教師の指示もなしに、日直が号令をかけたり、朝会が行われたり……。だが、こうした日本の小学校の情景を見て、ローレンス校の教師たちが、日本の児童たちが教師の指示もなくまったく彼ら独自の判断によって動いているのだと考えたならば、早合点である。確かに、日直は自分の判断に基づき、「今日はここまで」というような教師の言葉を手がかりとしつつ、授業の終わりを察して号令をかける。しかし、最終的権限は教師にある。これは、日直が時として「もう号令をかけてもよろしいでしょうか」と教師の顔をうかがったり、教師が日直に号令のやり直しをさせたり、日直が号令をかけやすいように、「静かに」とクラスを注意をすることからもうかがうことができる。
日直や係が中心になって行う学級の話し合いなどでも、「困った」方向に向かっていると考えた場合には、教師は方向づけをする。たとえば、児童にお互いのよい点と悪い点を話し合って反省の材料にしてもらおうとするようなときに、クラスの嫌われ者が皆からの集中攻撃にあって、誰も助けないような場合は、教師は、その子供のよいと思われる点を皆に思いださせることによって、個人攻撃をやわらげようとするかもしれない。
アメリカ人は、時として、日本の会社などでの小集団活動は、権力を握る人々が背後から操る、従業員の統制手段に過ぎないという理解を示す。集団や他者から自立した「個」を強調し、権力に対する警戒もことさら強いアメリカ人からすると、日本の小学校での小集団活動も、このように映るかもしれない。
確かに、日本の学校の小集団は、権力に対抗するために児童によって結成されたのではなく、反権威主義的な色彩を持つものでもない。児童の管理に利用されている面もあると思われる。だが、このような側面のみを強調したならば、日本の教師は心外に思うに違いない。集団自治を目指す以上、彼らには、児童の集団自治活動になるべく介入すまいという心理的規制が働いている。その意味では、直接的に児童に指示を下すことをためらう必要のないアメリカの教師以上に、行動を規制されていると感じる面さえあるかもしれない。
こうした日本の学校の小集団活動の特徴は次のように考えられ
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