「過去」にあった事実の集合が、そのまま「歴史」を構成するわけではない。その意味で、歴史は完成した詳しい「年表」ではない。長いあいだ社会科の教科書の後ろに綴じられているのを見慣れ、あるいは小学校の教室の壁の長い巻き物のように貼ってあったからだろうか。われわれは歴史と聞くと、すぐにできごとを年号順に並べている「年表」の形式を思い浮かべてしまう。たしかに、年表はグラフなどと同じく、空間を利用した表示技術で、時間的な前後関係が一目でわかりやすい。だから歴史を、時間軸上に過去の記録を並べたもののように想像する人は少なくないだろう。
だが、違うのである。歴史は、過去の事実を足し合わせた結果ではない。
ベンヤミンという哲学者が根本から間違っていると批判したのは、「均質で空虚な時間」の白紙に、さまざまな達成が書きこまれていくという、歴史のイメージであった。そこでは空白の時間を埋めるかのように、大量の事実が召集され登録され、「歴史の一ページ」を構成する。この歴史構成の論理は、「足し算」である。過去は収集されるべき対象としてすでに完結していて、現在はいわばその「結果」の位置に、足し合わせられた答えとしてただ置かれているだけだ。
しかし歴史は、むしろ現在との「掛け算」である。現在に生きるわれわれの意味づけが掛け合わせられて、はじめてそこに歴史として存在する。現在から意味づけられることがないできごとは、年表に記されないばかりか、じつは事実としていまだ存在していない。「歴史という構造物の場を形成するのは、均質で空虚な時間ではなくて、「いま」によって満たされた時間である」というベンヤミンのことばは、過去のできごとと現在の意味との間の掛け算として歴史をとらえるという、見方の転換を提起している。(略)
だからそれぞれの個人がそうであったと思っている歴史(history)は、客観的な事実の知識というより、人間の想像力がつくりあげた認識としての事実、過去に関する物語(story)なのである。ゆえに、過去は変えられないが、歴史は変えられる。そして「現在」という事実は、目で実感的に見ることができても、「歴史」という認識は、誰からも直接的には見えない想像の領域で
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