ある人は、生きることの本質は演劇的なものであると考える。ある人は、人生とは砂漠のようなものであると考える。徳川家康は、重い車を坂に押し上げるようなのが人生だと考えた。徳川家康のこの考えは、多分に、功利的なものを含んでいて、生きて仕事をする努力は車を坂に押し上げるように絶えず努力をつづけていれば成功する、という教訓につながっている。
しかし同じような形だが、ギリシャ神話のシジフォスのことを持って来て説明したアルベール・カミュは、それをもっと人間の原罪のようなものに結びつけて、生きることの本質として説明している。シジフォスはギリシャのコリントの王で、狡猾貪欲な人間だったので、死後地獄で罰として、岩を山の上まで押し上げることを命ぜられる。その岩は、頂上まで届くと、そこからころがり落ちる。するとまたシジフォスはそれを押し上げねばならない。人間は、何人もその内部に持っている狡猾さと貪欲さの故に、生きる上で何等かの岩を押し上げねばならず、しかもその岩は頂上に達すると必ず転がり落ち、彼はまたそれを押し上げることをくり返さねばならない。人間であることの本質の中に、そのような苦行が含まれている、というふうにカミュは考えた。
こういう風に、ある人が、自己の体験から人生についての一貫した論理を作ったり、または別のもの、砂漠とか転がる石などによってそれの本質を説明したとき、それは思想と呼ばれるのである。思想と呼ばれるものは、必ずしも体系的な論理的構造を持たなくてもいい、しかし、それは、ある時の体験、ある事件を説明するのに役に立つだけでは真の意味の思想とは言われない。いろいろな体験、様々な事件にぶつかったときにも、その同じ考えでもその事件の本質を説明して、本人が満足し、やっぱり今度の体験においても人生は砂漠のようなものだと分かったとか、人生は劇場のようだと、繰り返して考えるとき、それは一つの思想と呼んでいい。
なぜなら、その人は常に、そういう比喩の中に、生きることの本質を見出しているのであり、これから起こるであろう将来のことをも、その考えかたによって待ち受けるからである。そのようなとき、それはその人にとっての思想である。しかし、本人だけがそう
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