現代の教育の前提に、個人の努力によって個人の利益を手に入れるという考え方があります。
勉強をして、いい成績を取り、いい学校に入り、いい報酬を手に入れることが、教育の成果だと考えられています。そのために、競争に勝つという発想が生まれます。
その根底にあるのは、個人の利益が全体の利益につながるという前提に基づいた個人主義的な考え方です。
日本で初めて個人主義の教育を説いた福沢諭吉の立身出世主義は、当時の社会風潮に対する建設的なアンチテーゼ(反論)でした。つまり、当時の、国内だけに埋没し自己の修養のためのカビの生えた四書五経を学ぶ旧態依然の教育に対して、開明的な個人主義に基づいて西洋の学問を吸収する自立した個人を目指す教育を提案したのです。
しかし、現在、この福沢諭吉の理想は矮小化された形で受け継がれ、小中学生における競争による教育を肯定する風潮を生み出しています。
競争が必要なのは、学校や教員であって生徒ではありません。
呉善花(オ・ソンファ)さんは「私を劇的に変えた日本の美風」(李白社)という著書の中で、日本の文化における、「ありがとう」という言葉の多さ、「おかげさまで」という発想、一生を修行と考えるアマチュアリズムなどの特徴を挙げています。
日本人は、修行というものを、だれでも手順を踏んで学べばそれなりの境地に達することができ、進歩は一生続くものであり、時に個人の才能による成果があったとしてもそれは「おかげさま」であり、社会に還元されるべきものだと考えていました。
一方、これまでの教育は、個人が特殊なノウハウを手に入れて、他人との競争に勝ち、個人の努力に応じた利益を手に入れるという個人主義的な文化を背景にして成り立っていました。
これからの教育は、だれでも同じように進歩できる方法で、だれもが同じように向上し、個人の才能によって得た利益は、相互に社会に還元し合うという発想で行われていくようになると思います。
このような人間観、社会観に基づいた教育は、個人主義に対する集団主義の教育と考えられるかもしれません。しかし、これを、集団への埋没というマイナス面を持った集団主義ではなく、新しい集団主義、敢えて名前をつければ貢献主義の教育と考えていくべきです。
それは、個人の個性を尊重し、個人が才能を発揮することを促しはするが、その個性的な才能から生まれた利益は個人が所有するのではなく、社会の他の人々と分かち合うという考えです。
優秀な子がいた場合、これまで大人はその子に対して、その優秀さを生かしていい地位につき、自分だけ得をしろというような言い方をしてきました。これからは、そうではなく、その優秀さを生かして社会に恩返ししろというアドバイスをしていくようになると思います。
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