四年も前のことだから正確には「近頃」ではないのだが、私にとっては昨日の出来事よりずっと鮮烈な話なのである。昭和六十年の夏、私は撮影のためにヒマラヤの麓、ネパールのドラカという村に十日余り滞在していた。海抜千五百メートルの斜面に家々が散在して、はりつくように広がっている村で、電気、水道、ガスといったいわゆる現代のライフ・ラインはいっさい来ていない。四千五百の人口があるのに、自動車はもちろん、車輪のある装置で他の集落と往来出来る道がないのだ。しかも、二本の足で歩くしかない凹凸の山道をいたる所で谷川のような急流が寸断している。そこにさしかかったら、岩から岩へ命がけで跳ばなければならないのだ。手押し車も使えないから、村人たちは体力の限界まで荷を背負ってその一本の道を歩む。だから、茂みが動いているのかと驚いてよく見ると、下で小さな足が動いていたりするのだ。燃料にするトウモロコシの葉の山を、幼い子供が運んで行くのである。昔日本でも村の共有地である入会山で柴を刈る時は、馬車で持って帰ることなど禁じられていた。自分の体で背負えるだけしか刈ってはいけない。自分が背負える分量だけ刈るのなら、お天道さまに許される、という思想があったのである。
時代は違うが、車を転がせる道が無いおかげで、ドラカ村の人々は結果的に環境保護にもかない、お天道さまにも許される生活をしているわけだ。しかし、昔のことはいざ知らず、いま村人たちは自動車の通れる道路をふくむいっさいのライフ・ラインに恵まれていない自分たちの生活が、世界の水準より下だと熟知している。だから、旅行者には桃源郷のように見える美しい風景の中で、かなりつらい思いで暮らしているのだ。とりわけ若者たち、子供たちには村を出て電気や自動車のある町へ行きたいという願望が強い。それも無理ではないのであって、私たちにしても車が使えないここでの撮影は一瞬一瞬が重装備の登山なのだ。車で来られる最終地点から村までは、十五人もポーターをやとって機材や食糧を運んだのだが、余分なものをいっさい割愛せざるを得なかった。真っ先にあきらめたのがビールである。なにより、重い。アルコールとしてならウイスキーの方が効率的だ。それを六本、一人一本半ずつ持て
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