文章を読む営みは、単に文字が伝える内容を、記憶の中へ転写するというものではない。いわゆる速読とか、斜め読みの場合はともかく、この文章は何を意味しているのか、前後の脈絡はどうなっているのか、といったことを確かめながら読み進めないかぎり、一つにまとまった文章を理解することは難しい。こうした思考作業は、もちろん映画や音楽や漫画に接するときにも起こりうるものではあるが、文字という媒体そのものが、極めて抽象化された記号であるがゆえに、みずから頭を働かせなくてはいけない部分が膨大に生じる。これまで読書が「教養」の中核とされていた大きな理由は、そうした思考訓練の場をもたらす働きにもあったのだろう。
また、山崎正和が説くように、「身につかない単なる知識の記憶は教養ではないが、逆に知識の裏付けのない人格の陶冶は修養と呼んでも、教養とはいわない」。書物を通じて得た知識がほんとうにその人の発想や態度にしみこんでいないかぎり、「教養ある人」とは呼ばれないのも確かであるが、反面で、外から取り入れる知識は次元の低いものだとして人柄のみに執着する態度も、「教養」の敵とされてきた。
立派な見識や、豊かな情感を人が抱いたとしても、頭を働かせてそれを腑分けし、適切な言葉で表現できなければ、他人に伝えられない。書物を読み、知識を蓄える営みは、著者のそうした思考作業を追体験し、さまざまな発想に触れることで、自分の側の思考の道具立てを豊かにする、重要な意味を持っている。
このことは、もやもやした思考内容を整理し、順序だった形に整える、言語の機能と関連する。もちろん、漫画や映画などの「サブカルチャー」もまた、そうした回路として働くことは確かであり、「教養」の一環として、それを組み入れることも大事であろう。だが、日常言語の次元でなら、とりあえず誰でも理解し、それをみずからの表現手段として使いこなせる言語の場合とは異なって、映画や漫画やゲームを、みなが思い通りに作成できるわけではない。たとえコンピューターのソフト開発が進んで、今よりずっと容易になったとしても、言葉と同じ次元にまで降りてくることは難しいだろ
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