昔、夏に食べたトマトはおいしかった。一山二十円で八つくらいあり、お菓子類より安かったのでおやつによく食べたものだった。今のように、全身見事にまっかっかのトマトではない。ヘタの周囲などはうす青いのである。いかにも野菜であるという、庶民的ムードを持っていた。それに塩をふるだけで、切ったりせずにかぶりつくのである。
あのころのトマトは臭かった。だから厳密にいうと、今のトマトと昔のトマトのどっちがおいしいかという話に簡単に答えは出せない。
昔のトマトは青臭く、特に種のところのゲル状地帯は臭みが強かった。そしてヘタのほうへ行くと青くてガジガジで、もう食べられない。それに比べれば今のトマトは美しく赤く、臭みはほとんどなく、肥料に砂糖をやっているんじゃないかと思うほどあまい。両方をもし並べることができたら、今の子どもはいまのトマトの方がおいしいというかも知れない。
だが、昔のトマトの味の中には、夏があった。あの臭みは、夏の臭みだったのだ。そしてあのトマトは、生命感を宿していた。
それはしかし、好みの問題かもしれない。
だが、好みの問題ではなくて、はっきりと、昔の野菜にはあって、今の野菜にないものがある。それは、旬、という概念である。
野菜や魚などの、最もおいしい時期という意味の、旬。
今、トマトはスーパーへ行けば一年中ある。だから、トマトに旬はなくなったのである。年中いつ食べても同じ味がある。
キュウリやナスや大根にも、季節感がなくなった。白菜だって、夏場に手に入る。ねぎは本来どの季節の野菜かというクイズをやって、若い女性が春、なんて答えているありさまである。
ハウス栽培によって野菜は季節から離脱した。それはある意味では、進歩というものである。
しかし、便利を手にいれたとき、我々は季節感を失い、旬のもののおいしさをうばわれたのである。せみ取りに行って、麦わらぼうをかぶって、渓流に落ちてひざから血が出て、でもカブト虫をつかまえたんだから大満足、という夏と、昔のトマトはぴったり
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