a 読解マラソン集 9番 文化がたんなる習慣と nnzu3
 文化がたんなる習慣と異なる点は、常に一種の価値意識を含んふく でいることです。それゆえに、たんなる習慣には高いも低いもありませんが、文化には高い低いという質的な違いちが が生まれてくる。背後に文明という価値基準があり、それがいかに個人の身についているかが文化だからなのです。
 わかりやすい例を一つ挙げましょう。ピアノや楽譜がくふというものは西洋で生まれたものですが、まさにこれは文明の典型例です。楽譜がくふは頭のなかの秩序ちつじょであり、ピアノは頭のなかの技術を物質化したもので、したがって急速に世界に広がりました。
 しかし、社会のなかにピアノがある、楽譜がくふがあるということと、個人にとってピアノがけるということはまったく異なる現象でしょう。
 ピアノがけるとはどういうことか。たんにマニュアルに従い、順を追って鍵盤けんばん押すお ということではありません。キーの前に座ったら、もう指が動いてしまっているという状態になったとき、つまり身についた行動になったとき、真の意味でピアノがけるといえます。当然ながら、この行動には価値の上下があって、上手な人もあれば、下手な人もあるわけです。
 こうした現象は、生産技術の分野、たとえば工業の分野にも起こりうることです。二十世紀になって近代工業は世界中に普及ふきゅうしていきました。それは近代工業が文明であり、頭の産物だったからにほかなりません。しかし、しばしば指摘してきされるように、技術伝播でんぱがスムーズにいかない場合もあります。機械文明を受け入れた側の人びとがうまくなじめず、技術が文化として身につかないことも少なくない。この技術を身につける文化的な部分を、われわれはぞくに「ノウハウ」と呼んでいるわけです。
 文明の教育と文化の教育はいささか異なります。文明の教育が世界の果てまで容易に広がっていくのにたいして、文化の教育は人間の身体の能力に結びついているため、容易に平面的には広がらないのです。
 ピアノのける人が集団的に増え、その集団が面をなして広がっていくことは考えられないでしょう。ただ、その代わりというべきか、文化は文明地図の距離きょり超えこ 突然とつぜんに、一人の身体から他の人
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

の身体へと伝わることがあります。近年、中国や韓国かんこくから優れたピアニストが輩出はいしゅつしていますが、彼らかれ の育った環境かんきょうはピアノにとっては異文明の世界でした。しかし、そうした環境かんきょうにあっても、一人の個人が懸命けんめいに練習することで、文化としてのピアノを身につけることができたのです。
 行動がまるで技術のように規範きはんに従いながら、しかも文化として身につくという営みは、日常生活の一部にも現れます。一般いっぱんにこれは「作法」と呼ばれますが、そのもっともいい例が日本の「茶の湯」でしょう。
 湯を沸かしわ  茶をてて飲む。このごく日常的な行為こういが、茶の湯ではまずいったん手順に分解されて定式化されます。帛紗ふくさ捌きさば 茶碗ちゃわん拭うぬぐ といった、すべての動作が作法として図式化される。しかし、茶の世界でよくいわれることですが、手順が人の目に見えるようではまだ上達したとはいえない。水の流れのように、自然に見えるまで練習を重ねなければならない。いいかえれば、第二の習慣となったときに、上手な茶の湯、つまり文化としての茶の湯が成り立つのです。
 したがって、文化の教育は非常に難しいともいえるし、しかし一人一人の個人が自分の責任と努力によって習得できる不思議なものだともいえます。

 (山崎やまざき正和『文明としての教育』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 10番 「民主的人間」は nnzu3
 「民主的人間」は、身の周りの他者を自分の同類とみなす。「民主的人間」にとって、他者とは、自分と同じように、喜び、悲しみ、生き、そして死ぬ存在である。アダム・スミス(イギリスの経済学者)は「共感」概念がいねんによって、新たな道徳原理を打ち立てようとしたが、トクヴィル(フランスの思想家)に言わせれば、人が他者の感情や思考に共感するのも、他者を自分と同類とみなす想像力があってこその話である。他者の喜びや痛みに共感するには、そもそもの前提として、その他者が自分と同じように喜んだり、悲しんだりする存在であるという認識がなければならない。そして、そのような認識が当然のものとなったとき、はじめて「人類」という理念も生じる。人類とは、自分と、自分と同じように感じ考える同類の集合体として観念されるものにほかならないからである。
 (中略)
 これらのことがすべて正反対なのが、「アリストクラシー」の社会である。不平等こそを社会原理とする「アリストクラシー」の社会において、人を序列化するヒエラルキーの存在は自明視され、人は自分が社会のヒエラルキーのどこに位置するかということから、自己を認識する。このような社会において自然なのはヒエラルキーであり、身分制である。ヒエラルキーや身分制の存在は、過去から当然に存在してきたものであり、だれかが何らかの意図に基づいて作り出したものとは見なされない。人は自分の身分と自然に一体化し、自分が所属する集団の他のメンバーと密接に結びつく。そのような社会において、人は他者との紐帯ちゅうたいを疑うことはない。
 このような社会において、ルールや規範きはんは自分たちで決めるものではなく、自分たちの力の及ばおよ ない外部からもたらされる。価値の源泉は、自分たちを越えこ たところにあり、自分たちはそれを受け入れ、従うしかない。ヒエラルキーの存在もまた、そのような価値の源泉によって正当化される。人々はそれを正当であると考えて疑わないため、服従には卑屈ひくつさはない。むしろ、それに従うことに喜びを見いだすこともありうる。
 もう一つ、「アリストクラシー」の社会においては、人と人とが違っちが ていることが当然であり、人々を隔てるへだ  身分のかべが自明視されるが、その意味で人間間の差異は自然なものである。このような社会においては、人と人とを区別する差異は、あまりに当然な存在であって、なんら特別の価値を持つものとは見なされない。ところが、人と人とが互いたが を同類とみなす「デモクラシー」の社会におい
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ては、むしろ逆説的に、人と人との差異やその個性がそれ自体として価値と見なされるようになる。「デモクラシー」の社会において、人は相互そうごの平等性を前提に、自分の個性、独自性、差異を強調するようになり、これを他者に承認してもらいたいと願うようになる。しかしながら、「デモクラシー」の社会において個性が価値となるのも、あくまで原則としての平等があってこその話である。ある意味で、「デモクラシー」の社会における個性の追求は、平等の枠内わくないにおいて、平等が許容するかたちで差異を取り戻そと もど うとする試みとしても理解できるだろう。

 (宇野重規『トクヴィル不平等の理論家』より。文章を一部改変した)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 11番 日本の論壇で nnzu3
 日本の論壇ろんだんで、「個性」の行きすぎということが「戦後民主主義」とからめて批判的に議論されたときがあった。私は、そのような論者に基本的にうさんくさいものを感じて、同調するどころか、まともに取り合う気にすらならなかった。
 民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること自体、何を言いたいのかわからない。「戦後」という限定詞を付けたからといって、なぜそれがネガティヴなニュアンスになるのか?
 「戦後民主主義」の中での「個性」や「権利」の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた。「個性」が輝いかがや たり、「権利」が認められたほうが、よいに決まっている。「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百ぼんぴゃくの雑文と同等に扱わあつか れたり、財産が恣意しい的に没収ぼっしゅうされても、かまわないとでもいうのか。おそらくは、自分だけは例外というわけなのだろう。英訳でもしてみれば、論理構造の破綻はたんにすぐ気づく。まさに、日本語で書かれ、日本語けんという特殊とくしゅなマーケットで消費されることでしか成立しえない、ロクでもない議論であったように今でも思っている。
 「個性」が社会全体の調和と相容れないというのはとりわけ粗雑そざつな議論で、科学的に見ても間違っまちが ている。「個性」は、他者とのコミュニケーションがあってこそ、はじめて磨かみが れるものだからである。個性が輝いかがや ている人は、同時に他者との関係性を大切にし、社会にも貢献こうけんする人である可能性が高い。逆に、顔のない、ぼつ個性の人のほうが、よほど社会から孤立こりつし、調和を乱す可能性が高い。社会の調和のためにも、一人ひとりが個性を磨くみが のがよいのである。日本は個性よりも全体の調和をはかる社会だからなどと、呪文じゅもんのようなことを言っていても仕方がない。
 そもそも、人格というものは他者との関係性なしでは成立しない。他者との濃密のうみつなやりとりの中に徐々にじょじょ 形成されていくのが私たちの人格である。河原の石ころが流されていく間に他の石とぶつかってしだいに形を変えていくように、私たち人間もまた、他者との行き交いの中に、しだいに人格をととのえていく。その中で、しだいに一人ひとりの個性が立ち上がってくる。モーツァルトが誕生
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

し、小林秀雄ひでおが生まれてくる。おおかみに育てられた少女の実話を見ればわかるように、他者との関係なしに人間らしい個性を際だたせることはできないのである。
 インターネットに象徴しょうちょうされる情報化社会の高度化で、「個性」の価値はかつてなく高まっている。個性のない、均一社会の調和しか考えない人間だけが集まった国をつくっても、国際競争に勝てない時代がすでに到来とうらいしている。「ビートルズ」という強烈きょうれつな個性を持ったロック・バンドが登場したことによって、英国がどれだけの恩恵おんけいを得たか。マイクロソフトのビル・ゲイツや、アップル・コンピュータのスティーヴ・ジョブズのような個性的な創業者が出現していなかったら、アメリカの経済はどうなっていたか。戦後民主主義の中で個性が行きすぎたなどとする言説は、科学的な記述としてだけでなく、実体経済におけるパフォーマティヴの文脈の中でも間違っまちが ている。
 個性は、他人とのやりとりの中で磨かみが れる。日本の中に、個性を磨くみが ために必要なコミュニケーションが不足しているわけではあるまい。むしろ、濃厚のうこうすぎるくらいだろう。問題なのは、コミュニケーションの内実である。コミュニケーションにおける力学の働き方によっては、個性を大切にするアメリカのような国も、ぼつ個性をよしとする風潮が見られぬでもなかった一時期の日本のような国もできあがる。力学をどう設計するかが、コミュニケーションの作用を決するのである。

 (茂木もぎ健一郎けんいちろう『思考の補助線』による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 読解マラソン集 12番 普通に日本的性格 nnzu3
 普通ふつうに日本的性格、従って日本文化の特色として挙げられることは、日本人の同化力に基づいて外来文化を受容し集大成して文化が複質性または重層性を示してゐるといふのである。なるほどそれも一つの特色として挙げられるかも知れない。しかしどこの国の文化をとつて見ても外来文化の影響えいきょうを受けてゐないところはなく、そしてまた大抵たいていの場合にはそれを同化して独自の文化を発展させそして複質的または重層的文化を形成してゐるのである。また仮にそれが日本文化の特色であるとしてもそれは単に形式的な原理であつて、日本文化の内容そのものを具体的にへてゐるものではない。それならば何がいつたい日本的性格であるか。何がいつたい日本文化の内容上の特色であるか。日本的性格又はまた 日本文化にはどういふ諸契機けいきが見られるか。それをはつきりへることは甚だはなは 困難なことであるが、一つの試みを提出するのも必ずしも無意義ではなからうと思ふ。大体に於いお て日本的性格、従つて日本文化に三つの主要な契機けいきが見られるやうに私は思ふ。自然、意気、諦念ていねんの三つである。
 その三つはひにどういふ関係に立つてゐるか。先づ外面的には自然、意気、諦念ていねんの三つは神、、仏の三教にほぼ該当がいとうしてゐるとふやうにも見ることができる。従つて発生的見地からは神道の自然主義が質料となつて儒教じゅきょう的な理想主義と仏教的な非現実主義とに形相化されたとふやうにも考へられる。さうしてそこに神儒仏じゅぶつ三教の融合ゆうごう基礎きそとして国民精神が涵養かんようされ日本文化の特色を発揮したと見られるのである。
 今、質料とか形相とかつたが、この二つを内面的関連に於いお て見ることが必要である。形相といふものは外部から質料に加へられるといふ様なものではない。質料の中にもともと形相が潜んひそ でゐてそれがおのづから発展し自己創造して行くと共に自己に適合したものを外部から摂取せっしゅするのである。理想主義のあらはれの意気といふことと、非現実主義のあらはれの諦念ていねんといふこととは外来的な文化によつてはじめて新たに付け加へられた性質ではなく、既にすで 神道の自然主義の中に萌芽ほうがとして含まふく れてゐたものが次第次第に明瞭めいりょうにあらはれて来て、それと同時に外来的ではあるが自己に適合した要
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

素として儒教じゅきょうや仏教の契機けいきをも摂取せっしゅし同化したのであると考ふべきである。
 (中略)
 以上に於いお て、自然といふ質料の中に意気とか諦念ていねんとかいふ形相が内的におのづから含まふく れてゐてそれが次第にあらはに大きく成長して来る可能性が見られたと思ふ。自然主義からおのづから理想主義や非現実主義が発展して来るのである。理想主義や非現実主義を外来的のものとして大和民族の本来性と相容れないやうに考へる機械的歴史観に賛意を表するわけには私はゆかぬ。然るになほここに問題が残されてゐる。それは意気と諦念ていねんとは果たして相容れるものであらうかといふことである。意気とは武士道に於いお て見られる自力精進の精神である。諦念ていねんは他力本願の宗教の本質をなしてゐる。この両者は果たして相容れるであらうか。一体、気節のために動く意気は動の方面である。物に動じない諦念ていねんは静の方面である。そして動の中に静があり、静の中に動があるといふ可能性が見られる限り意気と諦念ていねんとの結合の可能性も目撃もくげきされなければならぬ。武士道でも命に安んずるといふことをふ。武士道が死を顧みかえり ないといふ裏面には死をあつさり諦めあきら てゐるといふ知見がうかがはれる。一般いっぱんに死への存在といふやうなものは諦念ていねん基礎きそに有つた意気といふ形で明瞭めいりょうにあらはれてゐる。死は生を殺すものではない。死が生を本当の意味で生かしてゐるのである。無力とちょう力とは唯一ゆいいつ不二のものとなつてゐる。諦念ていねんは意気の中に見られる否定的契機けいきとして欠くことのできないものである。意気と諦念ていねんとはひに相容れないやうなものではなく、むしろ両者は相関的に成立するものである。

 (九鬼くき周造「日本的性格について」(一九三七年)による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534