単純な「個人化」というものそれ自体は、実際には近代を通じて一貫して生じてきた出来事だと言える。一九六〇年代に活躍したアメリカの社会学者、タルコット・パーソンズの「パターン変数」が典型だが、近代とは、集合体志向を有する前近代社会と比して、個人志向を有する社会であるというのは、社会学の中では長い間語られてきたトピックである。しかし、ベックなどが語る「個人化」は、後期近代によって新たな段階に入った、社会と個人との関係に照準しているのだ。
たとえばスコット・ラッシュのような社会学者は、近代の個人化のプロセスを二段階に分けられると考える。第一段階の近代と、第二段階の近代では、個人化のモードが異なるというのが彼らの主張だ。すなわち、第一段階の近代において生じるのは「リニアなモードの個人化」であり、第二段階において生じるのは「ノンリニアなモードの個人化」であるというのだ。
リニアなモードの個人化の特徴は、いわば「我思う、故に我あり(I think, therefore I am.)」といったものだ。社会学における自己論はこれまで、社会心理学者G・H・ミードによる説明に代表されるように、人は様々な社会関係の中で必要とされる「役割」を、発達過程の中において学習し、そうした社会関係に応じて変化する「客我(me)」を統一的に把握する「主我(I)」との二重構造において自己意識を獲得するものと考えてきた。「客我」とはつまり「知られる私」ということなのだが、「知られる私」のことについて「知る私」としての「主我」を、通常は「アイデンティティ」と呼ぶ。
しかし、ノンリニアなモードの個人化においては「我は我なり(I am I.)」という断定のみが存在する。前者に存在するのは「反省(reflection)」だが、後者では「再帰(reflex)」が、個人化を特徴づけている。つまりそこには、私が私であることの確信になるような内的メカニズムが欠如しており、個人とは、他者との関係の中でころころ変わる「知られる私」の集合に過ぎないということになっているわけだ。
ノンリニアなモードの個人化においては、知られる私の「わたしは、わたし」という無反省な断定のみが、自己を支えているのである。
こうした傾向は何も抽象的な社会理論のみならず、経験的な調査データでも示されつつある。若者を対象にしたアイデンティティ
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