人間社会は「同じ」を繰り返すことで「進歩」してきた。「同じ」というはたらきの典型が言葉である。日本のなかに違う言葉を話す人たちがいると、やがて「同化」される。それが方言やアイヌ語に起こったことである。すでにおびただしい数の言語が滅びた。いまは英語が国際語だといわれている。インターネットの普及によって英語はさらに広がり、中国語はやがて北京語に統一されていくのではないかという予測もある。中国語の場合、ケータイへの入力はアルファベットつまり発音に依存し、それなら発音が「正しく」ないと、目的の漢字が出てこないからである。そのうち日本語はかつてのアイヌ語になるかもしれない。それが「進歩」なのである。そこでは皆が「同じ」言葉を話す。その反動で、個性、個性とわめきだすのであろう。挙句の果てに、心に個性があるなどと思ってしまう。
個性をいうなら、多様性というべきである。個々の独自性がいちばん大切なのではない。個々の独自性は、それ自体が滅びたら、それまでである。なにしろ諸行は無常なんだから。多様性とは、さまざまな「違ったもの」が調和的に存在する、存在できる、という状態である。それを私はシステムと呼ぶ。生態系=エコシステムは生物多様性を維持する。なぜ世界的にその「違ったもの」が危険に陥っているか、すでにおわかりだと思う。「同じ」「同じ」をひたすら繰り返すだけでなく、それを「当然として強制する」世界では、多様性は失われていく。
「違い」は感覚世界に由来する。それなら感覚世界をたえず「脳裏に存在させなければならない」。それぞれ違ったものこそが、真の意味での「現実」である。現実は人によって違う。一言で表わすことができない。一言でいうためには「同じ」にしてしまうしかない。だからたとえば「なにごともアッラーの思し召し」ということになる。「同じ」を繰り返す意識が、その意味での多彩な現実を嫌うことは、むしろ当然であろう。現実=感覚世界を、意識はできるだけ「同じ」に変えていく。
「そのほうが便利だから、そのほうが楽だから」と人々はいう。
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