a 読解マラソン集 9番 岩淵悦太郎さんの調査によりますと wapi3
 岩淵いわぶち悦太郎えつたろうさんの調査によりますと、一〇〇〇の単語を覚えると、英語では八〇%理解でき、フランス語では八三%分かる。それなのに、日本語では六〇%しか分からない。つまり、日本語は語彙ごいが多いので、一〇〇〇語くらい覚えたのでは、六割しか理解できないのです。日本語の語彙ごいは、ともかく豊かです。
 でも、その反面、こんな問題も起きてきます。たとえば、漢語を造りすぎて同音異義語がたくさん出来てしまったのです。耳で聞いただけでは分からないことが多い。
 「こうえん」と聞くと、あなたはどんな漢字を思い浮かべおも う  ますか? たちどころに、「講演」「公演」「口演」「好演」「後援」「公園」「高遠」など数種類の同音異義語を思い浮かべおも う  たに違いちが ありません。文脈によって、どの「こうえん」か分かることもありますが、特定できないこともあります。
 「先生は日曜日にはコウエンに出かける」と言われると、先生と呼ばれる人はさまざまなジャンルにいますから、「講演」「公演」「口演」「公園」の四種類が候補になってしまいます。
 これからの社会は、あらゆる人がメディアを通じて話し言葉で説明していく機会が増えていく時代です。話した言葉を機械に聞き取らせて、そのまま書物にすることも増えてきています。話し言葉が主役になる時代の到来とうらいを考えると、同音異義語の整理は急務です。
 また、近年増えつづけている外来語をどうするかという問題もあります。最近、国立国語研究所が、こんな発表をしました。一九五六年には、外来語が日本語に占めるし  割合は、一割未満であったのに、一九九四年には、外来語が日本語の三割強を占めるし  にいたったというのです。外国語をカタカナ書きしただけで、外来語になりきっていないものも多いので、カタカナ語と呼ぶこともあります。つまり、カタカナ語の氾濫はんらんです。
 一〇数年前といえば、国際化、グローバル化が叫ばさけ れていたころです。インターネットの普及ふきゅうも目覚しく、カタカナ語は増加の一途いっと辿ったど ています。明治時代の新漢語ブームで、漢語が著しく増えたのに似ています。そして、意味も分からずに新しさゆえに使ってみるという傾向けいこうも似ています。こころみに、次に七つのカタカナ語をあ
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げてみます。いくつ意味がしっかりと把握はあくできたでしょうか。
  アイデンティティー  イノベーション  エンパワーメント
  サーベイランス  ボーダーレス  モラルハザード  レシピエント
 どれも聞いたことはあります。でも、意味が正確にとらえられているかと言われると、おぼつかない。こうした状況じょうきょうに危機感をおぼえた国立国語研究所は、意味の分かる従来語での「言い換えい か 案」を提案しています。それによりますと、順次、「自己認識」「技術革新」「能力開化」「調査監視かんし」「だつ境界」「倫理りんり崩壊ほうかい」「移植患者かんじゃ」となります。たしかに、カタカナ語よりははるかに意味が分かります。
 さて、これらのカタカナ語の扱いあつか をどうしたらいいのでしょうか? 分かりやすさの点から言えば、従来語で言い換えい か た方が数段優れています。でも、問題があるのです。言い換えい か 案をみてください。ほとんど漢語です。ただでさえ多い漢語をふたたび増やし、同音異義語の問題を大きくしてしまうのはどうでしょうか。耳で聞いただけですばやく理解しなければならない場面が増えていく社会になることを考えると、問題なのです。
 カタカナ語のままにしておいて、意味の定着を待つという方法は、いかがでしょうか。意味の定着に、言い換えい か 案は効力を発揮します。ははん、レシピエントというのは、「移植患者かんじゃ」のことだなと、共通理解を促進そくしんしてくれます。
 明治時代の西洋語を漢語に翻訳ほんやくして受け入れていったのは、中国文化の浸透しんとうしていた時代にマッチした方法でした。でも、現在多くの日本人に浸透しんとうしているのはアメリカ文化です。もはや、漢語の翻訳ほんやくが力を失いつつある時代なのです。だとすると、カタカナ語のまま、意味の定着するのを待って使っていくという方法も、意外に良いと思えます。

(山口仲美氏の文章に基づく)
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a 読解マラソン集 10番 氏の『沈黙』は、キリシタン禁制時代の日本に wapi3
 氏の『沈黙ちんもく』は、キリシタン禁制時代の日本に、ポルトガルから二人の若い司祭が潜入せんにゅう企てるくわだ  ところから始まる。島原の乱が鎮圧ちんあつされたころである。かれらは苦心惨憺さんたんのすえ、取り締りと しま の目をかいくぐって上陸し、日本人信徒との連絡れんらくをつける。が、まもなく捕えとら られ、苛酷かこく拷問ごうもんのすえ教に追いこまれていく。
 その主人公の一人がロドリゴで、踏絵ふみえ踏むふ よう役人に説得される。外国の司祭が転べば、信徒たちも転ぶからだ。転ぶべきか、それを拒否きょひすべきか、思い惑いまど 苦しみつづけるかれの心のおくに、「神よ、あなたはなぜ黙っだま ているのです」という黒いうずのような言葉が噴きふ あげてくる。救いの手をさしのべてくれない神への呪いのろ 叫びさけ だ。
 そのとき、二〇年前にすでに転んでいた先輩せんぱい司祭のフェレイラがかれの前にあらわれて、いう。――お前の目の前にいるのは布教に敗北した老宣教師の姿だ。知ったことはただ、この国にはお前や私たちの宗教は根を下ろさぬということだけだ。この国は沼地ぬまちだ。どんななえもその沼地ぬまちに植えられれば、根が腐りくさ 始める……。
 それをきいて怒りいか の声をあげるロドリゴに、今は沢野さわの忠庵ちゅうあんという日本名をもつフェレイラは淡々とたんたん 話をつづける。
 「この国の者たちがあのころ信じたものは我々の神ではない。彼等かれらの神々だった。それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教きりすときょう徒になったと思いこんでいた。……聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰しんこうに変えていたのだ。……基督教きりすときょうの神は日本人の心情のなかで、いつか神としての実体を失っていった。……日本人は人間とは全く隔絶かくぜつした神を考える能力をもっていない。……日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。」
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 このフェレイラの言葉は作者の遠藤えんどうさんの気持でもあったのだろう。
 やがて、そのロドリゴの前に踏絵ふみえが置かれるときがくる。細いうでをひろげ、いばらかんむりをかぶったキリストの醜いみにく 顔がそこにあった。
 さあ、勇気をだして。踏めふ ば、あの信者たちも助かる、とフェレイラがいう。ロドリゴは足を上げた。するとそのとき、あの人がかれに向かっていった。
 「踏むふ がいい。私はお前たちに踏まふ れるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架じゅうじかを背負ったのだ」
 キリストはついに沈黙ちんもくを破ったのである。痛みと苦しみを分かち合うキリストが蘇りよみがえ 踏むふ がいいという。そのキリストの背後に、あの厳格な怒れるおこ  神の姿はもはやない。慈愛じあいの眼差しを注ぐ母のような許しの神のかげが宿っている。
 神の愛というより、むしろ仏の慈悲じひ輝きかがや が立ち昇っのぼ てくるような錯覚さっかくさえおぼえる。ロドリゴは、人間とは隔絶かくぜつしているはずの神のイメージの上に、母親のような人間の面影おもかげを追い求めているようにさえみえるのである。このロドリゴの変貌へんぼうはまた、沼地ぬまちのような日本の宗教風土に生まれ育った作者の、その深い心の底を映しだす鏡でもあるのではないだろうか。

(山折哲雄てつお『近代日本人の美意識』による。文章を一部改変した。)
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a 読解マラソン集 11番 フランス大革命のあと wapi3
 フランス大革命のあと、政治は宗教とははっきりと独立したものとなってくる。今や国民国家からの給与きゅうよによって生活するようになった大部分の科学者たちは、教会に義理立てする必要もなくなったし、異端いたんとして迫害はくがいされる心配もなくなった。もちろん科学は自然についての研究であり、政治により特定の研究が禁止されるという恐れおそ もなかった。彼らかれ の目的はより立派な研究をするだけとなった。立派な研究をすれば、科学者としての地位と名誉めいよが約束される。
 問題は何をもって立派というかである。どんなに面白そうなものでも、追試ができないようなものはダメである。公共性が確保できないからである。この公共性の確保ならびにそのための方法は、科学にとって極めて重要であり、それゆえにこそ、科学は世界規模の普遍ふへん装置として機能するようになるのだが、それはもう少し後の話である。
 追試ができてしかも世界初の技術でさらに膨大ぼうだいな富を生み出すもの。技術ということに限れば、立派とはかくのごときものをいう。しかし、制度化された科学ではそれだけではすまなくなってきたのである。それは理論が重視されるようになったからである。新しい事実の発見と並んで、新しい理論を提唱することに大きな価値が置かれるようになった。理論とは切れ切れの現象を単一の体系の下でまとめる鋭意えいいである。従ってなるべく少ない原理でなるべく沢山たくさんの現象を説明できるほどよい理論ということになる。
 錬金術れんきんじゅつのようなオカルトが、理論と技術を結びつけようとする指向を有していたことを想い出してほしい。オカルトの嫡子ちゃくしとしての科学もまた、技術や実験結果を、ある理論体系の下で説明したいとの強い欲求を持つ。それはある意味では、伝統的な大学の知識集団から、一段低く見られていた新興の科学者たちの劣等れっとう感の裏返しという面も持っていたろう。技術や実験結果を理論で武装することができれば、理論(知識)しかない伝統的な大学の知識層よりも優位に立つことができる。理論化をより強く指向した理学が工学よりも早く、伝統的な大学の学部として受け入れられたのはゆえなしとしないのである。
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 さて、科学にとって、理論の公共性とは何か。それは理論から極力、個人の特殊とくしゅ性を抜くぬ ということに尽きるつ  。それは主観を排しはい 、客観を重視するということだ。科学は客観というやり方で公共性を担保したのである。現在の我々から見ると、これはごく当たり前のように見えるが、歴史的に見れば、このようなやり方で公共性を担保したのは、十九世紀の制度化された科学をもって嚆矢こうしとする。
 宗教は集団による信憑しんぴょうという形でしか公共性を担保できない。文化や伝統は習慣という形でしか公共性を担保できない。政治は権力による強制か国民による信任という形でしか公共性を担保できない。ひとり科学だけが、人間の想念や願望や恐れおそ 思い込みおも こ から自由な、客観という基準により公共性を担保したのである。
 十六、七世紀の第一の科学革命の時の研究でも、もちろん、現在の我々から見て、どの研究が客観的に正しく、どの研究が間違っまちが ているかを判断することはできる。しかし、判断基準となる客観は当時の科学者集団(本当はオカルト集団)によって前提とされていたわけではない。それに対し、十九世紀に制度化されて以後の科学者集団は、客観の重要性を前提としているのである。
 科学における客観は十七世紀のデカルトから発した、ということになっている。デカルトは心身二元論者ではなく、実は一元論者だったという説もあるが、公式的には心身二元論(物心二元論)の確立者である。物は身体も含めふく 延長(デカルト的な意味での「延長」とは、空間の一定部分を占有せんゆうしていることをいう)を本質とし、心は非延長的な思考を本質とするから、この二つは異質なものである、デカルトは考えた。
 このようにして、物と心を分けておけば、物の存在は心の存在に左右されることはない。物、すなわち客観は延長を持たない神や霊魂れいこんや個々の主観とは独立に存在するという話になる。心や主観が入れば、事情は個々人によって違っちが てくるが、主観が入らなければ、事情はすべての人にとって同じである。ここに客観という公共性が出現する。

(池田清彦きよひこ『科学とオカルト』より)
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a 読解マラソン集 12番 本当のことを言えば wapi3
 本当のことを言えば、客観が主観と独立だなんてことはない。もちろん、自然は我々人間の存在を抜きぬ にしても存在することは間違いまちが あるまい。だから、自然そのものを客観であると考えれば、客観は我々の存在と独立に存在する。しかし、そんな客観では、いかなる公共性も持ち得ない。なぜならば、公共性を持つためには他人に伝達する必要があり、伝達するためにはとりあえず記述する必要があるからだ。記述するのは、個々の主観である。だから、公共性を持った客観が主観から独立しているということはあり得ないのだ。
 科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮っと てみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選びとって記述しなければならないのである。だから科学における客観的記述と称するしょう  ものは事実そのものではない。
 客観というのは、ゆえに、事実から記述をなす時の、科学者仲間の約束ごとに支えられて成立しているのであり、この約束ごとは後にパラダイムという名で呼ばれるようになるのだが、そういうこととは無関係に、今でも、ほとんどの科学者は、記述は約束ごとではなく、事実であるゆえに客観的だと信じているらしいのだ。
 先に、科学が歴史上初めて、客観というやり方で公共性を担保した制度だと書いたけれども、この公共性も、実は法律と同じような単なる約束ごとであったわけだ。(中略)
 さて、このようにして記述する自分をたなあげしてしまえば、自然の中にはだれが記述しても同一のものがある、とのデカルト的信念は確固たるものとなる。たとえば、目の前の物体が、きれいであるか気持ち悪いか、いかがわしいか、といった記述は、記述する人の主観によって違うちが 。しかし、重さが何グラムであるとか、長さが何メートルであるとかは、記述する人の主観によって左右されることはない。これぞ、客観であるというわけだ。
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 何でもよいから、測定して数量化すれば科学的データになるとの信仰しんこうはここからくる。逆に言えば、数量化できにくい現象は、科学になりにくいのだ。たとえば、明るいとか暗いとかの記述は、科学的な記述とはみなされないが、照度何ルクスと書けば、たちまち科学的データになるわけだ。
 物理学が十九世紀から二十世紀の半ばにかけて、科学の最先端さいせんたんを走っているように見えたのは、ゆえないことではないのだ。物理学は最も数量化しやすい分野だからである。
 もう一つ、数値と並んでだれが記述しても同じものがある。それは、自然の中に存在する不変の実体である。もし、そういうものがあって、それに名前をつけることができれば、名前(記述)はだれにとっても同じものを指示するに違いちが ない。数値は不変といっても抽象ちゅうしょう的なものであるが、実体は具体的な物である。客観を重視した科学は、自然の中にある不変の実体を探す試みという面を強く持つようになる。これは素粒子そりゅうし論におけるクオーク(陽子や中性子の構成要素)やちょうひも(すべての物質の究極の構成要素として仮想されている最終実体)に続く道となる。
 さて、以上述べてきたような、客観的なるものによって理論を構築すれば、理論そのものが客観的になるのは論をまたない。このようにして、科学の理論はその中から「神」や「霊魂れいこん」や「主観」を抜いぬ て公共性を獲得かくとくしたのだ。客観的な理論は、原則的にはだれにも理解でき、その正否が何らかの実験によって、確かめられるものとなったのである。もちろん理論には内部矛盾むじゅんがあってはならず理論的整合的であることが求められる。

(池田清彦きよひこ『科学とオカルト』より)
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