小学校低中学年のころは、学校の勉強にはあまり差がつきません。どの子も同じように大体のことができます。しかし、小さいころから、少しずつ差が生まれ、それがあとあとまで続いていく分野もあります。それが、考える力です。考える力のある子は、学年が上がるほど実力がついてきます。
考える力の中心は、日本語を駆使する力ですから、作文を書いてみると、その子の考える力がどのくらいあるかがわかります。
ゲームの一種で、「いつどこ作文」というようなものがあります。紙を短冊型に切り、1枚目は「いつどこで」、2枚目は「だれが何をしているときに」、3枚目は「何がどうだったので」、4枚目は「何がどうした」などと書くのです。文の形を変えれば、人数に合わせて、短冊を細かく分けることも、おおまかに分けることもできます。
その短冊をばらばらにして、ほかの人の書いた短冊と混ぜ、そのまぜこぜになって文をひとりずつ発表します。こういうときには、普段いたずらな子が大活躍します。真面目な子が集まると、面白くも何ともない文ばかりになりますが、脱線する子がいると、大笑いするような文ができあがるのです。
このときに、そういう文をなかなか書けない子と、すぐに書ける子と、平凡に書く子と、ちょっとひねって書く子の差が出てきます。小学校3、4年生で、こういうゲームを面白がって、「もう一回やろう」と何度も催促するような子は、考える力のある子です。自分の考えた文が、ほかの文脈の中で別の意味を持ってくるということが面白くてたまらないのです。
しかし、家庭生活の中では、いつもこういう作文作りのゲームをしているわけにはいきません。考える力は、もっと日常的につけていく必要があります。そのときに必要になるのが、家庭における親と子の知的な対話です。
外国では、宗教の聖書などをもとにした対話が、親子の知的対話になっている場合があります。しかし、日本にはそういう宗教に基づいた対話の習慣はほとんどありません。また、もし宗教的な対話が家庭の中で行われたとしても、日本の社会ではそれはあまりよい結果を生みません。というのは、日本社会の基本的なルールは、「かたいことは言わない」ということですから、宗教的な信念を持っている人は、日本のような柔軟性に富んだ社会では生活しにくいのです。
しかし、親子の共通の話題が、テレビを見て一緒に笑うようなことだけだとしたら、そこにはあまり知的な要素はありません。テレビのニュースも同じです。ニュースの性質上、深い掘り下げはできないので、表面的な知識を共有するだけで終わってしまいます。
日本の社会には、かつて四書五経を中心にした、親、子、孫とつながる共通の知的話題がありました。今後、日本の社会がもっと落ち着いて成熟したら、またそのような過去の古典が親子の共通の文化になるような時代は来るかもしれませんが、それはまだずっと先のことでしょう。
そこで生きてくるのが、言葉の森の課題の長文をもとにした親子の対話です。言葉の森の長文は、現代の社会で、親子が共通の知的話題を話すきっかけになる材料を提供しています。この親子の知的な対話の習慣が、子供の思考力を育てるいちばん大きな要素になります。
子供の将来を大きく左右するのは、考える力を育てることです。言葉の森では、毎日の自習として、暗唱と読書をすすめていますが、このように毎日何かを読む練習とともに大事なことは、親子が折に触れて知的な対話をするような習慣をつけていくことです。
しかも、親子の対話は、単に思考力をつけるだけではありません。親と子という人間どうしの対話を通して、子供たちは、生きていくのに必要な感受性や人間関係の理解やユーモアの精神なども育てていくのです。
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