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読解力の本質とは何か(その2)  2010年12月3日  No.1090
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 人間の学力には、言葉を読み取る力のほかに、数を読み取る力、図形を読み取る力などもあります。

 言語を読み取る力は、その言葉を単独にその言葉自体の意味としてとらえるようなレベルから、全体との関連や構造の中で多層的にとらえるレベルまで様々な段階があります。そして、この言葉の意味を構造的にとらえる読解力が、学力の基盤になっています。

 読解力のある人も、あまりない人も、与えられた言葉を同じように受け取りますが、読解力のない人がその言葉を単純にその言葉だけの意味としてとらえるのに対して、読解力のある人は、その言葉を多様な構造の中でとらえています。

 例えば、「桃太郎」の昔話をよく聞かされている子供は、「桃」という言葉を、おじいさんやおばあさんや犬やサルやキジとの薄い関連の中でとらえています。この関連のことを、その言葉が持つ「比喩の足」と呼びます。

 「桃太郎」の話を知らない子供にとっては、「桃」は単なる甘くやわらかい果実でしかありませんが、その昔話に親しんでいる子供にとっては、「桃」は、おじいさんやおばあさんという概念とも結びつく、もっと多様な比喩の足を持った言葉なのです。

 ある言葉についてその言葉が持つ意味の関連性をたくさん持っていることが、その人の読解力の基礎となります。文章を読み取るときに、その文章を構成している言葉がどれだけ多くの比喩の足を持って読まれているかということが、文章の読み方の構造化の度合いを決めます。

 もちろん、この比喩の足には、実際の体験も含まれます。桃を食べたことのある子の方が、桃をまだ食べていない子供よりも、「桃太郎」の話に出てくる桃に親近感を感じるのは当然です。この体験が言葉の意味の核心になります。

 しかし、実際の経験には質的な限界があります。桃は、一度食べたら、二度食べても三度食べても、経験の質はそれほど変化しません。ところが、言葉が他の言葉と持つ関連性は、ほとんど限界がありません。

 「桃」という言葉は、古事記でイザナギノミコトが追ってくる鬼に対して投げた桃でもあるし、「すももも、ももも、もものうち」という言葉遊びの桃でもあるし、「李下に冠を正さず」の桃でもあるし、徳川家康が健康のためにあえて食べなかったという季節はずれの桃でもあるという、多様な比喩の足を持つことができるのです。(つづく)

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