「いれもの」は、実用的にいえば文字どおり、「もの」を「いれる」ための「もの」ということであって、それ以上でも以下でもない性質のものだ。
しかし、「いれもの」をたんに実用的機能の面だけで割り切って考えることができないのも、人間のおもしろいところだ。もちろん、要するに、ものがはいればそれでよい、というので、ありあわせの古いボール箱などを「いれもの」として使うこともあるが、それは、たとえば引越しのとき、といった臨時の「いれもの」であって、まがりなりにも、生活備品としての「いれもの」には、われわれはなんらかの美的くふうを凝らす。古いボール箱に紙をはり、空きカンにはペンキを塗る。「いれもの」は、うつくしくなければならないのだ。「いれもの」がうつくしくなければ、生活そのものがうつくしくないのである。
商品化された「いれもの」を買うときのわれわれは、ときとして、そのなかにはいるものを買うときよりも慎重である。たとえば、小麦粉だの砂糖だのは、日常の必需品であって、べつに銘柄を指定することもないが、それらの食品をいれるキャニスターを買うときには、あちこちの店を歩きまわって、よいデザインの品物をさがす。値段が多少高くても、うつくしいものを手にいれようと一生けんめいになる。
タンスなどもそうだ。値段と実用性からいえば、デパートの特価品売り場にたくさんタンスがならんでいるから、そのなかからえらべばそれでよいのだが、ながく使う家具、と思うと、なかなか実用一点ばりで気軽に買う気にはなれない。使われている材料だのデザインだのを吟味して、いいタンスをさがしまわる。
つまり、「いれもの」は、たんなる「ものいれ」ではないのである。「いれもの」はそれじたいの価値をもつものである。まえにあげた女性のハンドバッグなどもその一例だ。実用機能からいえば、財布だの化粧品だのといった小物がそのなかにはいればそれでよいので、極端にいえば、丈夫な紙袋だって間にあう。しかし、そう
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