に役立つかわからないものに熱中することが、新しい横軸を広げることになります。
これからの世界の教育を考えた場合、みんなと同じことを同じようにできるというのはあまり意味がありません。
みんなと同じことができるというのは、ロボットでも人工知能でもできるようになることだからです。
大事なことは、みんなのできないことで自分にできることがあるということです。
そういう新しい熱中できる分野を、子供時代から作っていく必要があるのです。
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経済が一つの方向に成長している時代は、メジャーな分野に行くことが潰しの利く道でした。
今は、経済が停滞しているのではなく、多方向に分散している時代です。
そういう時代には、マイナーな分野に行くことが潰しの利く生き方になるのです。
創造ということを考えた場合、役にも立たないことをやっているということが意外と大事です。
役に立つことというのは、ほとんどが既にあることだからです。
子供が何かに熱中しているときは、役に立つか立たないかということを度外視して考えることです。
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作文力をつけるのは、一般にかなり時間がかかります。。
算数や英語など、主に知識の勉強は、始めてからすぐに成果が上がり、三ヶ月も一生懸命やれば見違えるほどできるようになります。
苦手だった科目が得意になるぐらいの大逆転の成果が出ることもあります。
ところが、作文の場合はそうではありません。
上達することは、もちろん必ず上達しますか、普通の勉強よりもずっと時間がかかります。
しかし、上達させる方法ははっきりしています。
第一は、事前の指導をしっかり行うことです。
何をどのように書くかという指示をもとに、目標を持って書く練習をすることです。
ただ漠然と作文を書いて、赤ペンの添削を受けただけでは、作文力はつきません。
例えば、学校から日記を書く宿題が出されたときも、ただその日にあったことを書くのではなく、たとえを入れて書くとか、会話を思い出して書くとか、「どうしてかというと」という理由がわかるように書くとかいう目標を決めて書く練習をするのです。
この事前の目標のひとつに、身近な人への取材というものがあります。
作文に何かを書く場合、それと似た話を身近な両親に取材します。
すると、そこで生まれる親子の対話の中で、題材力、語彙力、主題力がついてくるのです。
第二は、音読、暗唱、読書など、生活の中で自然にできる日本語の読み取りの練習をしていくことです。
作文力の土台にあるのは、書く力よりもむしろ読む力です。
音読については、学校や塾でも取り上げられるようになってきましたが、やり方はまちまちです。
音読に必要な文書は、やや難しい説明文的な文章にしていく必要があります。
そして、2、3回読めばいいというのではなく、同じものを何度も繰り返して半ば暗唱できるぐらいまで読んでいくことが大切です。
この音読の練習の延長に、暗唱があります。
また、生活の中で、自然にできるのは読書です。
日常生活の中で、毎日の習慣として無理なく行える勉強が、音読、暗唱、読書なのです。
第三は、作文をほかの人の前で発表する機会を作ることです。
子供たちは、無機的なテストの点数で成長するのではなく、人間との関わりの中で成長していきます。
小学校低学年のうちは、親や先生の励ましによって、小学校中学年からは友達との関わりの中で、作文の勉強に対する意欲を持ち続けていくようになります。
だから、子供の作文を見たり聞いたりする機会があったら、親は必ずその作文のいいところを見て励ましてあげることが必要なのです。
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読書力は、ただ何でも読めば身につくというものではありません。
本人が好きなものを読むのが基本ですが、そこに、語彙と文章のレベルも考慮する必要があります。
作文力も同じです。ただ何でも書けば身につくというものではありません。
やはり、それなりに努力する目標が必要です。
そして、そういう目標があった方が、子供たちは作文に意欲的に取り組むようになるのです。
作文力の本質は思考力です。
小学生の間は、まだ「正しい書き方を身につける」というような表記の練習が中心になりますが、そういう段階はすぐに終わります。
中学生、高校生になると、上手な作文を書くためには、深く考える力が必要になります。
だから、作文力の土台は、難しい文章を読み取る力になります。
そのためには、小学生の間から読書に力を入れていく必要があります。
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