トロンボーンのアズモが親指をたてて「いけるね」と合図してきた。アズモに答えたとたんに、会場が見えた。観客の一人、一人の顔が見分けられる。
お母さんは正面の二階席最前列にいた。「あそこにいたか」と克久がちらりと視線をやった。隣りは今朝まだ名古屋から戻っていなかったお父さんだ。久夫と百合子が並んでいるのは意外だった。それから、克久は何かを「あれ」と感じた。そのあれが何なのかは解らないが、二人が初めて並んで座っているのを見たような気がしたのだ。例えて言えば同級生が花の木公園でデートをしているのを目撃したような感じだった。両親はいつもより若々しかった。
それは一瞬の閃光だった。
曲名と学校名を紹介するアナウンスが会場に入った。指揮台わきに滑り込むようにたどりついた森勉が、実に素早く息を整えた。アナウンスが終わると同時に、ベンちゃんの息をきらしていた肩は、静かになった。指揮台に上がった時には、数秒前まですばしっこく走り回っていたのがうそのようだ。有木と目が合う。指揮棒が振り上げられた。高く澄んだクラリネットの音が観客をしっかりつかまえた。ティンパニが鳴り響く。
「交響曲譚詩」は無難にこなした。祥子がマリンバの位置に移動するほんの数秒のことだ。会場は水を打ったようだ。再び指揮棒が振り上げられた。
ティンパニが静かに打ち鳴らされ、チューバなどの低音グループが最初の主題を奏で始めた。克久は真っ直ぐに立っている。立っているけれども、既に身体は音楽の中に吸い取られていた。何か、大きなものに包まれる感覚だった。
そこにあるものは、目に見えるものではなかった。が、克久は全身で、そこに確かにある偉大なものに参与していた。入るとか加わるとか、そういう平たい言葉では言い表せない敬虔なものであった。感情というようなちっぽけなものではなくて、人間の知恵そのものの中に、自分が存在させられていた。それが参与ということだ。
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