s 目的と目標

1前書き


 (1)なぜ目的と計画を立てるのか
 世の中には、必要に迫られて行動する人もいる。また、そういう場合や時代がある。一方、自分の好きなことを好きなままに行動する人がいる。また当然、そういう場合や時代がある。これらは、ひとつには個人の性格の問題であり、もうひとつには時代やその場の状況の問題である。
 そして、これら二つの行動形態の間に、第三の行動形態がある。それは、目的を立て計画を立て予定を立て行動する形である。
 これら三者の間に優劣があるのではない。どの行動形態を主にするかは、個人の好みとその場の状況と時代の状況による。
 ここで論じるのは、この第三の行動形態、つまり、目的と計画に基づいた行動についてである。
 (2)目的を立てることの限界
 人間の認識には限界がある。
 それはひとつには、人間の認識に、知識の有無に左右される制約が伴うからである。小学生時代に正しいと思っていたことが中学生になったときに一面的な考えだったとわかることがある。同じように40代に正しいと思っていたことが60代に一面的だったと思うことがあるかもしれない。こういう認識の持つ不完全さと比較すると、必要に迫られた行動や気ままな行動はそれ自体充実した完全性を持っている。認識に基づいた行動に選択の余地があるのに比べて、必要に迫られた行動や自由気ままな行動には選択の余地がない。選択の余地がないということは、それだけそれらの行動が完全であるということである。
 また、人間の認識にはもうひとつ、より本質的な限界がある。それは、生物全体を含めた認識そのものの持つ制約である。世界には、時間や空間以外の次元があると考えられている。それは、一次元の次に、二次元、三次元が続くことを考えると、当然四次元、五次元、……多次元があると予想されるからである。また、二次元の平面をはう青虫にとって、人間の住む三次元の世界が認識しにくいように、三次元に住む人間には、四次元以上の世界は認識しにくい。
 だから、目的と計画を考える場合、当然これら二つの認識の限界を前提にして考えることになる。こういう限界を好まない人は、神の言葉やインスピレーションやほかの何か大きな権威に頼ることになるが、そういう立場は、私はとらない。
 (3)限界を押し広げることに美がある
 さてしかし、人間の行動の根本的な動機は最終的には好みの問題に帰着するとしても、私はより多くの人が目的と計画に基づいた行動選択の立場をとるべきだと考えている。それは、必要に迫られた行動や自由気ままな行動は人間以外の動物でもできる行動であり、多くの場合知的怠惰の証だからである。また、神や権威に基づいた行動はロボットでもできる行動であり、これもまた多くの場合知的怠惰の証にすぎないからである。
 人間の認識は不完全であり、不完全であるからこそ進歩するということに、私は限りない美しさを感じる。それは、野の花があるがままの完全さで咲いている美しさとはまた異なる、人間的な美である。これに比べると、神の国にあるような完全性とは、造花の美のようなものにすぎない。もちろん、そういう美を好む人がいることも当然ではあるが。

2世界と目的


 (1)世界の本質は「ない」ことの否定としての「ある」である
 はじめに、世界になぜ目的が生まれたのかを考えてみたい。
 世界、つまり人間の認識の及ぶ範囲でとらえられる私たちの周りの世界は、次のように考えることができる。
 世界は、そのものであり続けようとしている。そのものであり続けるということは、そのものでないことへの不断の否定である。
 その否定は、人間の認識の及ぶ範囲で考える場合、四つの方向で行われている。
 第一は、常に過去を否定しつつ現在を生起させているということである。空を飛ぶ小石は、絶えず一瞬前の自分の過去にいた場所を否定しながら、空を飛ぶ小石という自分自身を維持することができる。
 第二は、常に未来を否定しつつ現在を維持しているということである。成長する苗は、未来の実をならせるべき自分を抑制しつつ、現在の葉を茂らせねばならない。もし、芽を出したと同時に、葉も花も実もならせるとしたら、それは、生まれたと同時に枯れることを意味している。当然そういうものはこの世には存在し得ない。つまり、世界は常に未来を否定しつつ存在しているのである。
 第三は、自分自身の外部を否定しつつ自分自身であり続けているということである。ウサギは常にライオンから逃げながら生きている。犬は、暑いときに舌から気化熱を放散しながら、寒いときに筋肉を震わせて体内の温度を上昇させながら生きている。
 第四は、自分自身の内部を否定しつつ自分自身であり続けているということである。その象徴的な存在が、物質の中に生まれた意識である。サルトルの言うように意識は存在の無である。
 世界の進化ということを考えた場合、存在という世界がそのものであり続けるために不断に自分自身を否定し、それが今日見るような豊かな世界を生み出したと考えられる。その存在の否定の極致に意識が登場したことを考えると、意識が「意識を否定する」存在そのものを否定すること、つまり意識による存在の規定こそが世界の未来に待っていると考えることができる。
 内部の否定ということをもっと単純に論理的に考えることもできる。つまり、「ウサギ+ライオン」の世界を考えた場合、「ウサギ」と「ライオン」が常に内部で互いを否定し合っているから、つまり「ウサギ」と「ライオン」がともに「ウサギ+ライオン」の世界を否定しているからこそ「ウサギ+ライオン」の世界が成り立っている。
 以上、四つの方向をひとまとめにして、世界の中に生まれた否定が世界を世界たらしめているということができる。
 (2)重要なものは自己と世界の関係である
 さて、世界に無数にある否定の中で私たちにとって最も重要なものは、自己という否定である。世界にあるさまざまな否定が子分だとすれば、自己こそは否定の親分である。自己という否定なくしては、世界は私にとって存在の意味を失う。世界はお前のためにあるのではないと言われればそれまでだが、なぜ今私がいるかと言えば、私を取り巻く世界がその世界そのものであるために、私という否定を必要としたのだと考えることができる。
 確かに、人間だけで60億人近くもいることを考えると、自己もまた無数にあるのであり、自己の先にある否定として自己を超越した意識を想定することはできる。だがそれは、世界の進化の更に先の段階の話として考えるべきものである。
 (3)目的とは何か(四つの本質)――目的の空間的側面またはソフトな目的――
 自己もまた、自己そのものであり続けようとする。それは、自己でないことへの不断の否定である。その否定の、世界に投影されたものが目的である。簡単に言えば、おなかがすいたから、あそこにある木の実を取って食べようということである。
 目的は、世界を情勢として出現させる。木が高すぎるというようなことである。
 また、目的は世界に対峙する自己を長所短所として出現させる。木登りは得意だが、今日はちょっと足をくじいているというようなことである。
 自己の持つ目的はそれぞれの場面に応じて無数にあるが、本質的な目的は次の四つである。
 第一は、幸福である。現代の社会では生産性の観点から、ものを見る習慣のために、役に立たないものは意味がないと考えられがちだが、あらゆるものはそれ自体が幸福であることに第一の意味がある。
 第二は、向上である。自己は絶えず自己自身を向上させるという目的を持っている。石ころやバラは石ころやバラらしくありたいとしてがんばっているだけだが、人間における自己はそのより発展したかたちである「よりよい自己でありたい」としてがんばっている。
 第三は、創造である。植物や動物もその進化の過程で常に創造をしてきた。人間はその創造を更に推し進める力を持っている。創造の中には、成功も失敗もある。進化の過程で絶滅した多くの生物、例えばサーベルタイガーやマンモスがその長すぎた牙のために絶滅したとすれば、彼らの創造は失敗だったと言うこともできる。だがそういう無数の失敗がなければ、同時に無数の成功もなかったのである。カメは恐竜時代から、6500年前の隕石の衝突や氷河期にも耐えて生き延びている生物であり、その点では成功した生物である。しかし、世界中がカメの楽園になって満足する人はいない。新しいものを創造することは、成功失敗とは別の次元でひとつの独立した目的なのである。
 第四は、貢献である。人間は自己であるために時には実際に自己自身を否定してまで他の自己の幸福を願わざるを得ない。これは単なる逆説ではなく、自己がもともとそういう目的を本質的に持っているということである。確かに、貢献を、ドーキンスの言う利己的な遺伝子が装う単なる見せかけと考えることもできる。だが、利己的な遺伝子がたとえあるとしても、それがもともと貢献をその本質として持っていると考える方が、ものごとをより簡単に説明できる。それは、夜の間に昼があると考えるよりも、昼の間に夜があると考える方がものごとを説明しやすいのと同様である。手帳でも、ページの最初が午後1時から始まりページの真ん中に夜中があり翌日の昼が最後に来るようなものを持っている人は、特殊な仕事に従事している人だけである。
 ドーキンス(「利己的な遺伝子」の著者)はまちがっているわけではないが、特殊な仕事に従事しているのである。そして、その特殊な仕事の仕方を他の人の仕事にも適用しようとしている点でまちがっているのである。
 (4)目的と年代の関係――目的の時間的側面――
 人間は四つの本質的な目的を持っている。しかし、目的の空間的側面に着目したものである。目的の時間的側面は次のようなものである。
 10代までは、愛情を受けることと幸福に生きることが人生の主要な目的である。早期教育の欠陥は、もっと先の年代になってから主要な目的となる学習を先取りし、その結果本来の主要な目的である愛情に包まれた生活を犠牲にしてしまいがちなところにある。早期教育と愛情を両立させるためには、早期教育の分野を少数に絞ることである。
 10代は基礎的な学習の時代である。
 20代はより自覚し専門化した学習の時代である。世の中には、10代や20代での遊びが大切だと考える人もいるが、主要な目的はあくまでも学習である。
 30代は事業の時代である。つまり、この時代は、事業を通して、幸福に生き、向上し、創造し、貢献する時代だということである。
 40代は思想の時代である。これまでの思想家は、20代の学習の延長でそのまま研究を続け思想を職業としてしまうことが多かった。しかし、これからは、30代で実際の事業に携わらない思想でなければ、時代の要請に答えられるものにはならないだろう。
 50代は政治の時代である。30代の事業で培った経験を40代で思想として一般化し、それをより広範な場面でより貢献的な姿勢で実現する時代である。
 60代は芸術の時代である。あるいはその前に後進育成という課題が入るかもしれない。どれだけ多くの知識や経験に恵まれ、どれだけ多く世の中に貢献してきた人でも、人は年齢とともに古くなる。老人の主観的な貢献が、時に時代の進歩の桎梏となることもある。60代はまだ老人ではないが、まだ意欲も吸収力もあるその時代に、芸術に携わる準備をすることが必要である。芸術はがんばれば世界に美と愛を増大させることができる。しかも、どんなにやりすぎても人に迷惑を かけるおそれがない。人間は100歳まで生きることができると言われている。場合によっては120歳まで生きることもありうる。芸術はこの長い人生の後半を占める主要な目的である。
 天才的な努力の思想家、孔子は、次のように述べている。「吾十有五にして学に志、三十にして立つ、四十にして惑はず、五十にして天命を知る、六十にして耳順ふ、七十にして心の欲する所に従ふも、矩を踰えず」この人生に対する深い

3教育


 人生の目的である幸福・向上・創造・貢献を考えた場合、かつてはこの目的の実現の大きな部分を宗教が担っていた。しかし、宗教は大多数の人にとって単なる絵に描いた餅であり未来へのあてのない約束にすぎなかった。宗教はほとんどの人にとって心理的な安心感以外のなにものももたらさなかった。確かに一部の能力的にも環境的にも恵まれた人は、宗教によって心理的な満足以上の成果を得ることができたが、それはきわめてまれな例であった。
 近代に至り、科学が宗教に代わり人生の目的の実現を担うようになった。それは宗教よりもはるかに広範に人類に恩恵をもたらした。厳しい修行を経て「心頭滅却火もまた涼し」という境地に達するよりも、エアコンのスイッチを入れることで涼しくなる方がはるかに簡単だからである。しかし、科学はそこに人間の内面的な成長を必要としないがゆえに、次第に収穫逓減の法則に陥り、やがて科学や技術の発達自体が人間の幸福の実現にとってひとつの桎梏となる事態を生み出した。これは比喩的に言えば、どんなに切れる刃物を持っていても、それを狂人が持っている限り、人間の幸福には結びつかないということである。
 これからの時代において、人生の目的の実現を担うものは教育である。教育は、宗教と科学がいずれもその一面性ゆえに部分的にしか実現させることのできなかった人生の目的を、より全面的に実現させる可能性を持っている。そのためには、現在の教育自体が大きく形を変える必要がある。これまでの教育の弱点は、第一に目的そのものが明確に人間の幸福・向上・創造・貢献を目指していなかったことである(目的性)。第二に生徒が受け身であり、主体性を発揮しているのは先生と教材だけだったことである(主体性)。第三に情報技術を活用していないために、閉鎖的で高コストで非民主的なシステムになっていたことである(公開性)。これからの教育は、全世界の古今の英知に学びそれを創造的に発展させることで、人間の幸福を実現するための強力な道具とならなければならない。
 教育は四つの分野に分かれる。
 第一は科学である。ここには現在の国数英理社などの教科と哲学が含まれる。いわゆる知育的なものである。
 第二は倫理である。ここには人生観、生活規範、道徳など価値的なものが含まれる。いわゆる徳育である。現代の教育は不偏不党の立場から価値的なものの教育を家庭に任せている。しかしそれが逆に人間の生き方を脆弱なものにしている。「朝起きたら挨拶をする」という規範は、価値的なものである。客観的で普遍的な根拠は何もない。そこが普遍性を持つ科学との違いである。しかし人間が人間らしく生きるためには、この価値的歴史的なものを系統的に学ぶ必要がある。それは個々の核家族化された家庭では担いきれないものである。ただし思想信条の自由という観点から、倫理の教育においては民主的な決定と選択の自由が保証される必要はある。
 第三は工学である。ここには技術的なものがすべて含まれる。機械の発達により人間の手足の巧緻性は機械に関わる面では進歩しているが自然と関わる多くの伝統的な面では退化している。生身の手足によって現実の世界と対話する技術は、人間の可能性ばかりでなく、機械の可能性も押し広げるものである。この技術教育の発展した形態として芸術教育を考える必要がある。芸術を天性の才能やインスピレーションや独創性の観点からだけとらえると、教育との接点を見失う。芸術が爆発であっていいのは、個人の趣味の分野においてだけである。
 第四は体育である。ここにはスポーツを楽しむこと以外に、肉体の健康も含めたあらゆる身体的なものが含まれる。
 さて、第一の科学の分野をくわしく考えると次のようなことが言える。
 まず、20世紀後半に至るころから、知識教育は次第に行き詰まりを見せてきているということである。それは既に一般教養としての知識の量が人間の習得できる範囲を超えているからである。今後はそれぞれの教科の分野で必要な知識を大幅に精選していく必要がある。教科の知識の大幅精選のためには、その教科の教育関係者以外の人が主役になる必要がある。具体的には、国語における漢字の書き取り、文法の知識の大部分は不要である。パソコン時代には漢字は読みさえできればいいと大胆に考える必要がある。古文と漢文は作品の暗唱として学ばれるべきである。数学における計算練習も大幅に削減する必要がある。計算は電卓やエクセルに任せて、数学はもっぱら思考の訓練の学問として進めていくべきである。また英語や外国語の習得に費やす時間は無駄以外のなにものでもない。携帯型の自動翻訳機または翻訳補助機の開発を国家事業として進めるべきで、外国語の習得を個人の学習に任せるのは人間性に対する冒涜と考えるべきである。理社のほとんどの知識は、必要なときに調べられればよいということで押さえておくべきである。人間が百科事典になる必要はない。
 こう考えると、科学の中心分野は今後、知識という材料の蓄積でなく、知識を料理する方法である哲学に向かっていくと考えられる。ここで言う哲学とは、カントやヘーゲルの存在論や認識論といった狭義の哲学ではなく、あらゆる科学の背後にあるものの見方や考え方という意味での哲学である。
 哲学とは、ひとことで言えば、同一性の中に相異性を発見し、相異性の中に同一性を発見する力を育てる学問である。フランクリンは雷雨の中で凧を揚げて、雷と電気という異なる外見を持つものが実は電気という同一のものであることを証明した。縄文時代の人々は、採ってきたドングリを水に入れ、浮かんでいるものが虫食いであると判断した。これは、外見上同一であるドングリに、食べられるものと食べられないものの相異性を見つけたということである。高度な学問も、本質的にはこれらの発見と同じ性格を持っている。

4科学と宗教を超える教育の意義


 科学は、これからも進歩する。人間はやがて太陽を作ることもできるようになるだろう。予測できる範囲で言えば、科学の進歩における最も魅力的なものは、地球上の生物のさまざまな遺伝子を人間に移植できるようになるということである。
 空を飛び、海に潜り、何千年も生きるようなスーパーマンのような人間が遺伝子工学の応用によって誕生しうるのである。
 しかし、科学の到達点で、人間が真に幸福になれるかどうかは疑問である。また、そこに至るまでの副作用もかなり大きい。
 宗教も、これからさらに進歩する。しかし、宗教には、現実の人間を超えた面を持ちつつも、本質的には人間性に反する限界を持っている。その限界とは、未来を創造するという人間の本性と相いれないことである。
 神というものは、人間よりも普遍的な概念であるはずだが、往々にして人間よりもはるかにローカルな一面を持っている。中国の神は仙人のような姿形をしているし、ヨーロッパの神はどれもヨーロッパ系の顔立ちである。そして、それらの神々の言っていることは、更にローカルである。中東の神はエルサレムが世界の中心のように主張するし、日本の神は高天が原が世界の中心であるように主張する。しかも、その神話的世界が宗教の核心部分であるから、仏教とキリスト教が、たとえ当面の世界の平和を守ることでは一致したとしても、それはまったく表面的な一致であり、犬と猫がたまたま同じ軒下で雨宿りをしているようなものである。これらの宗教が話し合いによって世界の始まりに統一的な見解を持つようになるということはない。というのも、もともと宗教は民主主義とは無縁の体系であるからだ。宗教において絶対的なものは神の声であり、教団における民主主義とは運営上の技術的な手続き以上のものではない。だから、教祖が下す命令を信者は拒否できない。仏教もキリスト教も、それがまともな宗教であるかぎり、反民主主義的なものである。たまたま教祖の近くにいる人が、それほど異常ではなく、かつ強大な権力を持っていないから、世間の常識の範囲に収まった活動をしているというだけである。民主的な話し合いという要素は、神の意志とは共存しないのである。
 しかし、このようにローカルで恣意的で非民主的な体系であるにもかかわらず、宗教は人間を超えた力を持っており、時にその力が大きく成長することがある。
 今日の大きな宗教は、土着の神が政治的な力で他の地域にも影響力を持つようになったものである。A村の神は、A村が世界の中心であり、A村の村民が世界を支配する資格を持つと主張する。隣のB村の神は、B村が世界の中心であり、B村の村民が世界を支配する資格を持つと主張する。そして、たまたまA村が武器の力でB村を滅ぼしたとすれば、その分だけA村の神の影響力が広まったことになる。現在普及している宗教は、それが正しかったから普及したのではなく、その宗教を奉じる集団や国家がたまたまほかの集団や国家よりも武力的に強力だったから普及したのである。
 こう考えると、宗教の根元は個人に行き着く。あらゆる個人は自分の神話を持っている。つまり、自分こそが世界の中心であり、世界は自分のために回っているという根本的な視点を持っている。食事をとるのでも、昼寝をするのでも、他人のためにすることはできない。すべて、自分のためにするのである。とすれば、人間にとって木の実は自分に食べられるために成っているのであり、太陽は自分を温めるために今日も昇るのである。宗教とは、つまるところ、うちの祖先にこんな立派な人がいて、こういう家訓があるという程度のものである。
 しかし、宗教がこのように人間の意識に従属して生成し発展したものであるにもかかわらず、神が人間を超えた力を持つことがある。現実の人間が通常の意識ではなしえない予知、テレパシー、念力、病気直しなどが、神の力でなされることがあるということである。これは、エドガー・ケイシーや出口王仁三郎などの例を見れば、きわめてしばしば生起することであることがわかる。キリストもブッダも、同様の超能力を持っていたと推測される。
 人間の狭い個人的な意識から生まれたものであるにもかかわらず、人間を超えた普遍的な力を持つということが、宗教の問題に正しく対処することを妨げ、宗教を過大評価する考え方を生み出している。
 最近の歴史的な特徴は、この宗教の超能力性が大衆化していることである。かつでは、宗教の超能力は、神に選ばれたごく一部の人か、困難な修行に耐えたごく一部の人だけが持ちうるものであった。しかし、今日では、多くの人がそのような超能力を持てるようになっている。
 冒頭に述べた宗教の進歩とは、そういうことである。宗教は、これからますます進歩する。空中に浮揚したり、未来を予知したり、人の心を読んだり、動物や植物の生育や行動をコントロールしたりすることが、程度の差はあれ多くの人にとって可能になる。寿命も当然、何百年という単位に延びる可能性がある。人類が長い間目指していた不老不死と全知全能が、遺伝子操作のような科学的アプローチとは別の宗教的アプローチでなされつつあるというのが今日の時代の特徴である。
 しかし、そこで問題になるのは、神秘主義や超能力は低俗な人格と共存しうるという事実である。
 ここから宗教の本質について大胆に推測すれば、神というものは、これまで思われていたような人間の一歩上に存在するものではなく、人間の過去のデータの想起にすぎないのではないかとと考えることができる。神ができるものは、他の動物が既にできているもの、他の手段で既にできているもの、かつて誰かができたもの以上のものではない。空中を浮揚することは、既に鳥や蝶がやっていることである。水面を歩行することは、既にアメンボがやっていることである。テレパシーは既に他人が考えていることである。未来予知は、現在の延長で既に起こっているものを推測することである。その他の神の声による発明や発見も、既に過去の人類によってなされたものであることが多い。狂人が鋭い刃物を持てるように、人格的に未熟な人間が鋭い未来予知をすることは十分にありうる。
 と考えると、宗教はますます大衆化し、ますます多くの人がかつての教祖がしたような偉大な宗教的インスピレーションを持てるようになるが、その先に人間の幸福があるとは必ずしも言えないことがわかる。それは、過去の再現なのであり、現代を過去にしばりつけるものであり、人間を個人に分断し、個人間の果てしない闘争を過去の闘争の反映として生み出すものである。今ある穏やかな宗教はすべて、力がないから穏やかであるだけである。
 ここで、科学と宗教を超えた第三の道として出てくるものが教育である。
 教育の目指すものは、個人がこれまでの人類が到達した偉大な人格を再現することである。例えば、聖徳太子のようなヒューマニズム、中村天風のような勇気、二宮尊徳のような社会貢献を、個人が自分の人生において実現することを考えてみよう。そして大事なことは、その再現の上に、未来を創造し、世界とのより広範な調和を目指すことができるということである。現代と過去をつなげるという点では、教育は宗教と似通っているが、教育は宗教のように過去にしばりつけられる太いパイプを直接頭につきさされるようにつなげるのではなく、過去を汲み取るような細い井戸を人間の努力によって掘りつづけるようにつなげるということである。教育は過去を掘って取捨選択し、創造的に発展させるのである。これが取捨選択を否定する宗教との根本的な違いである。
 教育の目標は、科学のような副作用を持たない。そして何よりもその目標自体が高潔な人格を伴っている。
 しかし、そのためには、教育の方向に対しての意識的な努力が必要である。少なくとも、現在の学校教育が提供するものを消化しているだけでは、真実の教育は得られない。今日の学校教育は、受験という目的のもとにあり、求められているものの多くが、単なる記憶の再現である。記憶力を強化することで高得点を得ることができる漢字、英語、社会、理科などの教科に力を入れれば入れるほど、私たちは人間を育てているのではなく、人間を辞書や図書館に作り替えようとしていることになる。
 人間が真に学ぶべきものは、比喩的に言えば古典と作文とコンピュータと心身である。雑多な読み物が蔓延する中で、真に価値ある書物を読まなければならない(古典)。また、過去の記憶を再現することでなく未来を創造することを教育の中核としなければならない(作文)。更に、読み書きそろばん英語の技術がすべての人の知的な生活の基盤であるように、コンピュータの技術を習得することは未来の世代における知的生活の基盤になる(コンピュータ)。そして、人間は自分の心身を自覚しコントロールしなければならない(心身)。
 この、教育の持つ意義をまだ多くの人が気づいていない。
 だから、私たちが、この正い方向で教育の理念を深め、実践し、未来の教育のためのおおまかな地図を作る必要がある。

5言葉の森


 作文とは、哲学の現実世界における適用を、他者と共有するために、文章で正確にわかりやすく美しく表現する技術である。
 言葉の森の目標は五つある。
 第一は、子供たちの作文技術を向上させ、書く楽しみを育てることである。また、その土台として読む技術を向上させ読む楽しみを育てることである。
 第二は、作文を通して子供たちの個性・知性・感性を育てる教育をすることである。個性とは、新しいものを創造しようとする姿勢である。知性とはものごとを知的にとらえる力である。感性とは人間的な感受性と品性である。この人間教育を宗教や書物によってではなく教育によって行なうことである。
 第三は、作文を通して子供たちに生涯継続できる出会い・触れ合い・向上の場を教室として作ることである。
 第四は、日本および世界に新しい作文文化を作り出すことである。
 第五は、言葉の森で培った方法と組織を生かして、幸福・向上・創造・貢献を目的とした、目的性・主体性・公開性のある新しい教育を作り出すことである。
 
 第五の目標についての補足。
 私たちは言葉の森を通して新しい教育を実現する。
 第一は、今日の無目的な又は受験だけを目的とした教育を批判し、人間の幸福、向上、創造、貢献という普遍的な目的と、それぞれの年代に応じた目的を明確にした教育である。
 第二は、成績や合否という競争の恐怖に過剰適応するかたちで生まれた受動的な教育を批判し、学ぶ喜びに立脚した主体性のある教育である。これが最も多様な工夫を必要とするところである。
 第三は、閉鎖的で非効率的で権威主義的な教育を批判し、オープンで効率的で民主的な、情報技術を駆使した教育である。
 この新しい教育を、限定された教室内の単なる教材ソフトの開発としてではなく、社会そのものの学校化を展望した、文化のシステムとして開発することである。
 
 これらの目標を実現するために力を入れる次元を、指導、運営、経営の三つに分けて考えることができる。
 (A)指導
 最も重要なことは、指導を充実させることである。
 作文指導を充実させるための方法は六つある。
 第一は、読書力、字数力などの基礎力をつけることである。
 第二は、長文音読、短文暗唱などで規範を反復して模倣することである。
 第三は、投票や感想などで、同進度の生徒と対話・交流をすることである。
 第四は、これらの指導を項目化、数値化し、形のあるものにすることである。
 第五は、イベントを企画することである。
 第六は、講師、生徒、父母の主体的な参加を生かすことである。
 
 (B)運営
 次に重要なことは、バランスのとれた運営をすることである。
 教室運営の要は六つある。
 第一は、拡大は宣伝に比例するということである。宣伝や再送は独自の課題として取り組む必要がある。
 第二は、継続は連絡に比例するということである。教室から父母への連絡の密度が高まるほど生徒の継続率が高まりクチコミ入会率が高まる。
 第三は、実力は自習に比例するということである。生徒に力がつくのは先生の指導の巧拙よりも生徒の毎日の自習である。割合で言えば、指導3自習7というところである。
 第四は、自信は入選に比例するということである。
 第五は、確信は意義を知ることに比例するということである。
 第六は、会議が運動のはずみになるということである。そのために、分野別に委員会組織やプロジェクトチームを作る必要がある。
 
 (C)経営
 最後に重要なことは、情勢にあった経営をすることである。
 経営の重点は四つある。
 第一は、ネットを生かしつつ地域に根差すということである。
 第二は、コストを削減しイベントに力を入れるということである。
 第三は、利益を還元する仕組みをルール化し全員が主体的に取り組む条件を作ることである。
 第四は、連絡を強化し、父母が教室との一体感を持てるようにすることである。
 以上は、頭文字を取って「ネコリレー作戦」と名づけた2000年春の方針に一部追加したものである。

6今年の目標


 今年の目標は、次のとおり。
 (1)生徒数360名達成
 (2)ウェブデータベース体制の確立
 (3)生徒数3000名システムの準備