a 読解マラソン集 5番 「過去」にあった事実の wapu3
 「過去」にあった事実の集合が、そのまま「歴史」を構成するわけではない。その意味で、歴史は完成した詳しいくわ  「年表」ではない。長いあいだ社会科の教科書の後ろに綴じと られているのを見慣れ、あるいは小学校の教室のかべの長い巻き物のように貼っは てあったからだろうか。われわれは歴史と聞くと、すぐにできごとを年号順に並べている「年表」の形式を思い浮かべおも う  てしまう。たしかに、年表はグラフなどと同じく、空間を利用した表示技術で、時間的な前後関係が一目でわかりやすい。だから歴史を、時間じく上に過去の記録を並べたもののように想像する人は少なくないだろう。
 だが、違うちが のである。歴史は、過去の事実を足し合わせた結果ではない。
 ベンヤミンという哲学てつがく者が根本から間違っまちが ていると批判したのは、「均質で空虚くうきょな時間」の白紙に、さまざまな達成が書きこまれていくという、歴史のイメージであった。そこでは空白の時間を埋めるう  かのように、大量の事実が召集しょうしゅうされ登録され、「歴史の一ページ」を構成する。この歴史構成の論理は、「足し算」である。過去は収集されるべき対象としてすでに完結していて、現在はいわばその「結果」の位置に、足し合わせられた答えとしてただ置かれているだけだ。
 しかし歴史は、むしろ現在との「掛け算か ざん」である。現在に生きるわれわれの意味づけが掛け合わか あ せられて、はじめてそこに歴史として存在する。現在から意味づけられることがないできごとは、年表に記されないばかりか、じつは事実としていまだ存在していない。「歴史という構造物の場を形成するのは、均質で空虚くうきょな時間ではなくて、「いま」によって満たされた時間である」というベンヤミンのことばは、過去のできごとと現在の意味との間の掛け算か ざんとして歴史をとらえるという、見方の転換てんかんを提起している。(略)
 だからそれぞれの個人がそうであったと思っている歴史(history)は、客観的な事実の知識というより、人間の想像力がつくりあげた認識としての事実、過去に関する物語(story)なのである。ゆえに、過去は変えられないが、歴史は変えられる。そして「現在」という事実は、目で実感的に見ることができても、「歴史」という認識は、だれからも直接的には見えない想像の領域で
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しか共有されない。けっきょくのところ、残された証言や記録や遺跡いせきや事物などの痕跡こんせきから、つながりを推理し、そこに作用していただろう関わりを組み立ててみる以外には生み出しえない。
 ここにおいて知るべき歴史とは、学校のテストや入試で求められるような、すでに決められている「正解」ではない。歴史はいつも、たった一つの真実や事実を正解とするものではない複数性をもって現れる。今日の世界を見渡しみわた てみればすぐに気づくように、たとえば、パレスチナ世界の側から語られ信じられている歴史と、イスラエル世界の側から語られ信じられている歴史とは、容易に和解できないほど鋭くするど 対立している。もちろんパレスチナやイスラエルの内部も単一ではなく、さまざまな解釈かいしゃくのゆらぎを有しているだろう。あえて正解という表現にこだわりたいなら、「正解は一つではなく、何が正解でありうるかは、まだわかっていない」といってもいい。大人になることの解釈かいしゃくが一つだけではないのと同じように、知るべき歴史もまた、一つ一つの「単語」レベルの事実ではなく「文脈context」レベルにおける原因と結果の関連づけの物語であって、一つしか正しいものが許されないかのような形にまで限定された過去の「事実」ではない。

 (佐藤健二『歴史と出会い、社会を見いだす』による)
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a 読解マラソン集 6番 子規が、西洋画を通じて wapu3
 子規が、西洋画を通じて理解した「写生」とはどのようなものだったのだろうか。かれが語るところによれば、日本の絵画界でも百年ほど前から写生ということをやかましくいうようになってきた。これはおそらく、司馬江漢こうかん、あるいは秋田蘭画らんがの活動を指しているのだと思われる。だが西洋画であろうと、日本画であろうと自然の写生を離れはな て絵画が成り立つはずがない。ところが日本ではある時期から奇妙きみょうな発達をして、どんどん実物からはなれてしまった。東山時代の水墨すいぼく画はその最たるもので、一見してなまずこいやら区別もつかない、符牒ふちょうのような絵になってしまった。その反省から出てきた一種の写生画が光琳こうりん没骨画もっこつがだが、これは草木のほかは描けえが ない不完全なものでしかなかった。その後を受けたのが、応挙や呉春ごしゅん一派の輪郭りんかく的写生であったと、このように子規は説明するのである。

 全体は無論輪郭りんかくづくめであるから、色々無理が出来て、つい理屈りくつ的写生に落ちてしまふた。例へばこいを画くと三十六枚のうろこがチヤンと明瞭めいりょうに一枚一枚見えて居る。東山時代のなまずこいも乱暴だが、うろこが数へられるのも変なものである。(中略)
 そこで油絵が這入はいって来ていよいよ写生が完全に出来るやうになった。写生は無論感情的写生であって、人が物を見て感ずる度合に従ふて画くから、こいを画いてもうろこを三十六枚画きはせぬ。さりとて東山時代のやうに大きな点を打ってうろこ符牒ふちょうにして置くのでは無い。それで実物見たやうに出来る。これは没骨画もっこつがなるがためであって、輪郭りんかくの代りに絵の具が自然の輪郭りんかくつくるのである。即ちすなわ 絵の具が唯一ゆいいつの道具である。絵の具を擯斥ひんせきした日本人には思ひもよらなかったであらう。油絵は一から十まで写生するので、殆どほとん 写生で無い者は無い。ごろでは日本画でも写生写生といふ位になって写生といふ事は大分人に知られて来たが、まだ油画の写生を誤解して居る人が多い。
 (「写生、写実」『ホトトギス』第二巻第三号)

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 ここで注目しなければならないのは、「理屈りくつ的写生」と対で用いられている「感情的写生」とは何かということである。それは「人が物を見て感ずる度合」に従って画くことだと説明されている。子規が最初に「写生」に夢中になったのは、目の前の自然をひねくり回すことなく、あるがままに客観的に描写びょうしゃするだけで、従来の月並風とは異なった魅力みりょくある句が次々と生み出されていったことにある。ところがやがて、自分の眼で見たように表わすこととは、実は客観的な自然を主観化して捉えるとら  ことなのだということに気づいたのである。(略)
 芸術とは、ひとことで言えば「発見」の世界である。その表現には、当然のことながら芸術家の美感に基づく取捨選択しゅしゃせんたくがなされている。子規も述べているように、現実の花より、時として画かれた花のほうが美しいのはそのせいである。はなから風雅ふうがな、あるいは風流な世界があると決めてかかるのが月並宗匠そうしょう風というものである。名所旧跡めいしょきゅうせき、花鳥風月を詠まよ なければ句にならないというのは甚だしいはなは   観念論である。芸術の素材、つまりモチーフは私たちの周辺にいくらでも転がっているのだ。それを発見するのが、芸術家の素質であり、才能というものだろう。子規は次のように喝破かっぱしている。「風流はいづくにもある可し」(「俳諧はいかい大要」)と。

 (神林恒道『近代日本「美学」の誕生』より)
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a 読解マラソン集 7番 レンブラントのそうした作品の中から wapu3
 レンブラントのそうした作品の中から、有名な傑作けっさくではあるが、ぼくはここにやはり、『ユダヤの花嫁はなよめ』を選んでみたい。かれの死に先立つ三年前に描かえが れたこの作品のモデルは、息子のティトゥスとその新婦ともいわれ、また、ユダヤの詩人バリオスとその新婦ともいわれている。さらに、旧約聖書の人物であるイサクとリベカ、あるいはヤコブとラケルをイメージしたものだともいわれている。しかし、そうした予備知識はなくてもいい。茶色がかって暗く寂しいさび  公園のようなところを背景にして、新郎しんろうはくすんだ金色の、新婦は少しさめた緋色ひいろの、それぞれいくらか東方的で古めかしい衣裳いしょうをまとっているが、いかにもレンブラント風なこの色調は、人間の本質についての瞑想めいそうにふさわしいものである。そうした色調の雰囲気ふんいきの中で、いわば、筆触ひっしょくの一つ一つの裏がわに潜んひそ でいる特殊とくしゅで個人的な感慨かんがいが、おおらかな全体的調和をかもしだし、素晴らしい普遍ふへん性にまで高まって行くようだ。この絵画における永遠の現在の感慨かんがいの中には、見知らぬ古代におけるそうした場合の古い情緒じょうちょも、同じく見知らぬ未来におけるそうした場合の新しい情緒じょうちょも、ひとしく奥深いおくふか ところで溶けあっと   ているような感じがする。こうした作品を前にするときは、人間の歩みというものについて、ふと、巨視的きょしてきにならざるをえない一瞬いっしゅん眩暈げんうんとでも言ったものを覚えるのである。
 ところで、この場合、問題を集中的に表現しているものとして、新郎しんろうと新婦の手の位置と形、そしてそれを彩るいろど 筆触ひっしょくに最も心を惹かひ れるのは、きわめて自然なことだろう。なぜならそれは、夫婦愛における男と女の立場のちがい、そして性質のちがいを、まことに端的たんてきに示しているように思われるからである。男の方の手は、女を外側から包むようにして、所有、保護、優しさ、誠実さなどの渾然こんぜんとした静けさを現わしているし、女の方の手は、男のそうした積極性を今や無心に受け容れることによって、いわば逆の形の所有、信頼しんらい、優しさ、献身けんしんなどのやはり溶け合っと あ 充実じゅうじつを示しているのだ。
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 ぼくが嘆賞たんしょうしてやまないのは、こうした瞬間しゅんかんを選びとったというか、それともそこに夥しいおびただ  ものを凝縮ぎょうしゅくしたというか、いずれにせよ、狙いねら あやまらぬレンブラントの透徹とうてつしていてしかも慈しみいつく  溢れあふ た眼光である。暗くさびしい現実を背景として、新しい夫婦愛の高潮し均衡きんこうする、いわばこよなく危うい姿がそこには描きださえが   れているのである。
 ぼくは今、「危うい」と書いた。それは過酷かこくな現実によって悲惨ひさんなものにまで転落する危険性が充分じゅうぶんにあるというほどの意味である。その悲惨ひさんは、人間が大昔から何回となく繰返しくりかえ てきた不幸である。しかし、この絵画にかたどられようとしている理想的な美しさは、人間が未来にわたってさらに執拗しつように何回となく繰返すくりかえ 希望といったものだろう。

 (清岡卓行『手の変幻へんげん』)
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a 読解マラソン集 8番 ところが、突然、ソ連が崩壊して wapu3
 ところが、突然とつぜん、ソ連が崩壊ほうかいして言語に対する統制も検閲けんえつもなくなり、西側の文明がどっと入ってきた。いま、モスクワの町中に氾濫はんらんする外来語の膨大ぼうだいさには、驚くおどろ ばかりだ。モスクワ一の大型書店「ドーム・クニーギ」に行っても、「インターネット」「マネジメント」「マーケティング」といったコーナーばかりで、これがトルストイやドストエフスキーを生んだ偉大いだいな文学の国のなれの果てか、と、ロシア文学びいきの日本人としては、ついなげかわしい気持ちにもなろうというものだ。
 しかし、その一方で、日本の都会ではとうに失われてしまった言葉の生々しさのようなものが、現代のロシアではいまだに保存されているということも見のがしてはならない。ロシア人たちは、ほんのちょっとしたことをきっかけに、たとえ見知らぬ他人どうしであっても、驚くおどろ ほど多くの言葉を費やして、自分の考えと感情を相手に直接ぶつける。それは情報伝達の行為こういというよりは、言葉を通じで互いたが の存在を認識しあう共同体の儀式ぎしきにも似ている。おそらく二一世紀の日本で今後、どんどん失われていくのは、まさに言葉のこういった機能ではないかと思う。
 コンピュータ技術が飛躍ひやく的に発達し、これから社会の「情報化」がますます進展していくことだろう。商取引から恋愛れんあいまで、すべてはインターネット上のヴァーチャルな体験に置き換えお か られ、一歩も自分の部屋を出なくとも生活が何不自由なくできるという時代が来るのも夢ではない。しかし、そうなったとき、決定的に失われる危険があるのは、個人的な接触せっしょくを可能にし、互いにたが  同じ人間なのだということを実感させてくれる言葉の機能である。こういった言葉の基本機能のことを、言語学者のヤコブソンは「交感機能」と呼んでいるが、これが失われたら、言葉は言葉でなくなってしまうと言っても過言ではないだろう。
 では、そのとき言葉は何になるのか。おそらく「言葉もどき」、オーウェルの表現を再び借りれば、新たな「ニュースピーク」ではないか。ニュースピークとはなにも、過ぎ去った過去の亡霊ぼうれいではない。それは、人間から個性も思考力も奪いうば 、社会を構成する者全員を画一化する新たな、より強力な全体主義の時代に、再び装いも新たに現れることだろう。
 なんだか見通しの暗い予報になってしまったみたいだが、正直な
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ところを言えば、そんなニュースピークの時代が本当に到来とうらいするなどとは考えたくはない。これはあくまでも一種の警告である。みょうなことを言うようだが、おそらく私たちは、言葉という不思議な生き物の未来については、人類の未来について以上に楽観的になってもいいのではないだろうか。
 というのも、言葉は人類のありとあらゆる惨事さんじ残虐ざんぎゃく愚かしおろ  さを目撃もくげきし、克明こくめいに記録しながらも絶望することなくしぶとく生き延び、時代の激変を通じてみずからもしなやかに変容しながら、それでいて言葉でありつづけることを止めないで今日まで来ているからだ。ぼくは人智じんち超えこ た神秘的な言霊ことだまなどのことを言っているわけではない。言葉は人間の作り出したものでありながら、人間以上の生命力を持ち、人間社会を逆に作っていく働きさえ備えている。コンピュータ程度の発明に簡単にやられはしないだろう。しかし、それは潜在せんざい的に恐ろしいおそ   力でもあり続ける。言葉を支配する者は、結局のところ、世界を支配することになるからだ。

 (沼野充義『W文学の世紀へ』)
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