a 読解マラソン集 9番 「もう海なんて yabi3
「もう海なんてすぐそこさ。フンドシ一つで走って行ける。」
 と父は、何度目かの転勤でこれから行く南国の町について語ったことがある。
 私は父の口調に照れくささもまじっていると思った。
 その転勤は父にはどこか嬉しいうれ  かんじのするものだったろう。父は四十を越しこ あぶらののりきった時期であった。家からふんどしのまま走って行けるというたとえが、息子には、どこかで本当と思えなくても、ただの上っ調子の誇張こちょうとはかんじられない。まぶしい、自信のようなものが伝わってきて、返事をし兼ねるか  思いで、
「はだかで?」
 とびっくりした声を上げた。
「おお、かまわんさ。」
 父は自分の冗談じょうだんが通じたように笑った。息子はなんだかちょっぴりかなしくなった。
 父はもともと冗談じょうだんがうまく言えない性質だった。いや家では周りがそう決めていたのだ。私は、唐人とうじん寝言ねごととか、裏門から右衛門殿どのが、とかのふざけた言葉を父の口からきいたことはある。それはひびきがおかしいだけで父のユーモアでもなんでもなかった。ただそういう言葉に父の恬淡てんたんさへの努力が見出せた。母の方は関東育ちで父は関西育ちだが育ちがちがうとユーモアも食いちがうらしい。実際相手にされない諧謔かいぎゃくぐらいアホらしくみじめなものはない。私はなにも家族の笑いというのはお互い たが 人柄ひとがらを尊重するところからうまれる、とは思っていない。むしろ逆かもしれないし、たいていの場合は、人格尊重にかかわりなく笑いは笑いとして、笑って過ごせるものだ。それがうまく行かないのは単に通じないからなのだ。私は、父にも、妻や子供を笑わせたいと思うことはあっただろうし、それなりの冗談じょうだん誇張こちょうや、落語の落ちのような会話も結構やりとりしていただろう、と考えるだけだ。
 ともかく、ふんどし一つで海まで走っていける、と言うのも、私を喜ばせようとして言ったもので、それを聞いて嬉しかっうれ   た。家からはだかで海辺に駆け出しか だ ていけるのは、私には願ってもない生活だった。一足先に行ってきた父は、その町の生活に、自信をもっている
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ようだった。
 父は転勤のとき最初なるべく子供の前で口にするのを避けさ ている。子供がたまりかねて、「ねえ、またどこかに行くの。」と訊くき と、母は仕方なさそうに、「ええ、そうよ、こんどは……よ。」幾らかいく  打ち沈んう しず だ口調で言い、父が「あの荷物を解かなくてよかったじゃあないか。」などと元気づけて言うのに殊更ことさら恨めしうら  そうにかたで息をつく。ぐずぐずすることの好きな母には一年か二年である転勤はとにかく大変だった。引っ越しひ こ のときなど、一種の気力というものに頼ったよ ていなければならず、それはもう母の最も苦手とする精神論なのだ。いけないとわかっていても母の受け止め方は、本当にいやいやだった。

(坂上ひろし枇杷びわの季節」)
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a 読解マラソン集 10番 我々がペンを yabi3
 我々がペンをとって何かを書くということは、言葉を開拓かいたくしていくということと同じ意味をもつ。この開拓かいたくによって自己というものが形成されていくのである。言葉の不自由な性質そのものが言葉を開拓かいたくする原動力になるのだ。こうした性格が逆に我々を幾たびいく  も考えさせ、迷わせ、あるいは邂逅かいこうをうながすといってもいい。
 つまり言葉というものに翻弄ほんろうされる自分自身を見出みいだすということが、読書日記をつける一つの利益なのだ。さまざまな言葉に翻弄ほんろうされながら、そしてその極限に見出すものは何かといえば、あらゆる種類の言葉を組み合わせてもなお表現することのできない「沈黙ちんもく」というものだ。これはだれでも日常経験することで、たとえばある本を読んで非常に感動したとき、あるいは思い惑うまど たとき、どんな現象が起こるか。まず言葉を失っている自分自身を見出すであろう。心の中であれこれと思いめぐらしてみるが、さて口に出そうとしたり、自分でペンをとって表そうとすると、どう表現していいかわからなくなることがある。たちまち言葉にきゅうして沈黙ちんもくせざるをえなくなる。
 真の感動は必ずこういう現象を起こすもので、ここに生ずる沈黙ちんもく状態を私は重視したいのだ。なぜならいま述べたような意味で言葉を失うということは、反面からいうと心の充実じゅうじつを意味するからである。言おうと思っても容易に表現しきれない、そこに人間の心の真実が芽生える。しかもそういう真実ほど人に告げたい、あるいは表現してみたいという欲望を起こさせる。こうした苦しみ、つまり言葉の障害と格闘かくとうし、開拓かいたくし、この苦闘くとうの中に人間の精神は形成されるのである。
 自分の言葉をもつということは至難なことだ。我々は自分の言葉だと称ししょう ながら、いかにしばしば他人の言葉を使っているか。有り合わせの言葉を用いたり、世間一般いっぱんの流行語を無批判に使っているが、いうまでもなくそれは精神の死である。自分の言葉をもつということは、自分が生まれることだ。むろんそこには固有の体験と、あわせてその体験への正直な思索しさくがなければならぬ。そうして発した自分の言葉は、その人の生命のあけぼのだといってよい。「生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき
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生涯しょうがいなり。」とは若き島崎藤村しまざきとうそんの詩集の序文の一節だが、新しい言葉、つまり自分で苦闘くとうして考えぬいた言葉は、その人の生命をひらくのだ。

亀井かめい勝一郎かついちろう「読書論」)
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a 読解マラソン集 11番 「学ンデ時ニ之(コレ)ヲ習フ」 yabi3
 「学ンデ時ニこれヲ習フ」という習の字は、鳥が羽ばたいて飛翔ひしょうを練習する形を現したものであるということである。私は人間の能力がこの練習ということによって高められ、不可能が可能にされていくことに興味を感じている。人類進歩の道程上において、今日まで無数の不可能が可能にされてきたが、それは一方では発明によってなされ、他方では練習によってなされた。空を飛ぶこと、水をくぐることは、人類あって以来の願いであったろうが、この宿題は、発明によって解決された。他方、無数の事例において、人間は練習錬磨れんまによって、不可能を可能にしてきたし、また現にしつつある。
 寺田寅彦とらひこ随筆ずいひつに、米つぶに千字文を書く人の話があったのを記憶きおくする。それによると、はじめ米つぶを指頭にのせて毎日ただながめている。すると、それがだんだん大きく見え、しまいにははとの卵ぐらいに見えてくるという。そのときにいたって、特殊とくしゅの細い筆で書けば千字書けるというのである。また、天体の観測者が、非常な速さをもって望遠鏡面を飛過する天体を目でとらえるのは容易ではないが、それが練習によって、やがてゆっくり見て、カードに記載きさいすることもできるようになる、というような話であった。
 われわれはこれに類する錬磨れんまの実例をいたるところで見るが、手近なところで、運動競技の名手の技術には、しばしば驚かさおどろ  れる。先年招かれて学生の剣道けんどう道場に行くと、わざわざ模範もはん試合をさせて見せてくれた。選ばれたのは、三段中の精鋭せいえいふたりということであったが、うち合うこと数合、いかなるわざか、一方の者は竹刀をまき落とされた、瞬間しゅんかん飛びすさった赤手の剣士けんしは、竹刀を振りかぶっふ    た相手と相対した。かけ声とともにうちおろす。どうひきはずしたか、次の瞬間しゅんかん、ふたりは竹刀を捨てて組み合っていた。三段中の手ききといわれた相手の太刀の下を、どうくぐったか、文字どおり目にもとまらぬ早わざであった。そのとき考えたが、かりにわれわれがどんな名刀を振り回しふ まわ たところで、この赤手の若者をきることはできないのである。剣道けんどうでは昔から、一眼、二足、等ととなえて、目の錬磨れんまをやかましくいったものときくが、目前にその実演を見て驚いおどろ た。
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 しかし、これは剣道けんどうには限らない。われわれは見慣れてなんとも思わないが、野球の打者が飛んでくる速球を打つのでも、実は驚くおどろ べきことである。いわんやとっさに曲がるカーブを、誤りなく打つ等にいたっては、常人から見れば、人間以上のわざともいえるのである。試みに全く野球の心得のない人の前に静かにゴロをころがしてつかませてみるとわかる。たいていの人は、両手で、球の通過したあとの空気をつかむのが常である。もしこれを常人というのなら、打者のうしろにいて、振り回しふ まわ たバットに触れふ たファールチップを平気でつかむ捕手ほしゅのごときは、超人ちょうじんというべきである。
 柔道じゅうどうの心得のあるものは、倒れたお ても頭を打たぬ。水泳の心得のあるものは、水に落ちれば、自然に適当に手足を動かして、沈ましず ない。いったい、立ち泳ぎのまき足のごときは、いっけん不自然な足の動かし方をするのであるが、練習したものは、なんの苦もなく、無意識のうちにそれをする。およそ水に落とせば必ずおぼれて死ぬ人に比較ひかくすれば、落ちても沈ましず ない人間は、別種の動物といってもさしつかえないほど、すぐれたものであるわけだが、人は練習によってそれになることができる。

(小泉信三「平生の心がけ」)
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a 読解マラソン集 12番 テレビやラジオに yabi3
 テレビやラジオにいわゆる教養番組が多くなった。また、日本や諸外国の文物風土を紹介しょうかいし、現状を分析ぶんせき批判するような現地報告の番組も多くなった。それらはそれぞれにおもしろい。おもしろい以上に、ときにわれわれに疑問をなげかけてくる。ところで残念ながら電波ジャーナリズムというものは、疑問を自分で考えてみたいから、一寸ちょっと待ってくれ、といっても待ってくれない。電波の機械的なテンポをもってさっさと歩み去ってしまう。われわれは考えることはやめて、眼や耳でついてゆかなければ前後の脈絡みゃくらくを失ってしまう。
 十五分か三十分の番組が終わると、とっさにとんでもないコマーシャルが聞こえてきたり、何の関係もない音楽になったりさては白菜、トマトの百グラム当たりの今日の値段になったり、美容体操になったりする。見るともなく、聞くともなくそれらを見、聞きしているうちに、さきに疑問に思い、考えてみたいと思ったことも、どこかに消えて、あとかたもなくなってしまう。
 このことの人間に及ぼすおよ  影響えいきょうはかなり大きい。現代において、人間の生活、生涯しょうがいが断片化し、瞬間しゅんかん化し、昨日と今日、今年と来年との間の精神のつながりが稀薄きはくになったことが言われている。これにはいろいろな原因があろう。たとえば仕事が分業化し、専門化し、機械化して、人間の経験、過去の蓄積ちくせきを不用にするという傾向けいこうが強まってきているということもその原因のひとつであろう。さらにいえば、その人の個性を必要としないのみか、かえって個性を邪魔じゃま者とするような職場、仕事が多くなってきた。機械の番人、また追随ついずい者になることが要求せられる、ということもある。経験も個性もいらないということは、人間から誰々だれだれでなければならぬということを奪いうば 、アノニムな存在、即ちすなわ だれでもかまわない誰かだれ ですむということである。そういうことを長年にわたってやっておれば、人間の断片化は当然に起こってくるだろう。
 精巧せいこうな機械や自動機械が多くなれば、人間の労働時間を少なくしても、生産を増加することができるだろう。生産の合理化は、今日ではそういう方向ですすめられている。一日の労働時間が六時間になり、週五日制になるということも起こってくるだろう。当然に休暇きゅうかが多くなる。さてそのできたな時間をラジオやテレビを
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聞き、見ることにあてるとすれば、それらは既にすで いったような性格のものだから、前後の持続しない断片化に拍車はくしゃをかけるという結果になる。
 右のことは、現代という時代の必然的な傾向けいこうだから、ある意味ではやむをえないことであるが、さてそれでいいのかと考えてみればそれでは困るのである。やむをえないとしても、いいとはいえないのである。ここに問題がある。
 人間が断片化し、瞬間しゅんかん瞬間しゅんかんに生存する存在に化するということは、自己自身に対して責任を負わなくなるということである。また自分自身の一生、生涯しょうがいというものをもたず、年毎としごとに深まる年輪をもたないということである。夫婦、親子、師弟、友人の間柄あいだがらが、そのときどきの都合による結びつきとなって、持続する愛情も尊敬もなくなるということである。これは人間にして人間らしくない生き方、非行人間だと私は思う。過去を負いながら未来を思い、現在において現在を超えこ たもの、即ちすなわ 人生や自分の存在の意味を思い、その意味を認知することによろこびを感じ、また現在の自己に不満を感じるということが、人間を他の動物から区別している特質である。

唐木からき順三「詩とデカダンス」)
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