このような集団に強く組みこまれた個人にとって、世界とは集団そのものです。集団、または社会、または今此処の世の中、つまり此岸ということになるでしょう。死ぬと、日本人は、此岸から彼岸へ移るのかどうか。必ずしもそうではなくて、彼岸さえも、実は此岸の、具体的には所属集団の、延長と考えられている場合が多い。日本の文化が定義する世界観は、基本的には常に此岸的=日常的現実的であったし、また今もそうである、といってよいと思います。小さな村の中に家族が住んでいて、その家族の中で、誰かが死ぬと、死者の魂はどこへ行くか。しばらくの間、どことも定めず、空中に漂っている、という説もあります。たとえば多くの儒者は、それに近いことを考えていたのでしょう。しかし柳田国男によれば、典型的には、村の近くの山の上に行き、そこから村を見まもっている。村はたいてい、水のある所ですから、山の裾、谷間など、下の方にあって、山の上からよくみえます。その山の上に魂が、永久に居るわけじゃないけれど、しばらく居る。そして特定の機会に村へ帰って来ます。いろんな風俗や習慣があるようですが、とにかく適当な機会に帰って来る。誰でもよく知っている機会は、夏のお盆です。帰って来るところは、隣村などということは絶対にない、必ず自分の村、しかも自分の家族のところです。つまり生きていた時の集団への所属性は、死んでも変わらない。日本人の集団所属性は死よりも強し。そういうことです。あるいは、死後の世界が集団の延長だといってもよい。窮極的には、此岸から断絶し、独立した彼岸は、ない。本来の現実は、村そのものしかないわけです。家族、村、此岸、それが唯一の窮極的な現実です。
そういう世界観の此岸性は、どういうことを意味するでしょうか。仏教が入って来たときには、その大衆への浸透を妨げる。それにもかかわらず、仏教が大衆のなかへ入ってゆけば、仏教そのものが、現世利益・此岸的効用の方へ、変ってゆく。仏教からその彼岸
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