a 読解マラソン集 9番 しかしマキャベリの nngi3
 しかしマキャベリの二重倫理りんりのあまりにも直截ちょくせつな提示は、当時のヨーロッパ人にとっても衝撃しょうげきであり、そのまま受けとめるには過酷かこくすぎるものであった。そこでマキャベリ以降の政治思想のかなりの部分が、その政治倫理りんりの二重性をいかに緩和かんわするかという点に関心を寄せたのである。そこでよく用いられたのはローマ帝国   ていこくに源流をもつさまざまな概念がいねん装置を忍び込ましの こ せることであった。
 このことの説明を進める前に、ギリシャとローマとは、古代都市国家としての共通性をもちつつも、両者の間に大きな違いちが も存していたことを説明しておく必要があろう。ギリシャのポリスは、何よりもそのきわめて強い精神的統一に特徴とくちょうがあった。アリストテレスの有名な「人間はポリス的動物である」という言葉は、まさにその表現であった。この言葉は、ポリスの運営に進んで参加して初めて人間は人間たりうるということを意味していた。それ以外の人間は野蛮やばん人であり、本質的には動物と異ならない存在とすら見なされたのである。その意味でポリスの理想は、政治への参与さんよ、特に言論によって参与さんよし、共同体のために戦う義務を引き受けることこそ人間の真の自己実現の場であると捉えとら られていたのである。
 これに対して、ローマの都市国家(civitas)は、人間の自己実現としての政治への参与さんよという観念をギリシャほど絶対視していなかった。ローマでは、すぐれた統治を行うこと、つまり技術としての政治への関心が早くからもたれていたようである。その中核ちゅうかくは「インペリウム(imperium)」という概念がいねんであった。それは最初、軍隊に対する命令権を意味していたが、やがて統治権であるとか、統治の及ぶおよ 領域であるとかを指すようになり、ついには支配けん及ぶおよ 範囲はんいとしての「帝国ていこく」を意味するようになった。ローマの共和政は、その構成員が兵役の義務をもつという点ではギリシャのポリスと同じく「戦士共同体」ではあったが、しかしインペリウムを誰かだれ に委ねること、またそれを委ねるにあたって複数の権力を相互そうごに張り合わせる「混合政体」の仕組みをもったこと
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によって、ギリシャのポリスとは異なる特質を獲得かくとくした。インペリウムの概念がいねんはギリシャ世界では受け入れられなかった概念がいねんであり、その実践じっせん的な柔軟性じゅうなんせいにこそ意味があった。それこそが、ギリシャ都市国家が比較的ひかくてき短期間に衰えおとろ たのに対し、ローマを地中海の覇者はしゃ押し上げお あ 、その支配を長期にわたらせた、いわば「支配の天才」としてのローマの本質であった。この概念がいねんによって、ローマは都市国家としての性質を残しながら、かなりの開放性、柔軟性じゅうなんせいをもつことができ、やがて都市国家から帝政ていせいへと変質していくことすら可能になったのだった。
 ギリシャのポリスでは公的空間への参加を意味する徳(virtue)の重要性が圧倒的あっとうてきに高かったのに対し、ローマでは市民の私的世界での自由(libertas)にもある程度の価値を認めていた。ギリシャにおいては人間は公的世界においてのみ真の人間でありえたが、ローマにあっては、公的なものが優先されはしたが、私的世界も一定の意義を与えあた られた。ギリシャでは公的空間としてのポリスしかなかったのに対して、ローマでは、社会と国家の区別が認められていたのである。
 近代ヨーロッパの政治理論家たちは、ギリシャの政治哲学てつがく刺戟しげきを受けながらも、その概念がいねん、思考法は常にローマ的なるものに引き寄せられていった。そしてローマ的思考法こそが、中世の普遍ふへん権威けんいを否定した上で成立する自己完結的な政治体同士の間に、最低限の秩序ちつじょをもたらすことを許したのである。それはローマが得意とした「法」や、ギリシャからローマ世界が引き継いひ つ だストア哲学てつがくの基本概念がいねんである「理性」とか「自然」といった概念がいねんによって表現された。そこに、「国際政治」なき時代の「国際政治」、言い換えれい か  ば、「国際政治」の「原型」とも言うべき独特の秩序ちつじょ空間が成立したのである。

(中西ひろし『国際政治とは何か』)
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a 読解マラソン集 10番 歴史のプロセスとは nngi3
 歴史のプロセスとは決して直線を延ばすように進歩するものではない。ジグザグな進展でもない。それはいくつかの大きな経験や変動を経ながら先に進むものでもなく、すでに堆積たいせきされている経験の上に新たなものが積み重なっていくプロセスである。(中略)
 そして、ひとたび歴史の重層性ということを認めたならば、次のことに思い至らざるをえない。それは、われわれは、結局、常にある特定の社会の中にあって、ある特定の文化の様式のもとでしか歴史を引き継ぐひ つ ことができないということだ。普遍ふへん主義の旗印のもとに押し寄せお よ てくる西欧せいおう近代なるものと、われわれは調子を合わせることはできるし、実際そうしてきたつもりでもあるが、西欧せいおう的な意味で西欧せいおう近代を我がものとすることは、われわれには決してできない。
 むろん、このような見方を批判する人は少なくない。「西欧せいおう的」近代などというものはない。「近代」は「近代」であって、普遍ふへん的なものである。「西欧せいおう」にこだわる理由はどこにもない、そもそも西欧せいおうと日本を対立させるのが間違いまちが なのだ、と。
 だが私には、この普遍ふへん主義は決定的に誤っているように思われる。歴史が重層的だとするなら、われわれは決して近代という用語によって一括りくく にできるような普遍ふへん的世界へと収斂しゅうれんすることなどありえないはずである。われわれは、どこまで行っても近代と前近代の混融こんゆうを生きるほかない。そしてこの混融こんゆうのあり方は、「ナショナルなもの」という文脈に依存いぞんするほかない。
 近代的普遍ふへん主義者は、そもそも「ナショナルなもの」を持ち出すことは、排他はいた的な国家主義へと対抗たいこうする第一歩であり、危険思想への導入口だと見なす。近代という普遍ふへん的文明によって初めて、平和的に人々は共存できると見なす。しかし、これも間違っまちが ている。普遍ふへん主義が排他はいた的で暴力的であることはいくらでもありうる。普遍ふへん主義は、普遍ふへんであると自認する者の権利以外の一切を認めず、普遍ふへん性からの変異を排除はいじょしようとするものだからである。特殊とくしゅなもの、
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個別的なものを排除はいじょした上での普遍ふへん主義は、普遍ふへんという名の暴力の勝利に過ぎない。
 これに対して、「ナショナルなもの」に立脚りっきゃくする立場、すなわちここで言う「シヴィック・ナショナリズム」は、「ナショナルなもの」であるがゆえにこそ、他の特性を尊重する。むろん「ナショナリズム」が「ウルトラ・ナショナリズム」と化し暴走する危険に対して私も無自覚なわけではない。しかし、他者がなければ自己意識、つまりナショナリズムなど存在しないのである。他者を抹殺まっさつすればナショナリズムも無意味となるのだ。したがって、真に危険なのはむしろ普遍ふへん主義のほうであるように思う。それはすべてを同質化し、他者を排除はいじょしようとする。少なくとも「ナショナリズム」の危険性は常に唱えられ、いわばチェックされているのに対して、「普遍ふへん主義」の危険性はほとんど認知されていないであろう。だから、他者を契機けいきとした自己意識、自己認識としての「シヴィック・ナショナリズム」こそが、グローバルな時代に要請ようせいされるのである。
 今日、ちょう近代文明(hypermodern civilization)としてのグローバルな普遍ふへん化が性急に世界を覆いおお つつある。同時に、それに対する展望のない反抗はんこうとしての過激派によるテロが暴発している。そして、その両者にはさまれて、世界中の各地で「われわれ」の再定義が模索もさくされている。その中心に「ナショナルなもの」の再構成という集団的なアイデンティティの模索もさくがある。私には、イスラム過激派武装勢力によるテロリズムに与するくみ  ことができないのと同時に、西欧せいおう近代の性急な普遍ふへん化にも安易に与するくみ  べきではないと思われる。そして、今日、この普遍ふへん化を推し進めるのがアメリカだとすれば、アメリカニズムに対してどのように距離きょりを置くか、ということこそが、われわれにとっての最大の課題と言わざるをえないであろう。

佐伯さえきあきら思『倫理りんりとしてのナショナリズム』NTT出版)
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a 読解マラソン集 11番 概念化された風景のなかで nngi3
 概念がいねん化された風景のなかで若者たちはみずからの身体を概念がいねん化する。規格化されたスピードで移動することに慣れた若者たちは、老人のスピードで移動する人びとが規格外の存在であることにえられなくなるであろう。なぜ世の中はかれらに正常な機能をもたせるような装置を提供しているのに、それを使わないのか、と。
 概念がいねん化した風景のなかで生きる人びとは、概念がいねん化された環境かんきょうに適応していくから、そのような概念がいねん化した環境かんきょうに適応する身体をもつようになる。ある理念のもとでつくられた風景に対して理念としての身体が設定され、それに適応することが徹底的てっていてきに求められるからである。
 空間風景のなかの身体は、こうして設定された空間の意味に対応するように訓練されていく。それは空間の意味を設定した設計者に要求されるかたちでの自己調整であり、自己訓練である。そこでは、身体は空間の価値に対応するように形成され、あるいは整形されていく。
 風景の概念がいねん化と風景のなかで生きる身体の概念がいねん化とは相伴っあいともな て進むであろう。概念がいねん風景のなかでひとは身体を概念がいねん化することで自由になる。たとえば、人びとは高齢こうれい者のようにゆっくりと歩くことから「解放される」。高齢こうれい者の身体は、健康な大人の身体の振る舞いふ ま の風景のなかに吸収されていくのである。
 解放としての自由は都市設計の重要な課題であり、そこには、コンセプトのモチーフ、テーマ、ストーリー性といったものが重視される。これらは高次のコンセプトとして機能し、都市全体の特質を決定していく。高次のコンセプトが共有されると、世界の都市の類似化が生じるであろう。風景のグローバル化がこれによって推し進められる。
 概念がいねん風景のなかの概念がいねん身体は、環境かんきょうに適応することによって、もともと自然と人間の間にあった境界を除去する機能をもつであろう。この除去は、風景と身体の間に存在する境界的不透明ふとうめい性の除去といってもよい。一定の意味空間はそのような空間の用途ようとに沿った使用を要求し、そしてそれに見合う身体的振る舞いふ ま だけを許容す
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る。こうして空間と身体の境界にある不透明ふとうめい性は除去される。不透明ふとうめいな身体的振る舞いふ ま は、空間の価値にとって望ましくないものとされるのであり、そこに環境かんきょうと身体との緊張きんちょう関係が生じる。自己はそのような空間の意味に汲みく つくされることによって、空間の提供する快楽を享受きょうじゅすることができるが、それと同時に、そのような要求への拒絶きょぜつの自由を剥奪はくだつされるであろう。自由とは本来価値の強制のとどかない不透明ふとうめいな領域に成立するが、この空間の価値は身体の不透明ふとうめい性に対する不寛容かんようをその大きな特色とする。
 不寛容かんよう性によって、整形の緊張きんちょうがひとに多くのストレスを加えるであろう。このストレスを解消するための空間と時間が必要なのだが、実は、このストレスの存在は、もともと風景の概念がいねん化によって引き起こされたものである。つまり、一定の価値概念がいねんによる空間の意味づけによって身体が概念がいねん化されたための緊張きんちょうである。空間の概念がいねん化は、一定概念がいねんによるゾーニングであり、このゾーニングは、無意味空間を排除はいじょする。いままで意味づけのなかった空間に意味とゾーニングを与えるあた  ので、身体は、この意味のなかで行動しなければならない。だから緊張きんちょうが生じるのである。与えあた られた意味空間で要求される行為こうい遂行すいこうすることで、ひとは緊張きんちょうのなかを生きる。

桑子くわこ敏雄としお『風景のなかの環境かんきょう哲学てつがく』より)
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a 読解マラソン集 12番 最近のローティーン以下の nngi3
 最近のローティーン以下の子供たちは、あれほど教師が「個性」「自立」「自立性」を金科玉条のように主張しているにもかかわらず、目立つことを嫌うきら 傾向けいこうが強いそうである。彼らかれ の間では、「他人に配慮はいりょができる」気配り型が人気で、「場の空気が読めない」外し型が不人気だそうである。事実、うちの小学生のむすめを見ていても、目立たないことの重要性を学習していると感じている。
 「けっこうです」という言葉は頭が痛い。高文脈言語である日本語を象徴しょうちょうする言葉である。文脈を理解していないと、「イエス」か「ノー」かわからないのである。日本人でも文脈が微妙びみょうで、どちらかわからないことさえある。最近の若者の間で、この「けっこうです」に代わる言葉のひとつに、「ビミョー」があろう。明確な判断を避けさ ているとの批判もあるが、若者たちの間では、共有している文脈のなかで、最近はとくに否定的な意見や感想をできるだけ述べたくないので、推し量れという高文脈言葉として使われている。まさに微妙びみょうなのである。
(中略)
 これを巨視的きょしてきにはどう捉えるとら  べきか。戦後の一億総中流という平等幻想げんそうの上に築かれた企業きぎょうという名の大きな帰属集団が、いままさに崩壊ほうかいせんとしており、日本的小規模帰属集団への先祖返りが若者によってなされようとしている、と受けとれないこともない。この意味においても、日本企業きぎょうは若年層の企業きぎょうへの忠誠心(この場合は英語のコミットメントという語がふさわしい)を、どのように確保するのかという大きな問題を抱えかか ているといえる。このまま企業きぎょうが、若者たちの企業きぎょうへのコミットメントを喪失そうしつすれば、日本企業きぎょう企業きぎょう力、ひいては日本の国力は衰退すいたいしていくことだろう。
 したがって、若者の行動の変化が個人主義への移行につながるという議論は、明らかに論理が飛躍ひやくしている。利己主義化(わがまま化)していることを個人主義化の根拠こんきょとしているのかもしれないが、集団主義を否定すれば個人主義になるというような単純な二こう対立的な問題ではない。日本と西欧せいおうの自我/自己構造の違いちが を考え
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れば、これが乱暴な論であることは明らかである。
 にもかかわらず、日本的原理の崩壊ほうかい=個人主義への移行という極端きょくたんな論を展開している人が多いのは、そうした論者自身が日本人的自己の前提構造の不安定さに苛立っいらだ ているからと解釈かいしゃくしたほうがよいのではないか。自己の前提となる役割構造が崩壊ほうかいしてしまうときによく見られる日本的な態度、まるで振り子ふ このように「ゼロか百か」に極端きょくたん振れるふ  姿勢が、ここにもあらわれているのである。そもそも、利己主義と個人主義を混同すること自体、日本人が西欧せいおう的な意味での個人主義原理に向かっていない証拠しょうこである。
 繰り返しく かえ になるが、若年層の行動を子細に見ていくと、自己の相対的位置づけに基づく内向きの思考メカニズムに、構造的な変化は認められない。一見、個人主義原理へ移行しつつあるように映る若年層の行動は、自己構造にいたる手前のプロセスにおける、二つの領域での変化と解釈かいしゃくすべきなのではないか。
 ひとつは、従来に比べて若年層の共通文脈の設定領域が狭くせま なったことと、コミュニケーション・スキルとその方法が変化したことである。もうひとつは、若年層の社会行動規範きはんの通念が、これまでに比べてかなり変化してきたことである。戦後の官僚かんりょうが築き上げた「一億総中流の平等幻想げんそう」がバブル崩壊ほうかいによって破綻はたんし、「一億総よい子化」に息苦しさを感じる若者たちが出てきたことによって、社会通念が変化し、よい意味での階層化が進んでいる。息苦しくなくいられる、自分のアイデンティティとなるワーキング・クラスの形成である。けっして裕福ゆうふくでもない家庭の子供がニートの多くを占めし られるほど豊かな社会では当然かもしれない。最近は「下流社会」とか「格差社会」という言葉がはやっているが、階層化をすべて悪と捉えるとら  のは、社会主義的官僚かんりょうか、おせっかいな進歩的文化人であろう。

小笠原おがさわらやすし『なんとなく、日本人』による)
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