現在の学校は、英数国理社美技音体などという教科に分かれ、それぞれの教科に専任の先生がついて教える形になっています。そして、上の学校に行くための受験があり、その受験は応募者を選抜する必要から、点数の差をつけるために必要以上に間違えやすい問題を出す形になっています。教科がいくつかに分かれているのは、指導のためよりもむしろ評価のためと言っていいでしょう。
必要以上に間違えやすい問題に接したときの子供の心情は、クイズのようで面白いとは思うものの、そこに本質的な価値を見出せないことから来る一種の空しさのようなものです。この結果、点差をつける競争に勝つ喜びを見出す少数の生徒以外の多くの生徒は、勉強に意欲を見出せない状態になりがちです。
しかし、学校で受ける勉強には、その子の人生にとって真に必要なことと、受験という目的のために強制された不要なこととが分かちがたく結びついています。
人間には、もともと向上心があります。真に必要性を感じることであれば、たとえ一時的に苦しくても子供は喜んで学びます。
今の学校の問題は、子供たちが、受験という目的以外に必要性を感じさせれられない多くのことを学ばせられ、その結果本当に必要なことを学んでいない多くの子供が生まれているというところにあります。
しかし、それは、これまでの社会において、学校というものが、教育の役割よりも選抜の役割を果たしてきたことから来るものです。
ところが、その社会がこれから大きく変わろうとしています。
これまでの社会の性格をひとことで言えば、物不足の社会でした。物不足とは、生産される物が不足しているだけでなく、その物を買うためのお金が不足しているという点で、金不足の社会でもありました。
そこで、近代になって分業を使った大量生産と大量消費という仕組みが生まれ、やがて分業の究極的な形態であるグローバリズムの中で世界規模での大量生産と大量消費が行われるようになりました。
この仕組みは、当初飛躍的な豊かさを生み出しましたが、やがて、生産力は桁違いに豊かになっているはずなのに、消費においては相対的な貧困化が進行するという奇妙な事態を生み出しました。
それは、分業の恩恵が大衆的に還元されず、軍需産業の発展や、限られた小数のスーパーリッチ化という不毛な蓄積に向かっていったからです。
今の経済の特徴をひとことで言えば、巨大な生産力、貧困化する大衆、不毛な巨大蓄積、カジノ化するペーパーマネーというアンバランスが混在している状態です。つまり豊かな生産力が、大衆の豊かな生活に結びついていないために、生産力自体のそれ以上の発展も停滞しているという状況なのです。
しかし、この状況に対する解決の展望は、既にはっきりしています。(つづく)