ウィリアム・ジェイムズのことばで「楽しかった思い出ほどわびしいものはない。苦しかった思い出ほど楽しいものはない」というのがあります。このことばは、感情について非常にみごとな洞察を示しています。
ぼくたちは楽しかったときの情景は思い出すことができます。しかし、それはすでに対象化されてしまっていて、そのとき自分の中に起きる感情は、過去に自分が楽しかったという事実をかえりみている現在の自分の感じでしかないんです。過去が楽しかっただけに、思い出している現在のわびしさは色濃くなるのは当然です。
苦しかった思い出も同じですね。軍隊生活をした人間が、あのころはひどい目にあった、靴の裏までなめさせられたよ、アハハハハなんて、しあわせそうに喋っているけれども、それは思い出だから楽しいのであって、軍隊生活が楽しかったなどと思われたら大変な迷惑なんです。
一見、再生できるかに思われる感情は、恥の感じです。しかし、考えてみると、こういうことがわかります。あなたの家に昔出入りしていた老人がいて、「りっぱな女性におなりになった。でも、あんたは私の膝をよく濡らしたもんですよ」と言われても、あなたは別に恥ずかしいとは感じないでしょう。けれども、高校時代などに言わなくてもいいことを言ってしまったことを思い出したりすると、ひとりでいても、赤面したり、貧乏ゆすりをしたりしてしまう。それでは過去の感情を再生産することができたのかといえば、違うんです。その当時自分の心を傷つけた事実が、現在の自分をも傷つけているということであって、再生ではありません。思い出すたびに、現在の自我が恥じ入っているんです。
そういう点で、感情がそのままよみがえったと思われる場合というのは、現在の自我がそのころの自我に連続している場合にかぎります。
こういう言い方は、しかし、ぼくたち自身にはね返ってきます。ぼくたちが戦地の思い出とか軍隊生活を軽い気持で笑えるというのは、一体なぜなのだろうか。軍隊時代に犯した自分の恥ずべき行為をなぜニヤニヤしながら思い出せるのかといえば、それは当時の体験が現在の自我とつながってないからだということになります。
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