近代から現代にかけての社会は、老人にとってけっして生きやすい場ではない。なぜそうなったかを考えると、わたしたちは進歩とか効率性といった近代社会の原理にぶつかることになる。
資本主義的な生産様式が全社会に浸透していく近代世界にあっては、生産性の進歩と向上が生産現場においてだけでなく、生活のあらゆる場面で求められるようになる。スポーツがいい例だ。スポーツはそれ自体がなにかを産みだす生産活動ではなく、体のこわばりをほぐし、合わせて精神の緊張をもほぐす気晴らしの遊びなのだが、近代の原理がそこにも浸透し、その結果、勝敗にこだわって真剣に訓練を積み、技術的にも体力的にも進歩・向上をめざすことが大切だと考えられるようになる。金もうけを目的とするプロスポーツならともかく、競技を楽しみつつ体の調子を整え、健康を維持するのが目的の遊戯スポーツまでが、体に無理を強いても勝つことを求めるものに変質しかねない。勝つか負けるかと、楽しいかどうかとはそう簡単に結びつくものではないのに、勝ち負けこそが楽しさの基準だとする錯覚が、社会的な力をもってくる。勝つことを最優先し、勝つために効率性・合理性を追求することがスポーツを楽しむことだ、と、競技者自身が思いこむようになるのだ。
進歩や向上を求めることは、ある限られた場では大いに意味のあることだが、そうした気運が社会全体に広がりを見せるようになったとき、そんな社会が老人にとって住みよい場であるはずがない。老人の暮らしとは、とくに体を動かすという場面において、進歩・向上を期待できず、むしろ停滞と退行を余儀なくされるような暮らしなのだから。
(中略)
老いをめぐる関係性の変化としては、大きく二つのことが考えられる。
一つは老人相互の関係性の変化だ。前線を退いた人は、前線にいたときに組みこまれていた人間関係を外れていったんは孤立する。が、そうした人びとの数がふえれば、たがいに接触する機会も多くなる。仕事を媒介にするのではなく、遊びや楽しみを媒介にした関係が生じ、競争や効率にとらわれないつきあいのなかで、人柄や経験の触れ合いが生じる。近所の道端で老人同士のそういう交流を
|