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森リン大賞、再開――これから、毎月、学年別の優秀作品を掲載します  2023年4月11日  No.4702
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●動画:https://youtu.be/7wIlVgbYnOU

 森リン大賞は、2020年10月から更新を止めていましたが、2023年3月分から更新を再開します。

 これまでの森リン大賞は、森リン点だけを基準にしていましたが、今後は森リン点の上位の作品から、特に内容の優れている1作品を選定するようにします。

 小学5年生以上の生徒のみなさんは、森リン大賞の作品を参考に、よりよい作文を書くようにがんばってください。

 なお、小学4年生以下の作品は、森リン大賞としては掲載していません。
 それは、小学4年生までは、まだ点数で評価するよりも、身近な家族や先生による褒め言葉の方が励みになるからです。

▼森リン大賞のページ
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php

■森リン大賞3月の作品
※作品は3月のものですが、学年は、3月ではなく4月の学年になっています。

●小5の部
おにごっこ最強のハエ
さき
 ハエのすばらしさはスピードの調節のみごとさです。ハエは、助走も加速もせず、ある場所に自由にとまり、自由に飛び出すことができます。むだな運動をしないことは、活動のエネルギーを大切にしていることになります。
 この話を読んですごいなと思ったのは、ハエが助走もせずに自由に飛ぶことです。なぜすごいと思ったかというと、人間ができないことをあの小さなハエができているからです。
私は、家の中に入ってきたハエがいやでいやでつぶそうと思っていました。
「キャー、ハエだ。ハエ―なあ。」
ハエは速すぎてつぶせません。きたないものを食べるこんな虫が役に立っているのか調べてみました。カにくらべていいことは多くないですが、一応役に立っていることがありました。ひとつ目は、ミツバチの代わりにハエが受粉をしてあげることです。年々ミツバチがへっているのでハエを使ったそうです。でもお金がかかってしまうそうです。二つ目は、ハエの幼虫ウジ虫がいりょうで役に立っていました。大けがをしたり床ずれをしたりして黄色のプニプニの組織(えし組織)ができるけれど、それはいらないそしきなのでとらないと治りません。それをウジ虫に食べてもらって治す方法があるそうです。ちょっといやだけど、このようにハエもいやなところばかりだけでないことがわかり見直しました。でもハエは、やっぱり好きになれないです。
 母にハエについて聞いてみました。昔は今よりもハエが多かったそうです。今よりも草地も多く、犬やねこのふんや尿も道路にあるし、畑に肥料として便や尿をまいていたからかもしれないと言っていました。どこの家にもたいていハエを退治する道具があったそうです。たとえば、ハエととり紙といって天井からベタベタするテープをぶらさげてハエをとらえるものがありました。ハエもよくかかるけど、自分のかみの毛もわなにかかってしまったそうです。もうひとつ、ハエたたきといってハエがとまっている時にたたいてつぶすものです。まるでバトミントンのスマッシュのように打つそうです。ハエははやいので命中した時はうれしかったようです。私は、ハエが入ってきたらハエたたきでしとめたいと思いました。
 このお話を読んで、私はハエが速いこと、そして役に立っていることを知って驚きました。でもハエはずっときらわれ者だということもわかりました。私も、ハエのように速く動けたらおにごっこでつかまらないのになあと思いました。

●小6の部
好きという調味料
あかのは
 「あぁ、しまった!」
鍋の中では、黒く焦げた玉ねぎがぷすぷすと音を立てていた。

 四年生の頃、初めての料理にサンドイッチを作った。レシピを見ていて、あまり難しくなさそうだったので、作ってみようと思ったのだ。作ったのは、卵サンドイッチとハムサンドイッチの二種類だ。卵は茹でて殻をむきマヨネーズと混ぜてつぶす。レタスは洗ってちぎり、ハムとチーズを用意する。それらをパンで挟んで、食べやすいサイズに切ったら出来上がりだ。その手順はそこまで難しくなかった。しかし、いざ作るとなると思うように進まず、
「あれ、卵は何分ゆでるんだっけ。あれあれ、ハムは何枚入れるんだっけ――。」
と、あれこれ確認しているうちに、とても長い時間がかかってしまった。参考にしたレシピには「所要時間…約三十分」と表記されていたのに、結局、一時間ほどの時間がかかってしまった。お腹はもうペコペコだ。でも、空腹は最高の調味料、ほっぺたが落ちそうなくらい美味しかった。家族にも好評だった。特に母は、「朝食を子どもが作ってくれる日が来るなんて。」と、とても感動していた。みんなが喜んでくれて、また作ろうとやる気が出てきた。五年生になり、もう一度サンドイッチを作った。今度は、レシピをしっかり確認し、事前に卵を茹でるなどの準備を終えていたこともあって、手際よく作業を進めることが出来た。実際に表記されている時間通りに全ての工程を終え、食べ始めることが出来た。物事の上達には、慣れることが必要だと思った。

 学校の栄養士さんにインタビューをしてみた。料理を作ることとレシピを考えることが好きで栄養士になり、もう何年もこの仕事をしているそうだ。仕事は給食の献立を考えることで、いつも美味しくてバランスの良いメニューにすることを心掛けているという。私は、何を作るかを考えることや、材料がそろっているのか確認をすることに一苦労するのに、栄養士さんは一度に一か月分のメニューを考えていて、その上バランスまで考えていることに驚いた。自分だったら、栄養バランスに気を付け、かつ、飽きないようにするとなると、一日、二日分の献立を考えるのにとても労力を使うだろう。やりがいを感じるのは、空になった食缶を見た時や、「いつも美味しい給食をありがとうございます」と、生徒から声をかけてもらったときだそうだ。嬉しく感じるときが、自分と似ているなと感じた。給食後に栄養士さんに会ったときは、お礼を言うように心がけようと思う。栄養士さんは長い間練習し、試験を受けて栄養士になった。その過程では、きっと失敗したこともたくさんあったけれど、その分たくさんのことを学んできたのだと思う。好きなことを仕事にするには、たくさんの経験と努力が必要だと分かった。

 私は、料理をすることが好きだ。今は始めたころに比べるととても手際よく作業を進められるようになった。今に至るまでに、手をスライサーで間違えて切ってしまったことや、野菜の皮をむきすぎて小さくなってしまったこともあった。しかし、好きこそものの上手なれということわざがあるように、どんどん上達していったと感じている。また、千里の道も一歩からということわざもある。上達するには、日々練習を積み重ね、その物事を好きになることが大切だと分かった。そのように上達できるのは、他人が喜んでくれたり、お礼を言ってもらったりなど、やりがいが感じられるからではないだろうか。つまり、上達には人の役に立っているという気持ちが関係するのだと思う。私はこれからも練習を積み重ねて、料理をもっと上手になって人に喜んでもらいたいと思った。また、別のものごとにおいてもどんどん練習し、その腕を磨いていきたいと思う。

 「いただきます。」
途中、失敗してしまったが、終わり良ければすべてよし、美味しいカレーライスが出来上がった。家族はみんなニコニコしながらカレーをほおばっている。

●中1の部
私達が世界から得られた教訓
あえはな
 端的に言うと、私たちは、話を文字ーー文字のうちでも、文字に頼らず、声によって伝達される文字ーーと考えられている。昔話は、なんといっても本来語り伝えられてきたものだから、語って聞かせる話に備えていなければならない基本的な条件を満たしている。また昔話は、一般大衆の文字だったから、取り扱うテーマは、普遍的、根源的だし、その表現形式は簡潔で素朴な心の持ち主にも良く分かるようになっている。 話に興味を持つ者にとっては、昔話は絶えずそこに自分を潤しに帰って行かなければならない泉のようなものだと思う。
 「自分がされて嫌なことを他人にはしない」皆一回は聞いたことがあると思う。この言葉は、大人であれば当たり前だと思うが、 子供はまだこの事を知らない。例えば保育園で、 友達に石を当てることはよくない。しかし保育園児にとっては自分が楽しければそれでいいと思っている。 ではなぜ大人になったら「自分がされて嫌なことを他人にはしない」ことを当たり前と思えるのか。 その理由の一つに挙げられるのは、近くの大人から学ぶからである。例えば友達と喧嘩してしまったとしよう。そのことを先生に報告しに行く。 そうすると先生は喧嘩を始めた園児を叱る。しかし子供はなぜ自分が怒られたのかわからない 。
だが子供は学んでいくのである。それは自分が教えられなくても人を見て理解することだろう。 そうすることで自分だけが生きている世界ではないということを知る。そして子供達が成長した時、人は誰かが取り乱しても他の人が取り乱さないから世界は平和だと知るのだろう。ただし大人から教育を満足に受けられていない子供達も世界のどこかにはいる。 その子供たちがいつか大人になった時、自分が世界のまんなかだと思う。自分に嫌なことをしてきた国を巻き込み、口で解決せず、 暴力的解決で戦争が始まってしまうと思う。だから私は今の世界の課題の一つに、 自分の国だけではなく他の国の教育をきちんと行う。これが世界平和に繋がることだと考える。
 わらしべ長者。これは、ある一人の貧乏人が最初に持っていた物を、物々交換を経ていくにつれて、最後には大金持ちになる話である。 私がわらしべ長者を読んで思ったことは、小さいものでも、努力を重ねてきて一年二年十年かかってもいいから大きく成長する、と教えられたような気がする。私は四年生のとき計算が苦手だったので、家で宿題をする時、苦手な計算は計算機でやってしまっていた。なので五年生になった時に計算が出来なくなってしまうんではないかと考えた。だから努力することにした。まずは自分で掛け算、割り算を必死に覚えた。 そしてそろばんを始めた。そろばんを始めると計算問題が少しぎこちないが解けるようにもなってきた。 五年生になって最初に行った計算問題のテスト。 いつもの私なら六十点、七十点が平均なのだが、 初めて百点を取れた。その時に努力してきた一年間が頭に思い浮かんできた。最初は苦手だったものも習い事を始めコツコツと家でも勉強をしてきた。自分が苦手なところも積極的に行った。六年生にもなると、計算問題は算数の中でも得意になった。計算する楽しさも覚えたと思う。 塵も積もれば山となるということわざがあるように、一日一回でもいいから計算機を使わずに自分の頭の中で計算をし始め、最終的には何も考えずに計算ができるようになっていた。計算以外にも 勉強や運動その他の事も初めから大きなことをするのではなくどれだけ小さくてもいいから毎日続けることが大切だと私は思う。
 人間にとって昔話の教訓とは、 幼い子供にもわかるように過去の人物が残した参考書である。 私は努力した人は何年後何十年後でも必ず結果が残ると感じた。

●中2の部
日本人は淡白である(清)
あえてり
  日本人は、淡白であり、一般的に騒がしいものは面白くないと感じる。こういう傾向が言語に影響しないはずがない。細かいことは省略してしまう。それがわからぬのは野暮だとして相手にしない。お互いに以心伝心の術に長ずるようになる。結論は相手の想像に委ねて、ありのままをくどくど述べるのは興ざめれる。ことに大昔から確立している和歌や俳句の形式に共通することといえば、言葉のいわゆる論理に背を向けていることである。感覚的に全体を直感で把握する。句の中には、理屈で説明しきれない論理を超える論理があるのだ。私は理屈ではなく直感に訴えようとする日本的なコミュニケーションの取り方は良いと思う。
 その理由は第一に、淡白な方が速く伝えられるからだ。日本ではよく、要点だけをまとめて相手に伝える。例えば会議などで残り1分の急いでいる時など、時間、場所と要件だけ伝えることがよくあるだろう。単純な例で言うと、私を含め、最近の若者は驚いている時に、わざわざ「へぇー知らなかった!」や、「え!すごっ!」など言わない。PR Timesの2020年のデータによると、10代の50%以上は略語を日常的に使うらしい。驚きを伝える時は、「ま?」と一文字打てばいいだけだ。そしたら、相手もパッと見るだけで相手の伝えたいことがわかるし効率的だ。相手に同意を示すのにもいちいち時間をかける必要はない。「り」とだけ打てばいいのだ。自分が同意していることが相手側に伝われば打つものは何でもいいのではないだろうか。だから私も普段から少しでも文字を打つ時間を節約できるように極力短い言葉を送っている。毎回物事の詳細を書いていたら、伝える側も、伝えられる側も、疲れる。そもそも、いちいち細かく書かないといけないのであれば、私なんかはめんどくさがって余程のことじゃないと伝えなくなる。その場合は本末転倒だと考えられる。
 第二に、短い言葉から想像を広げることで想像力や表現力が豊かになるからだ。文章に直接意味を感じられるような単語がなく、全てが説明されていないと、自分で筆者が何を伝えたかったのかなどを想像することを強いられる。そうすると、重要な単語を汲み取って筆者がなぜ故意にその言葉を使ったのかなど推測して分析する力がつく。それに、筆者の表現を自分なりに理解し、その場面を想像しようとすることによって想像力もつく。そのため、考えさせるように脳に試練を与えることによって、生まれるメリットがあるのだと推測できる。昔、学校で俳句を読んでその俳句の意味を話し合う授業があった。その時は何でこんな訳のわからないことを書いている人たちの詩を話し合わないといけないのか疑問だった。その頃は、「嬉しいと言いたいならそう書けばいいのに」と心の中で思っていた。だが中学生にもなると、学校などで小説を書かないといけなくなった。すると、俳句や和歌の授業で学んだ人間や詩人はどんな気持ちの時どういう言葉を使って表現するのか、が役に立ってきた。今になってようやく、日常での表現の幅を広げられたから有益な授業だったんだと気がついた。つまり、日本的なコミュニケーションには、欠点から生み出される利点があるということだ。
 確かに物事を理屈で考えることも必要だ。しかし、「辞書のような人間になることではなく辞書をうまく使えるような人間になることが勉強の目的である。」と言う名言もあるように、言葉は上手に利用すれば相手によく伝わる。このことから事実を述べるだけではなく、巧妙に、効果的に言葉を操れるような人間になれる淡白な日本のコミュニケーションは大事だと判断できる。私はこれからも、相手に速く深く意思を伝えられるように、日本的なコミュニケーションを活用していきたい。

●中3の部
マスクとコロナと日本
たくま
https://www.mori7.com/oka/tegaki/2023/aiyono-0331223932.pdf

  今日も朝起き、学校へ向かう。持ち物はハンカチ、ティッシュ、家の鍵、ヘルメット…そしてマスクである。いつの間にか学校ではマスクが「強制化」していた。私がマスク無しで友だちと話していると、うるさい学年主任が私に近寄り、「マスクをしなさい」とやたらと高圧的な態度(いつもだけど)で指図してくる。真なる屈辱だが、将来にバッテンがつけられないようにと仕方なくマスクをするのであった。今思えば、私も卑怯者である。他人にマスクの着用のおかしさを説きながら、結局周りの同調圧力に負けマスクを着用してしまうのである。私は自分の心の弱さを知っている。日本の伝統的な武士の精神になりたいが故に自分の卑劣を憎むのである。マスクはおかしいとこの文で訴えるのは、自らの卑劣からの救済と、私と同じ思いをしている同胞たちを考えたからこそである。
 今回のコロナでわかったのは、現代社会というものは作られた虚構であるということである。普遍的な論理に基づいて考えれば、網目の大きいマスクがコロナウイルスを防げるとは非常に考えにくいし、全員が全員マスクをしたとしてもプライベートなどで外す機会があるだろうから、完璧な感染予防など不可能である。ましてや、コロナが出現してから三年を数えようとしているのに、いまだにマスクを徹底などというのだから呆れてしまう。最初から政府は言っていたではないか「義務ではない」と。最初から義務だとは言っておらず、「努力義務」だったり「心がけるよう」など義務と言った表現は使っていない。義務ならば致し方ないが、マスクの着用について個人の自由が守られているのにもかかわらず、様々な場面でのマスク強制は「基本的人権の尊重」を掲げる日本国憲法に違反しているのではないだろうか。少し論点がずれたが言いたいことは、最初からマスク着用に関しては自由が守られており、他人が強制できるようなものではないということだ。私はマスク強制に立ち向かったが、自分の心の弱さ故に、一週間程度でマスクを着けない生活をやめてしまった。申し訳ないと思っている。しかし、中学生にこのような思いをさせるのは少し腹が立つ気もする。なぜならマスクを外している間、周りからの圧力がすごいからだ。先生からは睨まれ、友達からは通常会話をしている途中に「マスクをつけろよ」と言われる。社会の常識から外れている気狂いのように扱われ、心外な思いをしたものだ。
 だが今回の件で大いに学んだこともある。周りの奴らは「何も考えていない」ということである。国総出で国民を洗脳しているのだから、仕方ない面もあるが、あまりにも考えていないやつが多すぎる。外でも風呂でもどこでもマスクを外さないやつもいた。どれだけ息が上がってもマスクを外さずに保健室に運ばれたやつもいた。学年合唱の練習もマスクを外さずに行ったし、体育祭もマスクを外さずに行った。中学二年間過ごしてみて、私のアルバムはマスクだらけであった。私も、コロナが流行り始めた当初はマスク着用に関してあまり疑問を呈していなかった。しかし、流石に年数が経過するとおかしいと思うようにもなる。私自身、今までの自分は洗脳されていたんだなと思うようになった。だが、周りを見よ。どれだけ年数が経過しようがマスク着用について疑うこともせず、外での体育でも未だにマスクを付けているではないか。社会を見よ。未だに車内でマスクを着用しているではないか。飲食店でのあほらしいシールドがあるではないか。飲食はマスクの着用を挟んでいるではないか。おかしいと思えないのだろうか。私から見たら狂気の沙汰である。社会一般のものは、カルト宗教にハマっているものを馬鹿にし、「あんなふうにはなりたくないわぁー」なんて言って、自分の立場が上にあることで優越感を得ているらしい。が、今のマスクを着けている社会人共も一緒である。「コロナ」という宗教団体に所属しており、教祖は日本国。国から与えられたマスクを首輪のように常時着用。効果があると言われたワクチンならすぐさま何回でも接種しに行く。ワクチン反対派やマスク反対派の人間を罵り、「自分たちは世間とずれていない」と特有の卑怯さを見せつけ、教祖を疑うこともしない。嗚呼、どうしてこうなってしまったのであろうか。悲しきばかりである。

●高校生の部
能動的な人間
ああるそ
 今のままの日本の教育では知識吸収型の、枠にはまった答えしかできない受動的人間になってしまう。だから私は、能動的な人間になるべきだと考える。そのためには、二つの方法が考えられる。
 第一に、新たな発想を生み出すことだ。先日、私の学校で私たち一年生に向けて二年生がSDGsに関する課題について一年間考えてきたことを、高校生の自分たちにできることというテーマで発表をする機会があった。その中には室外機が送り出す風で発電をできるような装置について考察したり、医療でAIの導入が進んでいるが人である医者にしかできないことはあるのかを調査したりするなど、どの話にも感嘆させられた。個人的には、靴の履き替えが難しい高齢者の視点から考えた、靴の底の前半分が後ろに折り返せることで室内でも屋外でも1つの靴で事足りるという製品案を作ったグループの発想に最も驚いた。このような授業が学校で展開されるというのは非常に喜ばしいことだ。現在では、課題解決に対する具体的な取り組みの思考が求められている。なぜなら、今までと同じようなことをしても、問題のあふれる現在の社会はより困難な状況に直面することになるからだ。ほんの偶然から生まれた誰も考えないような逆転の発想が、大きく世界を変えることは多々ある。もしかすると、子供のアイデアが採用されることだってあるかもしれない。頭が常識にとらわれてはいけないのだ。
 第二の方法としては、学校が生徒に自由にさせてみることだ。私たちに先入観が生まれるのは、日常の中で経験していることを当たり前だと思ってしまうからであり、学校が知識を生徒に詰め込ませている現状も少なからず影響しているだろう。だが、一問一答が得意な人ではなく、現在はゼロから考えていけるような人が求められている。偉人でいえば、一たす一は一ではないかと考えたことで有名なエジソンは、数々の発明に成功し、発明王と呼ばれるまでに成長した。彼の、当たり前だと考えられていることを疑問に思う性格が、様々な好奇心を引き出し、数々の実験、発明へと導いたのではないか。すなわち、物事を決めつける姿勢は新しい発見の可能性の幅を狭めるということだ。よって、学校がその可能性を伸ばすためには、何も知らない状態で頭を使う時間を増やしていかねばならない。自由度が高ければ高いほど、試行錯誤する時間は増えていくだろう。他者の意見も合わせた多種多様な捉え方を学ぶことで思考力を身につけられるはずだ。
 確かに、決められたことをこなす能力は大切だ。指示に従えないと周りから信頼を失いかねない。しかし、常識とは、踏襲するものではなく破っていくものだ。時代が変化するにつれ、もちろん、求められる態度や考え方は変化していく。それにもかかわらず常識を維持するというのは効率的ではない。現代では既存の知識をいかに多く暗記できるかということに目が行ってしまうが、知識がない状態でどう対処するかというところに焦点を当てて課題を追い求めて生きていきたい。

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森リン(103) 

 コメント欄

森川林 20230411  
 約2年半ぶりに森リン大賞を復活しました。
 小学5年生から中学生、高校生の作文は、やはり読み応えがあります。
 こういうふうに自分の頭で考える子供たちが、将来の日本の社会を支えていくのだと思います。

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