森リンの開発の動機は、作文に対する客観的な評価を行いたいということでした。
現在の言葉の森の指導でも、項目指導という客観的な評価のできる勉強の仕方を中心にしています。しかし、項目指導では、表現の形を中心とした評価になり、中身についての評価まではできません。
例えば、「たとえ」という項目でも、個性的なたとえを使える子と、ありきたりのたとえしか使えない子がいます。「怒った」だったら、「鬼のように怒った」、「寒かった」だったら、「南極のように寒かった」という表現です。それはそれでいいのですが、やはり少し物足りない感じがします。
個性的なたとえを使える子は、たとえ以外のほかの文章も、自分なりに考えた表現を使って書きます。ありきたりのたとえしか書かない子は、たとえ以外のほかの文章も、やはりありきたりの表現になることが多いのです。
そして、個性的な表現を使う子は、内容も個性的であり、平凡な表現を使う子は、内容も平凡なものになりがちです。遠足に行った話でも、「遠足に行きました。とても楽しかったです。また行きたいと思いました。」というような表現が次々と出てくる作文です。これももちろん全く書けないよりははるかにいいのですが、やはり物足りない感じがします。
ところが、小学校低中学の作文では、この個性と平凡の差は人間が見てもはっきりしていますが、小学校高学年や中学生、高校生の作文になると、個性と平凡の表現の差は、人間の目ではわかりにくくなります。
実際に二つの文章を読むと、一方は漠然と中身が濃いような感じがし、他方は漠然と中身が薄いような感じがします。しかし、それは漠然とした印象で、どこがその箇所なのかということは言えません。
ですから、小学校高学年以上の文章では、上手な作文と上手でない作文の評価は漠然とした印象では言えるが、それを指導に生かすことができないという事情があったのです。指導するとしても、上手な作文を見せて、「みんなも、こういうふうに書いてみよう」というのがせいぜいでした。
ところが、それが、森リンにかけると、はっきりとした数値としての差になって出てきます。
子供たちの作文の森リンの点数のグラフを数年間にわたって見てみると、個々の作品の出来不出来による点数の上限はあるものの、どの子も平均して1年間で数ポイントずつ点数が上昇しています。これは、それだけその子が新しい語彙を吸収し、それを作文に生かせるようになったということです。
もちろん、一方には、森リンの点数がほとんど変化しない子もいます。これは、学校に通って勉強は進んでいても、本当の意味での学力が向上していないということになると思います。
このように、森リンは、作文の評価という微妙な分野をはっきりと客観的な数値として表せる方法になっています。(つづく)
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