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国語力の不思議(その1)  2010年9月13日  No.1018
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 言葉の森が、30年前、作文教室を始めたとき、この教室を国語教室のようなものにはしないという一種の信念のようなものがありました。なぜなら、国語は普通に生きていれば自然にできるもので、教えたり教わったりするものではないという確信があったからです。

 ところが、作文教室を始めてみると、国語が得意で作文が好きという子も多くいましたが、国語が苦手で作文が嫌いという子もかなりいたのです。

 そこで、学習塾というものの話をよく聞いてみると、国語教室というような国語を専門とした教室はほとんどないということがわかりました。むしろ、学習塾は、成績を上げやすい算数、数学、英語などを中心に教えていて、国語は、一応全教科をカバーしているということを示すだけのおまけのような位置づけでした。その証拠に、「塾に行っても、結局国語の成績は上がらなかった」という声を多くの保護者から聞きました。

 国語は、できる子は自然にできる、しかし、できない子は教えてもできるようにはならないという不思議な教科だったのです。

 ところが、よく考えてみると、練習して上達するというのは、ある意味で人為的な分野です。現代の社会は人工的なものに囲まれているので、練習して上達するということが当然のように思われがちですが、自然のものについては、練習ということ自体が成り立たないのです。

 例えば、見た目をよくするために服装を変えるというのは、だれでもすぐにできます。衣服は人工的なものだからです。しかし、見た目をよくするために顔つきを変えるというのはまずできません。顔は自然のものだからです。

 これが、病気と健康の関係になると、もう少し微妙になります。人間の健康とは、本来自然のものです。しかし、近代医学は、そこに治療という人工的なものを導入しました。

 風邪を引いたら、ゆっくり寝ていれば治るというのが自然の対応です。しかし、薬を飲んで治すとなると、これは人工的な対応です。風邪ぐらいであれば、どちらで治そうが大した違いはありませんが、これが自然治癒率のきわめて低い感染症になるとそうではありません。

 医療の世界では、パスツールのワクチン治療のように人工的な対応が際立って成功する場面がしばしばあったため、その成功が過大に評価され、それが人間の本来持つ自然治癒力の意義を忘れさせる方向に進んでいきました。

 これと似ているのが教育です。英語や数学というものは、教えなければ自然に身につくものではありません。その意味で人工的な教科です。しかし、国語という教科は、これらの人工的な教科と違い、生まれたときからの環境で自然に身についてきたものです。

 この自然に育ってきたものに、人工的な教科の学習で成功した方法をあてはめようとしたところに、これまでの国語学習の混乱があったのです。(つづく)

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