なぜ、通常、私たちは、「私が『私』といふとき、それは厳密に私に帰属するやうな『私』で」あると考えるのか、また「私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流する」(三島由紀夫『太陽と鉄』)と信じているのか。その理由は、私たちが、「自己のなかに必ず跡づけられている他者との関係の動き」を、そうと気づくまでもなくすぐに縮小し、還元してしまうからである。つまり、もう少し具体的に言えば、小林秀雄も繰り返し指摘しているように、「精神が考へたところを言葉が表現するのだといふ迷妄」をどうしても逃れられないからである。
何故人々がこの平凡な事実を忘れるかといふと、日常生活に於いても、人々は精神の考へたところを言葉が表現するのだといふ迷妄を如何にしても忘れられないからである。処が事実、人は考へるのは自分の精神なのか自分の言葉なのか知る由もないのである。考へるといふ事と書くといふ事は二つの事実を指してはゐないのだ。言葉といふ技術を飛びこして何かを考へるとは狂気の沙汰である。(小林秀雄「アシルと亀の子?」)
私たちはランボーの小説を読むとき、フロベールの小説を読むとき、そこにたしかに作品があるという気がする。そこに独特の音色を聴き取り、生き生きした筆致で描かれた輪郭とか色彩を見わける。かけがえのないトーンや声調を見い出し、なにかしら新鮮な意味合いが独自な個的特性として刻印されているのを感得する。だからそういう作品(創作され、おくられた言葉)を生み出し、おくった作者がいるということも確実で、疑いようがないと思える。しかしそうした独自性や個的特性は、私たちがふつうそう考えているように、その個人(作者)に本来そなわっているような固有な同一性なのであろうか。自己のうちで必ず自己とは異なる他者との関係の動きを、他者へとおくり返す転送の運動の痕跡を縮小し、還元して、それ自体として充満し、自らに現前しているような独自性や個性なのであろうか。
もし作者(個人)がそれらの言葉の構築(作品)を創造し、おく
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