言葉の森Hilo教室新聞2007年5月号(通算第18号)
●お迎え4時50分までに これまでお迎えは5時までにということで、お願いしてきましたが、4時50分までに変更させていただきます。私事のお願いで申し訳ありませんが、その頃までには、ほぼ毎回、すべての生徒さんが書き上げているので、作文を書く時間的には問題ないと思います。よろしくお願いいたします。
●芝生への車乗り入れはできません ドロップオフ、ピックアップの時間には車が込み合うため、アパート向かって左側の芝生に駐車してもらっていましたが、このほど管理人から注意を受けましたので、乗り入れはできなくなりました。(-_-;) ドライブウエイ奥に若干の駐車スペースがあります。そちらもご利用ください。
●←風音ちゃんから賞品寄贈 交換留学生として日本に行っていた風音ちゃんが、かわいいゴム印付の鉛筆と小さな色鉛筆セットを作文教室の賞品として寄付してくれました。ありがとう!
●久々の集合写真→ 長期お休み中の洋輔くんと、たまたまお休みだった風音ちゃんと先に帰ってしまったニコラスくんがいませんが、久々の集合写真です。現在、洋輔くんを入れて生徒さんは9人です。
4月の清書作品
ピカチュウ ニック
ぼくはピカチュウがすきです。どうしてかというときいろだからです。でも、ほっぺたはあかです。みみはくろときいろです。しっぽはちゃいろときいろです。めはくろです。ピカチュウはくるまのなかのブースターにすわってます。きのう、ママがピカチュウをきれいにあらいました。
イミロア かっか
四月二十五日にイミロアに行きました。イミロアはしろくて、大きいのです。二年生のぜんぶのクラスが行きました。
一ばんたのしかったことは、イミロアにあるプラネタリウムに行ったことです。プラネタリウムは一ばんイミロアの大きいところで見せるものです。プラネタリウムはみるためのものです。テレビみたいなものです。でもいっぱいおおきないすがあって、がめんが上にあるのです。一じかんぐらいあったので、いっぱいの人がねちゃいました。まえもプラネタリウムはけっこうくらいところだから、だれかがないていました。
二ばんめにたのしかったことは3Dを見たことです。3Dはめがねをかけたらがめんが出てくるものです。
イミロアはこんなにたのしかったっけーと思いました。
イミロア うさぎ
四月二十五日にイミロアに行きました。イミロアは大きくて山みたいなかたちでしろかったです。二年生のクラスが行きました。
一ばんめにおもしろかったのはプラネタリウムです。そのお話は見たことのないお話でした。ずうっとみてるとねむくなっちゃいました。でも、おもしろかったです。そのお話には二人子供が出てきたけど、こえしか出てきませんでした。まるでとうめいな子供みたいでした。
二ばんめにおもしろかったのは3Dでした。みんなくろいめがねをかけてうちゅうのテレビみたいなのを見ました。めがねをかけてみるとえがとび出しました。ほしが前にくるとみんなはとろうとしました。
わたしはまたクラスといっしょにイミロアに行きたいなと思いました。
しずかなあさ GEN
あさはだいたい自分でおきます。まいあさ、その時間におきるので、体がなれているのだと思います。まるであたまの中で目ざまし時計がリーンとなるみたいです。まえに目ざまし時計を使ったことがありますが、やかましい音がとてもいやでした。
もしぼくが目ざまし時計を作るとしたら、やかんのじょう気でぼうがうごき、ベルが玉つきみたいにどんどん鳴っていくようなのがいいです。
お姉ちゃんは目ざましがなっても、お母さんに起されてもおきてきません。ぼくとぜんぜんちがうなと思います。
あっ、やってしまった! はじくん
ぼくは悪いことをいっぱいしたことがあります。たぶん、ほとんどの子供はいつかどこかでぜったい悪いことをしたけいけんがあるでしょう。子供が悪いことをする前には、というか、ぼくが悪いことをする前には、起こる時まで悪いことだと思わない。悪いことが起きたら、悪いことしちゃったと思うけど、もう遅くて、母に
「まったく、もー(もーは牛みたいに)。なんで頭使わないの。」
とどなられるか(ふつうはぼくは母の怒りをやわらげるために「あ、牛になった」と言いかえす)、気づかれずに家に入れるかです。
一つ覚えている、僕がやった悪いことはテニスラケットで魚をねらって石を打ったことです。僕の学校のちかくの川で、家からこっそり持ち出したテニスラケットで、川の石をテニスラケットで当てて、魚をねらいました。なぜ悪いと思ったかというと、魚が死んだら川の命が台無しになるから、悪いことだと思いました。
ほかの悪いことはガラスにボールを当てたことです。一人で庭でボールで遊んでいたら、ボールが的を外れて、じゃばらのような窓に当たってこわしてしまいました。どうして悪いかというと、窓ガラスがこわれたら、虫が入ってくるからです。
どうして、ぼくがそんなことをしてしまうのかというと、楽しいからです。スリルを感じます。でも、こういう悪いことをしてきて分かったことは、頭を使って予測することが大事だということです。
多角的なものの見方 あいな
私たちは日常において、いつもある視点からある光景を見る。しかし、相手の立場、別の視点に立ってみることは生きていく上で非常に大切なことであり、私も多角的に物事を見たいと常日頃、思っている。
私が多角的なものの見方をしたいと思う理由は、多角的な見方だと物事に柔軟に対応できるからだ。たとえば、とてもいい大学に受験して落ちてしまったら、落ちたことばかり考えないで、すべりどめの大学があればそこにいけると思えばいいし、すべりどめがなければあと一年、なぜ大学に行きたいのかなど、考える時間ができたと考えればいい。
私が多角的な見方をしたいと思うもうひとつの理由は、多角的な見方をする人たちは他人と分かり合えるからだ。たとえば、人と人が分かり合えれば戦争は起こらないはずだが、一面的な人ばかりだとしたら自分の意見を押し通そうと思って戦争が始まってしまう。
確かに一面的な考え方の良さも分かる。たとえば、今度、サッカーゲームがあって、そのゲームに勝たなければサッカーをやめると考えていれば、確かに気合が入る。しかし、物事を一面的にしか考えられないことは、「井の中の蛙大海を知らず」につながってしまいかねない。だから私は多角的なものの考え方がいいと思う。
あだ名に反対 ほっちー
全ての人間には名前がある。その名前の他にニックネームとあだ名がある。僕はあだ名がきらいだ。もしもあだなで呼ばれるなら、なぜ名前を持つのだ。もしも自分がそのあだ名で呼ばれて良ければいいけど、嫌だと心が傷つく。名前は自分だけの宝で、自分を自分だと示すものだ。「博士」などというあだ名をつけられたら物知りだという感じがするが、悪いあだ名で呼ばれると、自分の存在感が薄まる。
前にも述べたように名前は自分だけの宝だ。いいあだ名か、自分が作ったあだ名じゃないかぎり、ほかの人には僕の名前を決める資格はまったくない。名前は自分が誇りに思うものだが、あだ名には何の価値もない。僕が日本にいたときにときどき嫌がらせで「ほたて」と呼ばれることがあった。「ほたて」といわれたときは毎回頭にきた。あだ名で嫌がらせが一つ増えた。ほかの嫌がらせと違い心が傷つく。
あだ名がいい場合もある。もしも「博士」というあだ名をもらったら、それは、みんなが君のことを物知りだと知っているよということだ。でも、そういうあだ名をもらう人は悪いあだ名をもらう人より少ない。「私たちの幸福がほかの人々の不幸に支えられているのであってはならない」という名言もあるように、一人嬉しくて、九人寂しかったら、0人嬉しくて0人寂しいほうがましだ。
文責・浅岡佳代 言葉の森ホームページ http://www.mori7.com/