社会において最も重要なのは、複数の人間を拘束する決め事をつくり出すことである。それにはいろいろなやり方がある。アメリカ人なら、その状況にあてはめるべき客観的ルールをそれぞれ主張して、どちらが正しいかを争うだろう。アメリカに限らず、近代西欧社会はルールに基づいて権利を主張する方法をとる。また中国人なら、最初に互いの利害を徹底的に主張したうえで妥協点を探すだろう。
日本のやり方はそのどちらでもない。日本では決め事は、対立する利害を相互に自発的にゆずり合い、段階的に妥協点を発見していく形でつくり出される。「あなたの気持ちはわかる、だから私の気持ちもわかってくれ」「ここはゆずるからあそこはゆずってくれ、お互いに痛みはわかち合おう」。対立する立場にある二人が一歩一歩近づき、最終的な妥協に至る。日常の会話で、会社の会議で、そして政治の場面で、人々はこうしたゲームをくり広げてきた。
西欧や中国のやり方と比較した場合、この方法は関係者の自発性をそこなわず、すみやかに意思統一できる点でたしかにすぐれている。だが同時に、ひとつ大きな構造的弱点をもかかえている。こちらがゆずったのに相手がゆずらなければ、ゆずったほうの丸損である。それでは妥協しようという気にはならない。こちらが譲歩すれば相手も譲歩するという保証があって、初めてこの決め事プロセスは一般的に成立しうるのである。
実際、日本人と中国人が交渉する場面ではこうした齟齬が起きやすい。日本人のほうは相手の譲歩を期待してまず譲歩する。ところが、中国人の側から見れば、それは日本人側の立場の弱さを示す。だから、自分の利害をいっそう強く主張する。ところが、それは日本人にとっては、相手の好意につけこむという最も許しがたい振る舞いなのだ。そこで当然交渉はご破算になる。けれども、じつは話はここで終わらない。中国人にとっては、最初はゆずっておきながら突然強く出るのは、それこそ騙し討ちなのだ。
こんな場面にぶつかったとき、日本人はこう叫ぶだろう。――「なんで人の気持ちがわからないんだ!」。まさにそのとおりで、じつは「気持ちのわかりあい」というのは、日本社会の社会的決め
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