a 読解マラソン集 5番 「鉄ちゃん」と言うんですよ nnzi3
「鉄ちゃん」と言うんですよ、とそのとき若きドイツ文学者が教えてくれたのである。何というきっぱりとした、そく物的な呼称こしょうだろう。少しばかり間抜けまぬ でもある。正式には「鉄道ちゃん」なのか? 線路は続くよどこまでも、の歌詞どおりに鉄路への、そして鉄路を駆けるか  ものへの憧憬どうけい膨らまふく  せ続けるフェチ男たちが堂々、われらは「鉄ちゃん」なりと胸を張って日々活動にいそしんでいるという事実を、ぼくはうかつにも初めて知った。そして自分にはおよそ興味のもてない事柄ことがら無償むしょうの欲望を傾注けいちゅうしてやまぬ人間が世間に遍在へんざいしていると知ったときに感じずにはいられない、一種の神聖な戦慄せんりつをそのときも覚え、普段ふだんどおり理知的な口調を崩さくず ずに語り続けるトーマス・マン研究者の白皙はくせきの顔を凝視ぎょうししたのだった。
 かれこそはぼくが自覚的に出会った「鉄ちゃん」第一号だった。そして第二号が赤ん坊あか ぼうの姿をとって自分の家にやってくるとはそのとき、想像すら及ばおよ ないことだった。
 幼い男児と日々つきあっているうちに、わが日常空間にはすっかり鉄道もうが張りめぐらされてしまったかのようである。なにしろ相手は起きてから寝るね まで、食事でも遊びでも「でんちゃ」「じょうききかんちゃ」がなければ始まらない。少しずつたまってきたかれの蔵書の背中を見れば『JR特急・ちょう特急一〇〇点』『JR山手線一周一〇〇点』『しゅっぱつしんこう』『きかんしゃトーマスのしっぱい』『ゴードンはどろだらけ』等々とある。熱唱するのは「線路は続くよ」「青い光のちょう特急」。朝起きてまず考えるのは「いのかしら線」に乗って「いのかしらこうえん」に行くこと。毎瞬まいしゅん、どちらを向いても列車くしの連続で、かれが鉄路の夢から解放されるのは「おっぱい」に吸いついているときだけではないかと思われる。
 むろん、「無文字」段階にとどまっている一歳児さいじのこと、いくら毎日絵本や図鑑ずかん研鑽けんさんをつもうとも、説明文を読めるわけではない。目で見ながら、親の読み聞かせる声と合わせて図像を記憶きおくに刻
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むのみである。それなのにどうしてかれは「すいごう」と「あやめ」と「しおさい」、あるいは「オホーツク」と「すずらん」などというぼくには区別のつけようもないと思える類似・同型列車を正しく名指すことができるのか。一種異様なまでの眼力、記憶きおく力を、列車は幼児から引き出してみせる。「のぞみ!」と騒ぐさわ ので何ごとかと思う、とまったく関係のない写真に「のぞみ」が豆粒まめつぶ大に写り込んこ でいたなどということがしょっちゅうだ。しかもたとえば七〇〇系なら七〇〇系を、写真で見ても絵で見ても模型で見ても、幼児は迷うことなく七〇〇系と判断できる。これまた不思議なほどの読解力なのである。新幹線に「新幹線」という以上の分類を考えてみたことのなかった父親などには到底とうてい理解の及ばおよ ない事態だ。すべては列車たちがいかに強く男児に呼びかけ、アピールしているかということだろう。そのコール&レスポンスによって息子は日々鍛えきた られ、鉄道との関係を通じて世界を広げていく。
 大げさに言えば――しかし実際これは、大げさに騒ぎ立てさわ た たくなるくらいにダイナミックな相互そうご関係なのだが――、幼児は「鏡像段階」のみならず「電車段階」を経ることで(両者の時期はほぼ一致いっちするというのがわが仮説)、言葉と物の緊密きんみつな連関を体験していくのである。食事どき、すっかり気を散らせている幼児の注意を惹きひ 、その口を何とか開かせて食べ物を押し込むお こ には、「あっ、一番線にこまち到着とうちゃく!」といったせりふに如くし ものはない。そのときかれが開けた口は特急を迎えるむか  駅となり、同時にかれ自身が「こまち」と同一化している。かれ摂取せっしゅするのは言葉=電車なのだ。あるいはもちろん、ちゃんと食べれば「立派な運転士さん」「駅長さん」になれるよ、という説得も有効だ。そうすると幼児はぱくりと食いつき、目をくわっと見開きぷよぷよした両うでのわずかな筋肉を硬くかた して力こぶしを作る。栄養摂取せっしゅに応じることで、九十センチたらずの小さな体はたちまち栄光の身体と化す。

野崎のさき『赤ちゃん教育』による)
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a 読解マラソン集 6番 ビジネス・マナー書で nnzi3
 ビジネス・マナー書で指摘してきされているような、「ご苦労さま」の誤用が頻繁ひんぱんに起こる原因は、現代の日本では、仕事の出し手と受け手の関係と、日常の人間関係における上下序列意識の間に、乖離かいりが生まれてきたからだと理解できる。おそらく私たちには、「ご苦労さま」は、その語感から、命令をした人がそれを遂行すいこうした人をねぎらう言葉と考えるのが自然だという感覚が身についているのである。ところが、現代ビジネス社会における指揮命令の関係の中では、仕事を命じる側が日常生活一般いっぱんの人間関係でいう目下の人物であることは珍しくめずら  ない。指揮命令体系の中での上下関係が、日常の上下関係と頻繁ひんぱんに逆転するのである。それゆえ、「ご苦労さま」の使い方が混乱するのだ。
 さて、以上を念頭に「お疲れさま つか   」に話を戻そもど う。「お疲れさま つか   」を、『広辞苑こうじえん』にあるように相手の労をねぎらうための言葉と解釈かいしゃくすると、「ご苦労さま」との実質的な差はどこにあるのだろうか。
 それは、「お疲れさま つか   」が指揮命令の関係を前提としないという点に求められなければなるまい。つまり、相手の労苦は自分の指示によって発生したのではないということでなければならない。ここには命令する、されるという意味での上下関係は存在してはならないのである。そうでなければ、「ご苦労さま」と変わりがない。
 そう考えると、「お疲れさま つか   」を挨拶あいさつとして抵抗ていこうなく使うためには、相手の労苦は自分の命令によって生じたものであってはならないことになる。その労苦に関して自分には責任がないということでなければならないのだ。
 つまり、「お疲れさま つか   」とは、相手の経験した労苦に同情しながらも、労苦を生み出した原因は自分とは関係のない第三者にあるということも同時に主張する言葉であり、そこに「お疲れさま つか   」が持つ戦略的効果の本質があるのだ。
 その意味で、「お疲れさま つか   」は相手を突き放しつ はな た言葉ともいえる
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だろう。私が「お疲れさま つか   」に不満を感じてきたのは、言葉が持つ責任放棄ほうき感触かんしょく嫌うきら ためかもしれない。
 しかし、そのような無責任さが挨拶あいさつとして通用するというのも奇妙きみょうである。実際にこの言葉を抵抗ていこうなく挨拶あいさつに使う人々が、相手の労苦に対して自分が無責任であることを、ことさらに強調したがっているとも私には思えない。
 そこで、さらに踏み込んふ こ で考えてみる。すると、「お疲れさま つか   」が挨拶あいさつ語として定着した背景には、疲れつか ているのは相手だけではなく自分も疲れつか ているという、共同体的な感覚を確認しあおうという戦略的意図があるのではなかろうかということに思いいたる。相手に苦労が発生した責任は自分にはないということを主張するだけではなく、自分も相手も疲れつか ている、ともに何者かに疲れつか させられている同志として、お互い たが 慰めなぐさ あうという意味合いがあるはずだ。だからこそ、職場の誰かだれ が先に帰るとき、みなでそろって「お疲れさま つか   」と声をかけることが、違和感いわかんのない挨拶あいさつ行為こういとして成立するのである。
 したがって、「お疲れさま つか   」が挨拶あいさつ語として最近定着した背景には、何者かに疲れつか させられているという閉塞へいそく感が、現代日本に蔓延まんえんしていることがあると想定すると、つじつまがあう。実際、『広辞苑こうじえん』を基準に判断するならば、挨拶あいさつ言葉としての「お疲れさま つか   」が定着しはじめたのは、バブル経済崩壊ほうかい直後、すなわち日本が簡単には解決できないさまざまな問題を抱えかか た長期停滞ていたい期に突入とつにゅうした時期からと推測するのが自然であろう。理屈りくつを追求してみると、これは偶然ぐうぜんとは思えない。

梶井かじい厚志「『お疲れさま つか   』」による)
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a 読解マラソン集 7番 いずれにせよ彼は nnzi3
 いずれにせよかれは室内に閉じこもって三十七年を過ごした。かみは母が切ってやっていたらしい。母親へ、医者にせようと考えたことはないのかと尋ねたず てみると、八十さい越えこ たのにかくしゃくとしている老母は、いささか焦点しょうてんのずれたことを言うのだった。「いえいえ、とても人さまにお見せできるような息子ではございませんでしたので」。
 そんなかれ鑑定かんていを受けるに至った経緯けいい煙草たばこであった。煙草たばこの火の不始末から火事を起こし、母子は焼け出されてしまった。そのときにかれはパニックに陥りおちい 大声を上げて暴れ回ったらしい。そのために、警官が保護をして鑑定かんていへつなげたのである。
 それにしても驚くおどろ べきは、彼らかれ の家が若者たちの集まる有名な繁華はんか街の中にぽつんと紛れ込んまぎ こ だ木造の古い一軒家いっけんやだったことである。わたしは、実はその家を目撃もくげきした覚えがある。よくも地上げ屋などに抵抗ていこうして家を維持いじしているものだと思ったし、何だか暗くて不気味な家だなあとも感じた。その印象は、まさに図星だったのである。
 かれが三十七年間も逼塞ひっそくしていた事実を、そしてそんな息子と一緒いっしょに暮らしていた母のことを考えると、これはひとつの不幸であると感じざるを得ない。が、本当に不幸と言い切れるのだろうか。
 彼らかれ には棲むす 家もあったし、仕事をしなくとも暮らしていける程度の金銭的余裕よゆうもあった。身体的な病気にもかからずに済んできた。彼らかれ は変化を望まなかっただけである。現状維持いじこそが幸福と捉えとら ていた。いや幸福とは思っていなかったかもしれないが、だから何かをするといった意志はなかった。
 精神科医の立場で老若男女たちと毎日接していると、実に多くの人々が「変化」を嫌うきら ことを知る。なるほど口では現状を手放しで肯定こうていしたりはしない。不平不満だらけである。夢を持つことと努力こそが大切だ、といった類のことも語る。だが、実際には何もした
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がらない。
 何かをすれば、ベターとなることもあれば逆によけいひどい結果をもたらす可能性もある。何かをすること自体が、たとえ最終的には良い結末をもたらそうとも、多かれ少かれ面倒めんどうな出来事を出来しゅったいさせる。そうしたことにいちいち対応しなければならない。予期せぬこと、厄介やっかいなこと、後悔こうかいすることも出てこよう。
 それなりのリスクや疎ましいうと   副産物があろうとも、ともかく変革を求めようと考える人は少数派なのである。精神的にタフな人間であり、そういった人々の行動は決してスタンダードではない。大多数の人々は、あれこれと考えているうちに面倒めんどうになってしまう。不満はあっても、現状に対してとりあえず慣れ親しんでいると、変化の訪れはむしろ億劫おっくうとなる。今がベストではないけれども、変化はもっと疎ましいうと   
 ぬるま湯に浸かっつ  ているのも現状に甘んじあま  ているのも不幸に安住しているのも、変化を嫌うきら といった点では同じである。そしてユートピアでの暮らしも。
 変化に喜びや充実じゅうじつ感を覚える心性ももちろんあるが、それはあくまでも精神的なタフさを前提としているのであって、もしかすると変化や変革に価値を置く発想は健康で丈夫じょうぶな人間ゆえの鈍感どんかんさや残酷ざんこくさに通じてさえいるのかもしれないのである。

(春日武彦『幸福論』)
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a 読解マラソン集 8番 「カセット」というと nnzi3
 「カセット」というと、いまではひとは普通ふつうカセット・テープのことを考えるだろうが、もともとは宝石などを容れる小箱、つまり「宝石箱」のことである。だから、「カセット効果」というのは、外国語や外来語をカタカナで表記することで、ことばを、中の見えない宝石箱に容れて、明確な概念がいねんや意味よりも、いかにもありがたそうにムード化して示す効果を意味している。
 しかも、それらの外国語のカタカナ表記は、多くの場合、門外漢にとっては原語を調べようにも調べられないかたちに縮約されているので、たちまち隠語いんごと化してしまう。このような隠語いんごたるやしばしば専門家たちの合言葉にもステータス・シンボル――これも外国語のカタカナ表記だが――にもなるのだから、手に負えないのである。原語の概念がいねんを明らかに示すためには、ときによっては、思い切って翻訳ほんやくした方がいい、と思うのである。
 その点で、日頃ひごろから私が感心しているのは、現代中国語では、コンピュータのことを「電脳」、プライマリ・ケアのことを「全科医療いりょう」、ファジー工学のことを「模糊もこ工程学」と思い切って意訳していることである。このうちコンピュータ→「電脳」は、脳機能の一部の外化を示していて的確なだけでなく、英語の「computer」やフランス語の「ordinateur」が依然としていぜん   「計算機」に囚われとら  ていることを思えば、実体の表現としてすぐれている。
 プライマリ・ケア→「全科医療いりょう」となると、さらに傑作けっさくである。プライマリ・ケアのプライマリは、プライマリ・スクール(小学校)のプライマリ、「基本の」ということを表わすとともに、プライマリ・ゴール(主要目的)のプライマリ、目的のうち「第一番目に重要な」ということを表わしている。(この全科といえば、かつて小学校の全教科の参考書が『××全科』と呼ばれていたことを思い出す。)日本語ではこれまでに決まった訳語がない。「基本医療いりょう」とか「一次医療いりょう」とかという訳語はあるが、十分にその意味を表わし切っていない。
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 もちろん、日本語の特徴とくちょうは、漢字仮名――この場合には、ひらがな――まじり文からなる上に、どんな外国語・外来語でもカタカナで近似的に音写することで、自国語の構文を壊さこわ ずにそのなかに取り込めると こ  ことにある。これはたいへん便利なことであり、このような日本語の持つ柔軟性じゅうなんせいは、日本の経済発展や諸外国の文化を採り入れる上で、少なからず役立っている。しかし、その反面で、日本語のなかにカタカナの外来語や外国語がとかく感覚的、気分的に安易に導入され、意味がよくわからずに感じだけで使われることに対しては、野放しにしておくべきではなかろう。
 たしかに漢字によって意訳せずにカタカナで音写しておけば、原語の持つ多義性を保存できた「気分」になれる上、新鮮しんせんな感じがするし輝いかがや て見えることもある。だから、学術用語としてばかりでなく、広告・宣伝用語としても、新社名としても、カタカナの外国語が好んで使われるのである。この「カタカナの外国語」は、もうすでに日本語になっていると言ってもいいので、排除はいじょすることなどできないが、それだけに、漢字による意訳に対するのと同じくらいの「うるさい眼」を、「カタカナの外国語」の使用法には持つべきであろう。

(中村雄二郎ゆうじろうインフォームド・コンセント            」による)
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