作文の勉強は、特に低学年の自由な題名のときほど、親子の知的な面白い対話が工夫できます。
そして、小1から小3にかけての時期は、子供の言語感覚が育つ最も大切な時期なのです。
その研究結果を初めて実証したのが、東京医科歯科大学の角田忠信医学博士です。
角田氏の研究によると、外国人でも日本の国で小1から小3の時期を送ると日本語脳になり、日本人でも同じ時期に海外で暮らすとその現地の言語脳になるそうです。
つまり、この時期に身につけた言葉の感覚は、一生の言語生活の土台になるのです。
だから、小1からできるだけ豊かな言葉を交わす生活を送っていくといいのですが、小1のころは「話す」「聞く」はできても、まだ「読む」は少したどたどしく、「書く」にいたってはまだほとんどできない子もいます。
それは、もちろん年齢的なことですから、焦る必要はないのですが、作文ということになると、「もう少し書けるようになってから」と、つい親は思ってしまうのです。
逆に、小1のころからがんばって書かせようとすると、子供に無理強いをする場面も出てきます。
そこで、活用できるのが親子作文という方法です。
親子作文の原理は、単純です。
子供は、自分が楽にできる範囲でお母さん、又はお父さんと話をします。
話をするだけですから、小1の子でも自由にできます。
その子供の話と親の話を、親が構想図という形で、聞きながらどんどんメモしていきます。
大体10分ぐらいすると、メモがA4用紙で1枚を埋めるぐらいになります。
そのあと、親がそれをそのまま作文に書いていきます。
そのときに、普通に書いていけば、会話は改行になりますし、句読点も適宜打つようになります。
子供向けに無理にひらがなで書く必要はありません。親が普通に使っている漢字仮名交じり文で書いていくのです。
作文を書き終えたら、漢字にはふりがなをふっておき、子供でも読めるようにしておきます。
その作文を子供に読んでもらってもいいし、親が読んであげてもかまいません。
子供に読ませるときは、その読み方をいつも褒めて励ましてあげることが大事です。
だから、読み方を褒める見込みがまだないうちは、親が読んであげる形でいいのです。
親が作文を書いて、どうして子供の勉強になるかというと、第一の理由は、子供は親の後ろ姿を見て育つので、親が楽しそうに作文を書いているのを見ると、自分もそういうことをやってみたくなるからです。
読書の場合も、親が子供に読書姿を見せていると、子供も自然に読書好きになります。
勉強で最も大事なのは、意欲的に取り組むということなので、子供に作文を書きたい気持ちが生まれるということが重要なことなのです。これは、多くの人が見落としがちな点だと思います。
第二の理由は、正しい書き方を自然に覚えるということです。
親は、文章を書くときに、句読点をつけたり、会話をカギカッコをつけて改行したりすることを自然なことのようにやっていますが、実際には、口で話し耳で聞く言葉の場合は、句読点もカギカッコも改行もありません。
そのため、小1の子供が作文を書くときに、最もつまずくのが、この原稿の書き方という表記の部分なのです。
子供は、作文の中身を見てもらいたいのに、親は表記のミスにすぐに目が行ってしまいます。そこで、作文の勉強は親子のすれ違いになることが多いのです。
しかし、自分が話したことをお母さん又はお父さんが書いてくれるのであれば、口で話すことがどのように文章化されるかということがすぐにわかります。
これをもし、作文の書き方を教えてもらうような勉強として、「会話は行を変えて書く」とか「文の終わりにはまるをつける」などという説明を受けると、途端に退屈な勉強になります。
勉強としてではなく、親子の楽しい対話として自然に勉強と同じことができるようにしていくことが大事なのです。
親子作文は、親子の対話を通して、語彙の力と、考えて聞く力と、考えて話す力が同時に育ちます。
そして、この親子作文は、その場で話をした親子の間だけでとどまらず、ほかの家族にも広げていくことができます。
親子の二人の対話だけであれば、それを録音でもしておかなければならないかぎり、その場にいないほかの人がその対話の内容に参加することができません。
ところが、作文という形であれば、お母さんと子供が話して親子作文にした内容を、あとでお父さんやおじいちゃんやおばあちゃんも見ることができます。
その場にいない人でも、親子の合作の作文を見て、そこにコメントを書き加えることができます。もちろん、そのコメントにもふりがなをふっておきます。
すると、その作文は、家族全員が共有する対話の場になっていくのです。
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本格的にやる習い事は、6歳から始めるのがよいと言われています。
作文も6歳から始めるのが本当はいちばんいいのです。
しかし、6歳ではまだ文字が上手に書けません。
左ききの子は、「く」の字を逆に、「>」などと書いたりすることもあります。うちの子でした(笑)。
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作文をきっかけにした親子の知的な対話が、子供の頭をよくします。
しかし、その知的な対話は、明るく面白くなければなりません。そういう対話ができるのはいちばんの存在はやはり両親です。
両親は子供のことをよく知っているので、双方向的な話ができるからです。
玉子焼きを作る前に玉子が立つかどうかなどの話をしたあと、運動の得意な子には、三点倒立の話をしてもいいかもしれません。どのような知識も、身体を使って理解したことは、実感として心に残るからです。
最近の算数数学の入試問題には、そういう身体的な実感があると理解しやすくなる図形や立体の問題がよく出てきます。特に、公立中高一貫校の入試問題は、小学校の教科書の範囲で出すという制約があるために、生活実感の差で差が出るような問題がよく出ます。
教科書の上での勉強では、概念的な理解が中心になります。
すると、概念的に解ける問題や、操作的に解ける問題はすぐにできるようになりますが、立体的な図形の問題のように実感の伴う問題は、概念を理解しているだけでは必ずしもすぐにはできるようにならないのです。
さて、三点倒立も無事に終わって(笑)、玉子焼きの話に戻ると、玉子を割る前に、ここでもまたいろいろな話の材料が出てきます。
まず、なぜ玉子が、まん丸ではなく縦に長い形になっているかです。これは、玉子に聞いてみなければ本当のことはわかりませんが、いろいろな考えが子供から出てくると思います。
また、卵というものは、外側からの力にはかなり強くできています。ちょっと力を入れたぐらいでは潰れないようにできています。
そこで、言葉の森の小5の感想文課題にある「そっ啄の機」の話ができます。
「卵はね、中からヒヨコがかえるときに、外からお母さんのニワトリが、中からはヒヨコが、同時に殻をつついて出てくるんだよ」
「へえ」
「○○ちゃんも、お母さんのお腹から出てくるときはそうしたんだよ。覚えてる?」
「覚えてないなあ」
「というのはウソ。大体殻から出てないし」
玉子を割るときに、プロっぽい演出をして片手で割ることができますが、子供がやると大抵失敗します。
玉子を焼いているときにも、焼きかけた玉子焼きをフライパンから空中に放り投げて裏返す技がありますが、これも大抵は失敗してお母さんに叱られます。
そして、こういう過程を、スマホで写真と動画で撮っておくと面白いのです。
さて、作文の授業がある日に、先生に「今日は何を書くの」と聞かれて、子供が「玉子焼きを作った話」と言うかと期待していると、意外とそういうことはありません。
子供は数日たったことは忘れてしまうことが多いので、「今日、学校で遊んだこと」などとなってしまうことが多いのです。
しかし、それは、それでかまいません。結果を出すことが大事なのではなく、過程を楽しむことが大事で、そういう過程は必ず子供の中に残っているからです。
また、もし玉子焼きの話を作文で書く場合でも、お父さんやお母さんがいいと思っていた場面で書くことは少なく、子供はよくどうでもいいような話だけを書いておしまいにすることがあります。
それも、もちろんそれでかまいません。この場合も、結果は二次的なことで、子供が経験したという過程が大事だったと考えておけばよいのです。
書いた作文は、スマホで撮った写真などと一緒に保存しておけば、子供の成長の記録になります。
面白く書けたものがあれば、額縁に入れて写真と一緒に飾っておきます。額縁に入れると、どの作文も引き立ちます。
言葉の森では、プレゼン作文発表会をする機会があります。
そのときに、その玉子焼きの作文を発表するとしたら、スマホで撮った動画を途中で挿入して発表することができます。
すると、そこでも子供と両親がいろいろな相談をすることができます。
このように、作文の勉強は、書く前も書いたあともいろいろな形で生かせます。
親子の共通の経験を通して話ができるので、知的な話を面白くすることができるのです。
ところで、こういう話を読んで、「うちでは、まだそんなに作文が上手に書けるような年齢ではないし」と思われる小学校低学年の子のお母さんも多いと思います。
特に、小学校1年生のころは、まだ文字を書く力も弱いので、作文というひとまとまりの文章になるのは程遠いことが多いものです。
しかし、そういう時期からでも、作文を楽しく書くことができます。それが、親子作文という方法です。(つづく)
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作文をきっかけにして、親子で対話をすることが頭をよくする最も身近な方法であると書きました。
その際の対話の基本は、面白い話を難しく、あるいは似ていますが、難しい話を面白く、です。
小学校低学年までの子供は、親の話すこと、することに強い関心を持っています。
それは、子供の人生が模倣から始まるからであり、その模倣のいちばんの手本は両親だからです。
子供を読書好きにする方法はいろいろありますが、その最初の土台は、親が楽しそうに本を読んでいる後ろ姿をみせることです。子供は、自分も大人の真似事をしたいと思って、自然に本に親しみを感じるようになるのです。
親の模倣をする時期は、親の話をよく聞く時期です。
中学生ぐらいになり、反抗期になると、親が言うことに客に反発するようになります。その時期に、いくらいいことを言っても、子供の心にはストレートには入っていきにくくなります。
だから、子供が小さい素直な時期のうちに、子供に伝えたいことをたっぷり吸収させていくといいのです。そのための対話の基本が、面白く、難しくです。
小学校1、2年生の作文課題は、自由な題名です。
この自由な題名の時期に、お父さんお母さんが、子供の作文の題材になりそうな日常的な新しい経験を企画します。
それが例えば、玉子焼き作りだったとします。
低学年の作文の題材は、こういう身近な経験でいいのです。わざわざ遊園地に行って、おいしいものを食べて、お土産を買ってというような非日常的なものである必要はありません。
しかし、日常的なものでよいからと言って、子供だけに作文の題材選びを任せると、毎回、「きょうのこと」のような話になり、しかもその内容が、毎回同じような、「何とかゲームで何とかをした」となってしまうことがあります。
それが、ゲームではなく、毎回公園でのサッカーになる子もいます。また、毎回物語作りになる子もいます。
物語作りなどは、読書生活から自然に出てくるものだからよいことのように思えますが、小学校低学年で作文に書くことが毎回自分で作った物語ということになると、これもやはり問題です。それは、その子の生活が読書ばかりという単調な生活になっているということだからです。
玉子焼き作りの場合は、ただ卵をフライパンに入れて焼くだけであれば、大人なら数分でできます。面白くも何ともありません。
しかし、子供と一緒に玉子焼きを作るときは、そのときの親の働きかけの仕方によって、この簡単な作業がいくらでも面白く、しかも難しく考える経験になるのです。
まず、玉子を焼く前から、いろいろと面白い話題が出てきます。
以下、お父さんと子供の会話の例です。
「おなかすいたあ」
「じゃあ、お昼ごはんは、一緒に玉子焼きでも作ろうか」
「わあい」
「それでは、冷蔵庫から玉子を出してきて」
「はあい」
「お、ありがとう。この玉子を垂直に立てることできるかなあ」
「え?」
卵は、固い平らな机の上で慎重に垂直に置くと、ぴったり立つことがあるのです。
ちょうど、1円玉を机の上に立てるような感じです。
その原理を解明した話を、私は、これまで寺田寅彦の随筆で読んだと思っていましたが、青空文庫を見ると、中谷宇吉郎の「立春の卵」となっていました。あるいは、二人で同じようなことを書いていたのかもしれません。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/53208_49866.html
この原理をひとことで言うと、卵の表面にある小さなでこぼこの出っ張った部分の3か所の点が三角形を形作るとき、その三角形の中に卵の重心が来ると、その3点を土台にして卵が垂直に立つということです。
玉子焼きを始める前から、こういう面白い、しかも難しい話ができることが、親子の対話のよいところです。
しかし、これを延々とやると、子供は飽きて去っていきます。
(つづく)
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卵焼き作りからでも、親子でおもしろく難しい話ができるといいですね。
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作文の勉強が頭をよくするという話の続きです。
頭をよくするためには、難しいことを関心を持って考えるという過程が必要です。
これは、考えてみればあたりまえのことです。複雑なことを考えればそれに対応して考える枠組みができるので、それが他の勉強などにも生きてきます。
しかし、その難しいことは、ただ考えるわけにはいきません。興味のあることでなければ、人間は考えようと思わないからです。
遊びが子供の頭をよくするのは、遊びという興味のあるものに取り組むことを通して、その遊びに必要なことを考えようとするからです。
だから、同じような遊びであっても、子供が自分なりに工夫できる余地のあるものが、教育という観点から考えた場合はよい遊びと言えます。楽しいことが遊びの基本ですが、楽しければいいものではないということを大人は考えておく必要があります。
では、遊び以外の生活面で、子供が興味を持って難しいことを考える場面は何かというと、それは親子の対話なのです。
子供、特に小学校低学年までの子供は、親の言うことを関心を持って聞きます。それが興味深い話であれば、なおさらです。
ここで、親の話し方が重要になってきます。
親が子供に話しかけるときに、わかりやすく、面白く、かつ楽しい雰囲気で話すことが大事ですが、更に、もうひとつ「難しく話す」ということもまた大事なのです。
難しく話すというのは、難しい語彙も入れながら話すということと、難しい構造の文で話すということと、理解が難しい複雑な内容のことを話すという三つの面があります。
こういう高度なことできるいちばんの存在が、子供にとっての親です。
そして、そういう面白く高度な話をするきっかけにできる最適の機会が作文なのです。
作文には、子供が自分の興味を持っていることを書きます。すると、その作文を見て、お父さんやお母さんが関連した似た話を、お父さんやお母さんの体験談などを盛り込みながら話しやすくなります。
子供は、両親の体験談を聞くのが大好きです。その体験談を通して、自分の生き方の基盤を築いているのだと思います。
しかし、何もないところに、親が突然自分の体験談を話すというのは、話す材料が見つからないときはきっかけがつかみにくいのです。
しかし、子供の書いた作文があれば、それを題材にしていろいろな話の案が浮かびます。
また、毎週作文を書くとい課題があると、それが自由な題名の作文の場合は、話題作りを工夫することができます。
その話題作りとは、特に大がかりな遊びをしたり、どこかに出かけたりする必要はありません。日常生活の中で、ちょっとした一工夫で子供にとって新しい経験になるようなことを企画することができます。
例えば、日曜日などに、「じゃあ、今日は一緒に玉子焼きを作ってみようか」などということでいいのです。
その玉子焼き作りの過程でも親子の対話が生まれますが、それを子供が作文に書けば、またその作文をきっかけにして親子の対話ができます。
その親子の対話の中に、親自身の子供時代の体験などを盛り込みながら、面白い、しかし高度な話をしていくことができるのです。
小学校低学年のうちに、そういう親子の対話の習慣を作っておくと、子供が小学校中学年になり、作文の課題に感想文が入ってくるようになると、対話は自然により高度なものに発展していきます。
そして、その小学校中学年のころに、高度な対話を楽しく続けていれば、子供が小学校高学年になり、作文の課題が説明文や意見文の難しいものになったときに、更に行動な話を自然に続けていけるようになるのです。
しかし、こういう親子の対話の習慣が小学校低学年のころから作られていないと、子供が例えば小学校高学年で、公立中高一貫校の入試に出てくるような難しい課題の作文を考えるときに、親子が自然に対話をするということがかなり難しくなります。
作文の勉強というのは、ただ書いたものを添削するようなものではありません。そういう勉強では、すぐに限界が来ます。
添削を受けるというのは、作文の勉強のごく一部であって、作文の勉強のいちばん大事な部分は、事前の親子の対話と経験と、事後的な対話です。
その対話には、母親だけではなく父親の参加も必要です。父と母と子が、作文をきっかけにして難しい話を楽しくする習慣が日常的にあるということが、子供の頭をよくしていくのです。
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