「鉄ちゃん」と言うんですよ、とそのとき若きドイツ文学者が教えてくれたのである。何というきっぱりとした、即物的な呼称だろう。少しばかり間抜けでもある。正式には「鉄道ちゃん」なのか? 線路は続くよどこまでも、の歌詞どおりに鉄路への、そして鉄路を駆けるものへの憧憬を膨らませ続けるフェチ男たちが堂々、われらは「鉄ちゃん」なりと胸を張って日々活動にいそしんでいるという事実を、僕はうかつにも初めて知った。そして自分にはおよそ興味のもてない事柄に無償の欲望を傾注してやまぬ人間が世間に遍在していると知ったときに感じずにはいられない、一種の神聖な戦慄をそのときも覚え、普段どおり理知的な口調を崩さずに語り続けるトーマス・マン研究者の白皙の顔を凝視したのだった。
彼こそは僕が自覚的に出会った「鉄ちゃん」第一号だった。そして第二号が赤ん坊の姿をとって自分の家にやってくるとはそのとき、想像すら及ばないことだった。
幼い男児と日々つきあっているうちに、わが日常空間にはすっかり鉄道網が張りめぐらされてしまったかのようである。なにしろ相手は起きてから寝るまで、食事でも遊びでも「でんちゃ」「じょうききかんちゃ」がなければ始まらない。少しずつたまってきた彼の蔵書の背中を見れば『JR特急・超特急一〇〇点』『JR山手線一周一〇〇点』『しゅっぱつしんこう』『きかんしゃトーマスのしっぱい』『ゴードンはどろだらけ』等々とある。熱唱するのは「線路は続くよ」「青い光の超特急」。朝起きてまず考えるのは「いのかしら線」に乗って「いのかしらこうえん」に行くこと。毎瞬、どちらを向いても列車尽くしの連続で、彼が鉄路の夢から解放されるのは「おっぱい」に吸いついているときだけではないかと思われる。
むろん、「無文字」段階にとどまっている一歳児のこと、いくら毎日絵本や図鑑で研鑽をつもうとも、説明文を読めるわけではない。目で見ながら、親の読み聞かせる声と合わせて図像を記憶に刻
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