また、虫のことだが、蚤の曲芸という見世物、あの大夫の仕込み方を、昔何かでよんだことがある。蚤をつかまえて、小さな丸い硝子玉に入れる。彼は得意の足で跳ね回る。だが、周囲は鉄壁だ。さんざん跳ねた末、若しかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。試しにまた一つ跳ねてみる。やっぱり無駄だ、彼は諦めておとなしくなる。すると、仕込み手である人間が、外から彼を脅かす。本能的に彼は跳ねる。駄目だ、逃げられない。人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覚。この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。そこで初めて芸を習い、舞台に立たされる。
このことを、わたしは随分無慚な話と思ったので覚えている。持って生まれたものを手軽に変えてしまう。蚤にしてみれば、意識以前の、したがって疑問以前の行動を、一朝にして、われ誤てり、と痛感しなくてはならぬ、これほど無慚な理不尽さは少なかろう、と思った。
「実際ひどい話だ。どうしても駄目か、判った、という時の蚤の絶望感というものは――想像がつくというかつかぬというか、一寸同情に値する。しかし、頭かくして尻かくさずという、元来どうも彼は馬鹿者らしいから……それにしても、もう一度跳ねてみたらどうかね、たった一度でいい」
東京から見舞いがてら遊びに来た若い友人にそんなことを私は言った。彼は笑いながら、
「蚤にとっちゃあ、もうこれでギリギリ絶対というところなんでしょう。最後のもう一度を、彼としたらやってしまったんでしょう」
「そうかなア。残念だね」わたしは残念という顔をした。友人は笑って、こんなことを言い出した。
「丁度それと反対の話が、せんだっての何かに出ていましたよ。何とか蜂、何とか言う蜂なんですが、そいつの翅は、体重に比較し
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