しばらくほかの記事が続いてしまいましたが、教育は、人間の幸福、向上、創造、貢献と結びついているという話の続きです。
第三は、創造のための教育です。この創造のための教育が、教育の最も重要な柱になります。というのも、人間の人間たる所以はこの創造の中にあるからです。
ところが、創造については、二つの誤解があるように見えます。ひとつは、ただ成績がよいとか勉強ができるとかいうことに創造力があるという言葉をムード的に使う傾向があることです。もうひとつは、創造のようなものは本来教育として教えたり学ばせたりできるものではないという考えです。
これらの考えのいずれも、創造というものを正しく定義していないことから来る誤解です。創造とは、世の中にまだないものを作ること、そしてそれが他人にとっても価値あるものであることです。
世の中にまだないものというのは、創造の芽です。創造の芽は、根本的には人間の個性の中にあります。だから、人はだれでも個性があるという点で、本質的に創造的です。
しかし、個性がそのままで創造になるわけではありません。個性が価値ある創造になるためには、個性に磨きをかける時間が必要です。この時間をかけるということもまた、人間という身体的な存在にとって特徴的な本質です。
わかりやすく言えば、個性×時間=創造と考えることができますが、これはまだ創造の可能性です。実際に個性が価値ある創造になるためには、ふたつの要素が必要になります。ひとつは、個性を磨こうとする心構えです。その心構えを支えるものは、個性を尊重する社会の価値観です。
そして、もうひとつは、個性を磨く練習です。その個性を磨く練習のひとつが作文になるのです。
作文が、他の芸術活動である絵画や音楽に比べて優れているのは、特段の練習や器具の準備がなくてもほとんどの人が文章を書くことができるという点にあります。
また、これからの人類の創造には知的な側面がますます重要になってきます。学問がまだ進歩していなかった時代には、創造は感覚的や身体的なところだけでも十分に発揮することができました。しかし、これからの社会は、あらゆる分野に学問が発展していき、その知的な土台の上にすべての創造活動が行われるようになります。その点で、作文という知的な活動は、今後の創造教育の中心になるものなのです。。
ところで、言葉の森で子供たちに作文を書かせると、時々、「書くことがない」という子がいます。勉強は比較的よくできるのに、少し変わった題名や感想文になると、「書くことがない」とあきらめてしまう子です。この原因は、現代の勉強がまだ受け入れること中心になっていることにあります。現代のただ知識を吸収する勉強に適応しすぎた子は、成績はそれなりによくても、自分から新しく何かを作り出すということが苦手になってくるのです。創造は苦手だが再現は得意というのでは、人間ではなくロボットに近い教育を受けていると言っていいでしょう。知識の吸収はほどほどにして、その吸収した知識を前提として何を創造するかということを教育の柱にしていく必要があるのです。
創造する教育という点で、プログラミング教育も、創造教育のひとつの重要な教科になります。これからのコンピュータ教育は、ワードやエクセルやパワーポイントの使い方を勉強するようなものではなく、プログラミングの少数のルールから自分で個性的なプログラムを作り出すという喜びを伴うものにしていく必要があります。