森リンで高得点を取るためには、話題を広げることが大切です。
論文というと、自分の考えを述べるだけのように感じる人がいるかもしれませんが、意見だけの文章は逆に説得力がなくなります。意見の裏づけになる具体例を書くことが、面白くかつわかりやすい小論文を書くコツです。
具体例には、自分の体験によるものと、自分の知識によるものとがあります。小論文では、このどちらもが大切です。幅広い実例を書くためには、普段からいろいろなことに挑戦するとともに、読書によって教養を広げておく必要があります。
なぜ読書が大切かというと、単なる断片的な知識では、小論文を書くときにはその知識が生かせないからです。生きた知識は、文脈を伴った知識です。用語集を暗記して語彙を増やしても、小論文にその語彙を生かすことはできません。読書を通して得た語彙は、一見関係の薄いように見えるテーマにも活用していくことができるのです。
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コメント欄
私は「森リン」という仕組みに多少動じておりました。
何故なら、文章というものはあくまで読み手によるもので、
傑作か、悪文か、読み手によってずいぶんと分かれるものだからです。つまり作文というのは極めてアバウトなものであり、これだから良い、悪いというきまりまありません。つまり
これといった判断基準はなく、読み手にそのすべてがまかされて
いるというわけです。では、例えば太宰治、芥川龍之介などの
名のある文学者達の文章がなぜ「良し」とされるのか、
先生も疑問に思うことでしょう。生意気かもしれませんが、私もそう思います。その答えは、いかに世間一般の「大半」の「大部分」の人々の心を捕らえるか、ということだと私は結論付けました。つまり、読み手の大半が「面白い」と思える文章こそが真の良き文章だということです。私は太宰治のファンですが、先生は違います。けれども、彼の文章を「好き」と言っている人が大部分を占めているからこそ、彼は日本文学史に名を残すような文豪となったのだと私は確信しております。
もう少し深く検証すると、つまり、文章というものは人間が書き、人間が読んで何かを思い、笑ったり、胸打たれたり、怒ったりすることで初めて成り立つ、そういう、絶妙なバランスを持つものです。けれども、読み手が人間である限りその「良し悪し」の判断がある程度つけられるのではないか、と私は思います。だから、私はその判断を「森リン」という機械にまかせるのはどうかと思うのです。例えば、森リンの判断基準に「字数に対する漢語の割合」というものがありますが、夏目漱石の文章に、平仮名だけのものもありますし、太宰治にカタカナだけの文章もあります。人間が読んで良し悪しを決める「文章」を、果たして機械が採点して良いのか、と疑問に思っております。私以外にもたぶん同じ事を思っている人がいることでしょう。そこのところ、どうなんでしょうか。
先生、生徒である私が、真剣に問うているのです。
誤魔化さないで、ちゃんと答えてください。
先生は私が真剣に質問しているのに、それに対して
真面目に答えてくれたことは一度もありませんね。
いつも、「あなたは考えが浅いから、私の言っていることなど
到底理解できない」と言って誤魔化して逃げますが、
あなたは先生なんですから少なくとも生徒が真剣に
質問しているのにそれに対して答えない、お茶を濁す、
それはいけないと思います。
第一、「作文の良し悪し」という、この教室の存在意義とも言える本質的、根本的問題について真っ向から議論をしかけているのに、先生はいつも私を浅はかだと決め、「戦意喪失」と言って
逃げます。私が仕掛けた疑問に、真っ向から立ち向かいません。これは生徒であるすべての人にとって最も重要なものですので、説明をする必要があると私は思います。
どうか、ご返信、おねがいします。
だって、わかなちゃんて、喋っているとくたびれるんだもん。(笑)
さて、森リンは、機械による評価のための評価ではなく、人間による指導のための評価を出しているんだよ。ここを勘違いしないことが大事。
それから、文章の評価にはいろいろな要素がある。語彙が豊富だとか、漢字が多いとか、読みやすい文であるなどいうことは、その一つの要素に過ぎない。どれか一つの要素を取り出して論じれば、必ず評価は歪んでくる。
評価の意味について、くわしくは、ここに。
http://www.mori7.info/moririn/in_mori_tetu.php
「評価の意味」を拝見させていただきました。
これはよほどに哲学書を熟読しているな、
と感心させられる文章でした。
しかし、反面、哲学的に難しくして誤魔化しているだけのようでまったく初心者に説明するような意思がないように思われました。文を意味不明にして、「これが哲学」とか適当なことを言い、本質的に重要な(私が先ほど質問したこと)答えになっていないのです。これこそまさしく「誤魔化し」というものでは
じゃあ聞きます。
「さて、世界に存在するものの最も根本的な概念は、存在物です。存在物は主語で、存在は述語です。存在物は存在するという行為を伴うことによって初めて存在します。存在するという行為は、存在しないことつまり無を否定することによって成り立ちます。言い換えれば、存在物は存在と無の矛盾した統一として存在すると言ってもいいでしょう。
存在と無の統一は、四つの面を持っています。第一に存在物は外部の無に抗することによって存在します。第二に存在物は内部の無を不断に否定することによって存在します。第三に存在物は過去の無から絶えず離れ去ることによって存在します。第四に存在物は未来の無に向かうことによって存在します」
これは何なのか、
具 体 的 に 説 明 し て 下 さ い。
お茶を濁す、とはこの事を言うのです。
、「機械と人間が共生するためには、機械が人間の不得意なことをカバーし、人間が機械の不得意なことをカバーする必要があります。すべてを機械中心に行おうとしたり、すべてを人間中心に行うとしたりすれば、そこに機械と人間の摩擦が生じます。」
そうです。その通りなんです。しかし、こう言いつつも
何故、森リンという機械に任せるのか、矛盾だと思います。
先生は全国からたくさんの作文の先生方を雇っておられるようですが、何故そうした有能な方々を利用せず、最終的に機械に任せてしまうのか理解できませんね。
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