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  3月20日(木)は休み宿題(再掲)
  【重要】3.4週の作文検定模試の日程
  オオイヌノフグリの思い出(うるっち/かん先生)
  男の子・女の子(まあこ/ゆた先生)
  発表会で得たこと(ひまわり/すぎ先生)
  文章は料理(イルカ/かこ先生)
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言葉の森新聞 2008年3月3週号 通算第1023号
先生への欠席連絡などは伝言メールで
http://www.mori7.com/outi/d/

森新聞 http://www.mori7.com/mori/
3月20日(木)は休み宿題(再掲)
 3月20日(木)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987)
 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
 「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php
 「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php
【重要】3.4週の作文検定模試の日程
 3月4週に、日本語作文小論文研究会による作文検定模試が行われます。課題は、3.4週の言葉の森新聞に掲載します。
 通常の作文と同様、自宅で書いていただく形になります。このため、時間制限などができませんので、正式の作文検定ではなく作文検定模試という扱いになります。
 通学教室の生徒の場合は、時間制限のもとで行いますので、正式の作文検定となります。(課題は、通信教室とは異なるものを当日配布)
 通信の生徒でも、港南台(横浜市)の通学教室に来られる方は、正式の作文検定として受検できます。人数に制限がありますので、ホームページから事前に予約をしてください。
 通学の生徒は、予約をする必要はありませんが、通常の曜日と異なる曜日に出席する場合は予約ページで予約をしてください。
予約のページ http://www.mori7.com/mori/yoyaku.php (3月21日(金)午後8時より受付開始)
 通学教室の作文検定の日程は、3月22日(土)−3月28日(金)(平日は午後4時から6時の間に入室。土曜は午前9時半から10時半の間に入室。作文を書く時間は75分程度です)

 なお、作文検定も作文検定模試も、今回は費用はかかりません。
 検定結果の返却は4月下旬になる予定です。したがって、4月1週から退会される予定の生徒の場合は、検定試験ではなく通常の作文として添削したものを4月1週に返却します。
 小1以下 12級 自由課題
 小2   11級 〃
 小3   10級 題名課題
 小4    9級 〃
 小5    8級 〃
 小6    7級 〃
 中1    6級 感想文課題
 中2    5級 〃
 中3    4級 〃
 高1以上  3級 〃
オオイヌノフグリの思い出(うるっち/かん先生)
 今年になって初めて、オオイヌノフグリを見かけました。青く小さなその花は、私のいちばん好きな花です。この花が咲いているのを見ると、心浮き立つ春の訪れを感じるのです。

 8年前の2月、当時臨月を迎えた私は産休に入りました。毎日散歩をすると安産につながるという話を耳にし、1日に2時間程度の散歩をすることにしたのです。当時暮らしていた街は散歩コースには事欠きませんでした。住宅街を抜けるとのどかな田園風景が広がっています。とりわけ川沿いの田んぼの中の畦道を歩くコースが私のいちばんのお気に入りでした。金色に輝くベールを纏ったような春先の淡い光を浴びながら、一歩一歩大地の温もりを確かめるように歩いたものです。まだまだ真冬の寒さが厳しい時期ですが、それでも、じっと春を待つ生命の息吹がそこかしこから感じられました。長男の誕生が自然の営みとぴったり重なるような気がして、たったそれだけのことなのに、この宇宙すべてに祝福されているように感じたものです。今思えばなんて能天気だったのだろうと笑ってしまいますが。
「早く出ておいで。ママが守ってあげるから。全然怖くないよ。早く会いたいよ。」
おなかの中の長男にそう心の中で声をかけながら歩く畦道の道端は、満開のオオイヌノフグリで彩られていました。
 
 早いものであれから8年。長男は元気過ぎるほどやんちゃ坊主に成長しました。あれこれと問題を起こし私の心配の種は尽きません。気がつけばため息ばかり、途方に暮れることもしばしばです。つい先日も担任の先生から苦情の電話をいただき、またかと落ち込んでいたところでした。

 オオイヌノフグリが咲きはじめると思い出します。
「早く出ておいで。ママが守ってあげるから。」
そう語りかけながら歩いたあの道を。ただ無事に誕生してくれることだけを祈ったあのころを。迷ったときは原点に戻るのがいちばん。青く小さな花は、そう励ましてくれているような気がしました。

男の子・女の子(まあこ/ゆた先生)
 

 うちには現在中学1年生の息子がいるのですが、自分の子ども時代と比べてあまりにも違うので、これまで困惑ばかりしてきました。
 ところが先日、“男性と女性は違う”という話を聞く機会があり、違って当たり前なんだと思えるようになりました。

 たとえば、こうです。息子は小学生時代、なかなか宿題をしませんでした。マンガを読んだり、パソコンをしたり、好きなことばかりしています。こちらは心配なので、「早く宿題やっちゃいなさい」などと何度か言うのですが、息子は「はーい」と気楽に答えては、遊び続けます。結局しまいには「なんでやらないのっ!?」と責めることになってしまうのです。
 子ども時代の私は、学校から帰ったら、まず宿題をやり終えないと気がすみませんでした。学校の先生が「これをこのようにやってきなさい」と言ったら、なんの疑いもなく言われたとおりにやりました。真面目な優等生です。
 ですから、私は宿題をしないで平気でいる息子に対して、「どうしてやらないの!?」と言いたくなります。言われたとおりにやれば、叱られずにすむし、成績だって上がるのに。

 これは性格的なものなのかと思っていたのですが、実は「男女の違い」のためのようなのです。
 男性は納得のいく理由と結論を自分で見つけて、はじめて自ら行動できるのだそうです。 宿題をやらないのは、息子にとって「宿題をしなくてはいけない理由」がないから。“後でもいい”とか“こっちの方が面白い”とか「やらない理由」の方が勝っているのでしょう。
 一方、小学生の私には「宿題をしなくてはいけない理由」なんて必要ありませんでした。「だって先生が言ったんだもの。」それだけ。女性は、他者が「自分と同じ考え」であることを望むのだそうです。先生の言うことに同調することで安心していたのでしょう。

 お母さんは「どうしてやらないのっ!」とよく言いませんか? ところがこの場合、“どうして”と言っておきながら、母(女性)が求めている答えは「理由」ではなくて『共感』なのだそうです。確かにそのとおりで、私は、息子に「そうだね。お母さんの言うとおりだね。」と答えてすぐさま行動してほしいのです。
 だというのに息子はだまり込むばかりです。私はイライラします。男の子はこのとき、“どうして”に答えようと『論理』を探しているのだそうです。しかしたとえ息子が「後でやろうと思っているんだよ」と理由を答えたとしても、イライラした私は「グズグズ言ってないで、今すぐやりなさいっ!」と百倍くらいの勢いでやり込めてしまいます。
 母が求めている答えと、息子が探している答えが違うのですから、結局もの別れに終わります。

 性格的なものなら、親として良い方向に持っていかなければと焦りますが、これを男女の違いだと解釈すると気が楽になります。違って当たり前だと思えるのです。
 ただ、『論理的』に理解できるようにアプローチするのはちょいと難しい。うちの子は、私が説明してもニコニコと聞くだけであまり進歩しません。楽しいおしゃべりで終わってしまいます。息子は母に難しい話など求めていないみたいです。
 同じことでも、主人が論理的に説明すると、息子が劇的に変わる場合があります。男は男同士のほうがスコーンとはまる説明ができるようです。

 息子が3才のとき、それまで私のことを「ママ」と呼んでいたのに、突然「お母さん」と言い出して驚いたことがあります。
 幼稚園でお母さんの歌を習った息子が、主人に「どうして『お母さん』っていうの?」と聞いたので、主人が「お母さんは日本語で、ママは外国の言葉だよ。赤ちゃんがマ・マっていいやすいからママって言うんだよ」と説明したのだそうです。すると息子が「ぼくは日本人だし、赤ちゃんでもないから、お母さんって言うよ」と言って、私のもとに「おかあさ〜ん」と呼びに来たのです。
 その瞬間から、息子は「ママ」と呼んでいたことは忘れてしまったようです。一度論理的に納得すると、男の子は迷いがないように思います。

 心配ないもので、中学に入ったら宿題は学校ですませてくるようになりました。入学してすぐ、学校の先生に「空き時間に宿題をやってしまうといいよ」とアドバイスされたそうです。それが息子の『論理』にはまったのでしょう。 家では相変わらず好きなことばかりしていますが、宿題に関してとやかく言うことはなくなりました。。
 男の子はマイペースで不器用で、すんなり成長してくれないけれど、ひとつひとつかみしめ、悩み、乗り越えて、納得しながら自分で大人になっていくのですね。

 最後におまけですが、夫婦の間でも男女の違いには要注意。 「まったくもう、全然勉強しないのよ」とグチった私に、主人が「それは君がガミガミうるさいからだよ」と答えたので、カチーンときてケンカになったことがあります。
 このとき私は、まず「まったくあいつもしょうがないなぁ」という『共感』が欲しかったのです。しかし主人はいきなり『論理』で解決法を語り出してしまったのですね。 「どうして私が責められなくちゃいけないの」という私と、「どうしてこの論理が理解できないんだ」という主人。“どうして”が全くズレていたのだと、今になってわかりました。

                                
発表会で得たこと(ひまわり/すぎ先生)
 久しぶりにフルートの話題です。始めて二年半になりますが、子どものころは飽きっぽかった私が、初めて楽器を手にした日からほぼ毎日、近所迷惑にならない程度に練習を続けてきました。
 完全個人レッスンなので、普段は孤独な戦いです。先生のアドバイスが、頭では理解できても、どうしても音色に表現できなかったり、ときにはアドバイスの意味さえ、なかなか理解できないこともあります。たぶん楽しいから続けているのだと思いますが、冷静に考えてみると何が楽しいのかわからなくなるときもあります。練習の半分は、ピアノで言えば「ハノン」のような楽譜で、単調なくせに完璧に演奏するのが非常に難しいもの。練習曲は、わざと意地悪に作曲したとしか思えないような(笑)、跳躍の連続などでくじけそうになります。
 しかし、先日、心から楽しいと思えることがありました。久しぶりの発表会です。これまでの発表会は、教室のスタジオの中で行なうものでしたが、今回はちゃんとしたホールだったので、練習にも気合が入りました。トリオ(三人)とカルテット(四人)のアンサンブルで、二曲演奏しました。
 新しいホールだけあって、響きがすばらしく、とても気分よく演奏することができました。この機会に多くの収穫もありました。他の出演者たちの演奏を聴いて、また話を聞いて、大いに勇気づけられたのです。
 以前から私が注目していた人に話を聞くことができたのですが、彼女は、学生時代から数年のブランクを経て再開したそうです。本当にフルートが好きでなくては、大人になって、忙しい仕事の傍ら、練習を再開しようと思わないでしょう。今回もまた、すばらしい演奏を聴かせてくれました。長い曲でしたが、最初から最後までスタミナ切れもなく音色も一貫していて(スタミナ切れは、私の大きな課題です……。)、相当練習を積んだことがよくわかりました。
 私より年齢はずっと若い彼女ですが、今では私の憧れの人です。「彼女のように吹けたらどんなにいいだろう。」この思いが、一見つまらないスケールの練習や、投げ出したくなるようなややこしい練習曲に挑戦する原動力になってくれます。
 同じ目標に向ってがんばっている仲間の存在は貴重です。今回の発表会で、孤独な練習の日々が大きく変化したように思います。また、誰かに憧れるというのも、とても大切なことです。スポーツにしても勉強にしても、たくさんの仲間がいて、目標とする憧れの人がいれば、つらいことも乗り越えていけるし、決して孤独ではないと思います。
文章は料理(イルカ/かこ先生)
 5年生の長文の中に、とても興味深い話が載っていました。文章は料理であるというのです。文章も料理も、相手あってこそのものだと筆者の外山滋比古さんは言っています。料理は、おいしいと言ってくれる人がいるからこそ腕を振るって作ろうと思うものです。何の料理を作ったのかわからないような料理は、料理とも言えないのでしょう。おいしい料理には栄養もあり、お腹もいっぱいになって満足できるもの、さらにはもう少し食べたいと思わせるような要素がなければならないわけです。文章もこれと同じで、まず、何を書いているのかわからなければなりません。先が読みたくなるような文章、面白かったと思わせるような文章がよいのです。面白いというのは「相手の関心をひくもの」であり、それは「興味深いもの、知的な快い刺激を感じさせるもの」なのだそうです。
 この話を読みながら、うんうんと頷いている自分に気がつきました。すごく納得のいく内容なのですが、このような文章が書けるようになるには長い時間がかかるものと思われます。そこにたどり着くまでには様々な経験をしなければならないかもしれませんし、いろいろなジャンルの文章を読まなければならないかもしれません。ただ、今皆さんができることは、自分だけが納得するような文章を書くのではなく、いかに相手の理解を得ることができ、相手が共感を覚えられるような文章を書くということだと思います。
 外山滋比古さんは、「クッキングスクールで料理の勉強をする人はたくさんいるが、文章の料理を教えるところは、ごくすこししかない。」と書いていますが、言葉の森は文章の料理教室なのです。どうやってスパイスを効かせるのか、栄養はどうなのか、盛り付けはどうするのか、料理教室でするようなことを文章で学んでいるわけです。そして一番大事なことは、皆さんが誰かに食べてもらいたいと思う気持ちです。食べてもらっておいしいと言われたいという気持ちです。おいしいと言われれば、嬉しくなりますね。また作ろうと思うでしょう。その気持ちがあれば、いろいろなことに興味を持ったり、情報を収集したりすることもできるはずです。それは全て料理を作る時に役立つと思います。しかし、途中であきらめてしまってはいけません。一流と言われるシェフ達は、誰もが一度や二度の挫折を味わっていると思います。料理を作れなくなってしまう、いわゆるスランプに陥ってしまうこともあるでしょう。何をするにしても、上達するためには自力で山をいくつも乗り越えていかなければならないものです。山を乗り越えていくたびに、人間は一回りも二回りも大きく成長するのです。いつか、料理教室意外の場所で「おいしい。また食べたいな。」と言われるように、言葉の森クッキングスクールで一緒に頑張っていきましょうね。

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