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暗唱を言えるようになったあとも更に反復するのはなぜか。  2010年7月21日  No.969
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 最初に暗唱を始めたころ、よどみなくすらすらと暗唱できた子が、慣れてくると、だんだん思い出しながら言うようになることがあります。また、意味は合っているが、表現が微妙に違っているということもあります。例えば、「……したら」を「……すると」と読むなどの例です。

 これは、「暗唱の手引」に沿って暗唱の練習をしていないからです。つまり、毎日の反復練習の回数が少なく、「覚えたからいい」、「言えるようになったからいい」、というふうになっているからだと思います。

 暗唱は、「大体言える」という程度では、あまり力がつきません。完璧にすらすらと言えるぐらいになっていることが大事です。

 それは、なぜでしょうか。

 人間と道具との関係を考えてみます。例えば、人が、楽器を使う、絵筆を使う、ペンを使う、剣を使う、という場合です。

 最初は、人が道具を媒介して世界と対峙するという関係になっています。

 しかし、その道具を反復して使っていると、やがて、長期間の練習を経て、人と道具が一体化するようになります。「普通に道具を使う」という段階から、「自分の手足のように使う」という段階になるのです。

 すると、そこで、自分が表現的に拡大するという状態が生まれます。眼鏡が自分の目を拡大し、補聴器が自分の耳を拡大するように、自分の表現力が「道具を使っている」という意識なく、拡大するようになります。

 道具と自分が一体化して、道具による表現が自分自身の表現であるようにできるようになると、その表現力の拡大に合わせて、実は感受性も拡大します。例えば、詩を書く人は、世界を詩的に見ます。詩を書かなかったら感じなかったような細部を感じるようになるというのが、表現力が感受性を規定するということです。

 表現力がなかったときには、見えなかったもの、感じなかったものが、表現力の拡大に伴って、見たり感じたりすることができるようになります。これは、道具を単に道具として意識して使っているときとは、レベルの違う見方、感じ方です。外見上は、「普通に道具として使うこと」と「自分の手足のように使うこと」との間に、あまり差はないように見えますが、自己の拡大という点で、実は質的な差があります。その質的な差が、感受性の差になります。

 暗唱の場合も同じです。思い出しながら言う暗唱と、自分の体の一部になったかのように言う暗唱との間には、質的な差があります。

 自分の一部となった暗唱ができるようになると、そこで言葉の把握力が増してきます。だから、暗唱の力がついてくると、読書をしたときの吸収度も違ってきます。暗唱が理解力を高めるというのは、こういう関係があるからです。

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