個人主義的な功利主義傾向にもとづいて「自分探し」がおこなわれるとき、「他者」がいかなる位置を占めるかを考えてみよう。各人が各人の「自分」を探し求めるとき、社会的空間はすべての「自分」実現を保証するようには構成されていないから、「自分」の獲得をめぐって必然的に客観的競争状態(受験競争など)が生じ、結果として社会関係が解体するということもたしかに重要である。しかし、それと並んでアイデンティティを問題に据える観点から重要なのは、獲得され実現されようとしている「自分」にとって、他者はその実現を承認するだけの道具的存在とみなされているのではないかという点である。本来的に人間は社会的動物であり、その社会性とは「他者」との相互的認知・承認関係に他ならないとすれば、その関係は、錯綜する「自分探し」と表裏するかたちで互いに道具主義的な「他者」探しとなっているのではないかということである。とすれば、「自分」がついに探し当てられたとして、その「自分」とはどのようなもので、どこにいるのであろうか。道具的存在でない「他者」といかにして出会うのであろうか。「他者」を道具的存在とすることに勝利して「生き残った」「自分」は、やはりそのようにして生き残った他の「自分」たちとどのような関係に入るのだろうか。そこでも、相手からの承認を求める道具主義的な関係――承認の争奪関係――に入るのではないだろうか。そしてその絶えざる運動のなかで人格的存在としての「他者」が失われるとき、「自分」もまた非功利主義的な人格を喪失していくのではあるまいか。かくして、排他的な道具主義的「自分探し」は、その「自分」と非道具的・人格的に関係することのできる「他者」の喪失過程であり、同時に人格としての「自分」を喪失する過程なのではないか。ひっくるめて言えば、人間同士の非道具的な人格的関係を喪失する過程なのではないかということである。
では、なぜこうした帰結が生じるのか。それはやはり、そのような「自分探し」が原理的に近代社会のものだからである。つまりそれは、人を「自分探し」に追いやる社会的状況を作り出している主要な社会的原理と同じロジックでおこなわれているからである。たとえば、「自分探し」において参照されている書籍群の主たる
|