明治時代、英語の語学のことを英学と言った。漢学になぞらえたことばであろうが、漢学がすでに久しく実学の性格を失っていたことを考えると、実学の英語の語学が名前だけ英学と呼ばれようと、漢学と同じような性格のものたり得なかったのは当然であろう。それはともかく、明治時代に早くも精神的要素の加味された近代語の修得が考えられたことは注目に値する。　
　自国と外国の国力や文化の関係は三つの場合が考えられる。（一）自国が外国を凌駕（りょうが）している。（二）自国と外国が対等である。（三）外国の方が優越（ゆうえつ）している。実学としての語学が生まれるのは、このうち（三）の場合である。（一）のようなときには外国語が一国の教育的関心事となることはまずあり得ないと言ってよい。　
　実学としての語学は、文化的にいわゆる後進国的社会において始まる。外国語は先進国と後進国を結ぶパイプであるが、両者の落差が大きければ大きいほど、このパイプの存在価値も大きい。少しくらい穴があいていても苦情などはきかれないであろう。ところが、受け取り側の文化が発達して来て、先進国との差をつめるようになると、語学というパイプはかつての万能性を失い、無条件の尊重を得にくくなる。水の漏れる（も　　）ようなパイプではこまるという意見が出て来る。落差が少なくなればなるほど、パイプは完全なものが要求されるであろう。すなわち、社会的水準が上がれば上がるほど、語学に対してもきびしい実用性を求めるようになる。もし、それが容（い）れられないと、役に立たない語学だという批判が生まれる。現在のわが国の語学は明治時代のそれと比べると非常な進歩をとげている。それにもかかわらず、現在の語学は実用性について明治の語学が受けたことのないような批判の前に立たされている。これは、わが国が欧米（おうべい）諸国との間の落差を縮めて来た証拠（しょうこ）である。　
　欧米（おうべい）の文物の移入を目的として始まった語学であってみれば、欧米（おうべい）との落差が小さくなって来れば、当然、その実用的性格を変化させなくてはならないはずである。　
　もう十数年前のことになるが、実業家の団体から学校の語学教育に対して、もっと役に立つ語学を教えてほしいという注文が出された。日本人の語学は読むばかりで、書いたり会話ができない。これを改善して、会話でも何でもできるようにしてほしいというのであった。これが役に立つ英語といわれるようになったきっかけである。この要望の中には、自覚されているかどうかは別として、外国

と文化的に新しい関係に入ったわが国として、従来の語学の考えを修整しようという意図が汲み（く　）とられる。落差の少なくなった二つのタンクでは穴などのあいていないパイプでなくては、一方から他方へ水を流すことができない。読むだけではだめで、話したり、書いたりもできなくてはいけないという声が出て来るわけである。　
　この役に立つ語学を、という意見は大きな反響（はんきょう）をよび、世論の支持を受けた。語学の関係者もこれに同調して、教授法の大幅（おおはば）な改変を試みたりもした。その成果にはかなり見るべきものがある。語学教育も一応の近代化をとげたと言ってよかろう。　
　しかし、これが依然として（いぜん　　　）、実学としての語学だけを肯定（こうてい）していることは従来と変わりがない。役に立つ語学という意見自体も、その実学の基盤（きばん）に問題が出て来たために生まれたものだから、実学的性格を強化するだけでは問題の真の解決にはならない。むしろ、実学に代わる新しい文化の学問としての語学が考えられるかどうかが問題にされるべきであったのである。ところがそういう意見はついにきかれなかった。実学の語学からの転換（てんかん）をせまられる事情が生じつつあるのに、かえってよりいっそうつよく実学に固執（こしつ）してしまった。語学の専門家たちが実業界の意向に全面的に賛成してしまったのも不思議である。　
　わが国が欧米（おうべい）諸国と肩（かた）を並べ、さらにそれを凌駕（りょうが）する日が来れば、実用だけの語学は消滅（しょうめつ）してもよいことになる。教育の一環（いっかん）としての語学は、そういう時代になってもすこしも価値を減じないものでなくてはならない。実用性が疑問視され出しているいまこそ、語学は文化の学問として新しく生まれかわる好機である。　
　わが国のように、独自の文化の伝統をもちながら、国民の大部分が外国語を学習しているというのは、異例に属することであろう。したがって、実用性だけでは語学に注がれる努力の正当化の理由として、薄弱（はくじゃく）である。その上に役立つ語学はどうしても、思考性を犠牲（ぎせい）にしがちである。そういう懐疑（かいぎ）ももたれはじめている。　

（外山（とやま）滋比古（しげひこ）「言語と思考」）

　私の郷里には、浄蓮の滝（じょうれん　たき）という多少名を知られた滝（たき）があるが、この滝（たき）に遊びに行った時も、帰る時は一番あとになるまいという気持ちが働いた。滝（たき）壺（つぼ）の近くで落下する水の飛沫（しぶき）を浴びていても何の怖（こわ）さも感じなかったが、いざ帰途（きと）に就こうとして、いったん滝（たき）を背にすると、辺りのたたずまいは一変するかに思われた。（中略）
　山火事は多かった。村の半鐘（はんしょう）が鳴ると、大抵（たいてい）山火事だった。半鐘（はんしょう）は火事の現場に向かう人たちをあつめるためのもので、いくら半鐘（はんしょう）が鳴っても火が見えるわけでも、危険が身近に迫る（せま　）といった不安があるわけでもなかった。子供たちは生き生きとした。どこか遠いところで容易ならぬことが起こっており、そこへ消防服を纏っ（まと　）た大人たちが繰り出し（く　だ　）て行く。村はいつもの村とは異なった表情をとって来る。
　山火事は、大抵（たいてい）、二月か三月の植え付けの頃（ころ）が多かった。植え付けの伐採（ばっさい）地を掃除（そうじ）に行った者が、枯れ枝（か　えだ）などを集めて燃している時、その火が他に燃え移ってしまうのである。火が他に燃え移ることを「火が逃げる（に　　）」と言った。「火が逃げる（に　　）」という言い方には、ある感じがあった。私たちには、火が、どこへでも自分の望むところに自由に燃え移って行く生きもののように思われた。私たちは自分の家や囲炉裏（いろり）や竃（かまど）で毎日見ている火とは全く異なった火を頭に描い（えが　）ていた。山火事の火だけが、逃げ（に　）たり、走ったり、追いかけたりする生きものの火であった。
　その生きものの火を見るためには、山火事の現場まで出向いて行かなければならなかったが、残念なことに、子供たちの行けるところではなかった。一里も二里も離れ（はな　）ている天城（あまぎ）山中の出来事であった。（中略）
　小学校の一、二年の時のことであったと思うが、一度山火事を見に行こうとしたことがあった。馬飛ばしを見に行く時、富士の見える峠（とうげ）を一つ越さ（こ　）なければならなかったが、その富士の見える峠（とうげ）付近で、山火事が起こったのである。
　私たちは村の大人たちの間にはいって長野を目指した。道は上りになっているので、ところどころで休まなければならないが、休むのはそのためばかりではなかった。道ばたに腰（こし）を降ろしていると、

村の大人たちが駈け（か　）て行く。消防の若者も居れば、老人も、内儀（かみ）さんも居る。居ないのは、子供たちばかりである。
　――おい、お前ら、どこへ行く？
声が飛んで来ても、私たちは黙っ（だま　）ている。今の言い方をすれば、黙秘（もくひ）権を行使しているのである。何と言われても、黙っ（だま　）ている。
　――火事場などへ行こうと思ったら、とんでもねえことだぞ。帰んな、帰んな。
　しかし、大人たちが行ってしまうと、私たちは腰（こし）を上げる。そして駈け（か　）たり、歩いたりする。
　長野の集落にはいったが、山火事は見えなかった。大人たちがみんな茅場（かやば）の方へ出掛け（でか　）て行ったためか、集落の内部はいやにひっそりとしていた。
　私たちは集落を突っ切っ（つ　き　）て、茅場（かやば）へ向かう間道（かんどう）へ出たが、その頃（　　ころ）から、何となくみんな家に帰りたい気持ちに揺ら（ゆ　）れ始め、山火事見物の方はさしてどうでもいいような気持ちになっていた。薄暮（はくぼ）は辺りに垂（た）れこめ始めている。
　芥川（あくたがわ）龍之介（りゅうのすけ）に「トロッコ」という作品がある。人夫たちにトロッコに乗せて貰っ（もら　）て遠くまで行ってしまい、気が付くと、夕暮れが迫っ（せま　）ている。帰りはトロッコに乗るわけには行かないので、夕闇（ゆうやみ）の中を一人で帰って来なければならない。そういった少年のことが書かれている。
　この「トロッコ」を読んだ時、私は山火事を見に行って、山火事は見ないで、途中（とちゅう）から帰って来た幼い日のことを思い出した。

（井上（いのうえ）靖（やすし）「幼き日のこと」）

　もう暦（こよみ）の上では春だというのに、京都では寒気がたちかえり、赤い花のついている椿（つばき）の下枝が触れ（ふ　）ている庭石の上に、見ている間に大粒（おおつぶ）のあられがたばしり、勢いよくはねおどりはじめた。　
　あられはころころと岩をはしり、しなびた苔（こけ）の間にビーズを散らしたようにちらばっていく。　
　やがてあられは淡々（たんたん）とした雪になって、うっすらと庭を染めはじめた。そのさまを見つめているうち、こんな日は奈良（なら）も人が出ないのではないかと思うと、無性（むしょう）に出かけたくなってきた。
　（中略）
　唐招提寺（とうしょうだいじ）をふたりで訪れたのは、もう去年の春で、修学旅行の学生たちが静かな庭にひしめいていたが、私たちがゆっくりまわっている間に、潮がひくように彼等（かれら）の姿はなくなり、ひっそりと静かになった。　
　入門は五時までだとその時知って、今度来るなら、朝早くか、五時直前に入れば、人に逢わ（あ　）ず静かでいいだろうと考えたのを思い出す。　
　帰りに時間があればよることにして、いつ見ても静かな唐招提寺（とうしょうだいじ）の森を右にして、まっすぐタクシーを走らせ、斑鳩（いかるが）の里へ向かう。　
　西の京と呼ばれているこのあたりの道は、車は走ってもいてもまだ静かで、いかにも京都の匂い（にお　）が残っている。いつでもこの道へ入って、私はほっとするのだ。　
　京都から奈良（なら）へ車で来ると、奈良（なら）に近づくにつれ、私は怒り（いか　）で胸苦しくなってくる。これだけ美しい寺や仏を千年も抱き（いだ　）かかえていながら、奈良（なら）はどうしてこんな殺風景で風情のない道をつくり、こうまで俗悪（ぞくあく）な建物を平気で続々つくるのだろうか。　
　私はいつでも奈良（なら）へ入るたびに不快になり、こういう道や町づくりをする奈良（なら）の人々の無神経さに腹をたてながら、目的の寺を訪れ、境内（けいだい）の静寂（せいじゃく）に包まれると、はじめてほっと息をするのだった。

　それでも、不退寺（ふたいじ）を横に見て秋篠（あきしの）へ通じる道や、そこから左に折れて、唐招提寺（とうしょうだいじ）に向かう西の京の道に入ると、やはり、奈良（なら）に来てよかったとほっとする。美しい薬師寺の塔（とう）を畠（はた）の向こうに見ながら通り過ぎ、なおしばらく走り続ける。　
　生駒山（いこまやま）が近づくにつれ、ようやく行く手の右の方に斑鳩（いかる）の里の森かげが見えはじめてくる。松林の上に五重の塔（ごじゅう　とう）の法輪（ほうりん）がのぞめるが、その前景となった斑鳩（いかる）の屋並み（やな　）は、奈良（なら）の町のように雑多で猥雑（わいざつ）で、およそ斑鳩（いかる）のさとなどというロマンティックで優雅（ゆうが）なひびきには無縁（むえん）のような表情である。戦前、私が学生の頃（ころ）、訪れていた頃（ころ）の斑鳩（いかる）は広々とした平群（へぐり）の大野（おおの）の一角に、ゆるやかに夢のように浮かび上がっ（う　　あ　　）た物寂び（さ　）た美しい里であった。農家の白壁（しらかべ）や、その壁（かべ）に映える柿（かき）の色の何と美しかったことだろう。崩れ（くず　）かけた築地の色の黄褐色（おうかっしょく）の何となつかしかったことだろう。今の斑鳩（いかる）はまるで戦後の焼あとに生まれた新興の場末（ばすえ）の町のようにみぐるしい。　
　それだけに、いきなり道からそれて、法隆寺（ほうりゅうじ）の広い参道に入ると、突然（とつぜん）別世界にひきこまれたようなおどろきを覚える。もう法隆寺（ほうりゅうじ）の土塀（どべい）のまぎわまで、人間の愚か（おろ　）な破壊（はかい）と侵略（しんりゃく）が押し寄せ（お　よ　）ているのだ。　
　広いすがすがしい白砂（はくさ）の道は東西の大門をつないで、法隆寺（ほうりゅうじ）を守る水のない濠（ほり）のような清らかさに陽の光や物の音を吸いとっている。人の靴音（くつおと）も吸いとるのか。ここまでくると天地は古典の世界の静寂（せいじゃく）に包まれてきて、人々の姿がまるで小さく鹿（しか）や鳩（はと）のように気にならなくなってくる。砂道を横切ると正面に仁王が立っていて、入口は回廊（かいろう）の左の端（はし）につくられている。　
　回廊（かいろう）にとりかこまれた明るい内庭には五重の塔（ごじゅう　とう）と金堂（こんどう）がそそりたっていて、千数百年の昔に魂（たましい）をかけめぐらせてくれる。　
　数えきれない長いはるかな歳月（さいげつ）の風雪を肌（はだ）にしみこませて、まろやかな柱は、ところどころに補修の木肌（きはだ）を痛々しくはめこまれては

いるが、ひ割れたすきまにも虫喰い（く　）のあとにも、歴史の重さとあたたかさがしみこんでいて、思わず掌（てのひら）に触れ（ふ　）たくなる。私がそうしたと同じ時、私の同行者も手をのばして、柱を撫で（な　）軽く指の腹で木肌（きはだ）をたたきこすっていた。　
　掌（てのひら）にほのかに木肌（きはだ）にしみた陽のあたたかさが伝わってくる。　
　いつのまにか空は晴れわたり、ちぎれ雲がすでに春の色に輝き（かがや　）ながら、金堂の屋根のそりの端（はし）、五重の塔（ごじゅう　とう）の法輪の上に、ゆったり遊んでいる。　
　静かだった。人々もここまでくると言葉をつつしむのか、ささやきも聞こえず、ひっそりと回廊（かいろう）をめぐっている。　
　宝物殿（ほうもつでん）で久々に百済（くだら）観音に逢う（あ　）。今はガラスケースにおさまっているこの稀有（けう）な美しい仏に、十七歳（さい）の春、私ははじめてめぐりあった。　
　その時は薄暗い（うすぐら　）ほこりっぽい部屋の中で、ケースなどには入らず、み仏は無防御（ぼうぎょ）な姿勢のまま、空気にさらされて立っていられた。十七歳（さい）の私は、参観の人々の間にもまれて、このみ仏を斜め（なな　）から仰ぎ（あお　）みつめているうちに涙（なみだ）があふれてきてどうしようもなかった。こんな美しいもの、こんななつかしいものを近々と仰い（あお　）だのは生まれてはじめての経験だった。古式の微笑（びしょう）のあえかさ、尊さ、あたたかさ、神秘さ、私は魂（たましい）をじかに仏の掌（てのひら）でなでられたように身ぶるいしていた。美しいもの、尊いものを見て涙（なみだ）がわくということを覚えたのもはじめての経験だった。そしてそれ以来、もう三十年も生き長らえながら、私はあの時ほど無垢（むく）な涙（なみだ）を一度も流したことがないのを思い出した。私はそっと同行者の方をうかがった。その人も無言で仏を仰い（あお　）でいた。縹渺（ひょうびょう）とした古式の微笑（びしょう）に誘わ（さそ　）れて、今その人の天女（てんにょ）のような趣（おもむき）をさずかり、明らかに千数百年昔の幻（まぼろし）の斑鳩（いかる）のさとに飛び去っていることを感じ、私もまた身動きもせず、息をつめてそこに立ちつくしていた。

　「見どころ」、「聞きどころ」という言葉がある。「見どころ」は「見る価値のあるすぐれたところ」を、「聞きどころ」は「聞くねうちのある個所（かしょ）」を意味する言葉として、能、歌舞伎（かぶき）、人形浄瑠璃（にんぎょうじょうるり）をはじめ、それから派生してきた舞踊（ぶよう）や歌謡（かよう）など、日本の伝統的芸能の世界でよく使われてきた。ところが、戦後になってから、いつのころからか、その世界では、この二つの言葉の影（かげ）が薄れ（うす　）て、「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉が優勢になった、とある放送関係の人が教えてくれた。「見どころ」、「聞きどころ」というのは、芸能を享受（きょうじゅ）する側がそれを演ずる側の芸について言う言葉であるが、「見せどころ」、「聞かせどころ」は反対に演ずる側が言う言葉であろう。後者のような言葉が昔から芸能の世界にあったのかどうか私は知らないが、「見せ場」という言葉はあったらしい。辞書によれば、「みせば」は「芝居（しばい）などでその役者が得意とする芸の見せどころ」のことである。（「見せどころ」は――「聞かせどころ」も――辞典には見当たらない）が、それは役者自身が使ったのか、観客たちが「見どころ」を役者に投影（とうえい）して使ったのか、辞書からはわからない。「見せどころ」、「聞かせどころ」も、芸能の演者自身が使っているのか、興行（こうぎょう）や放送番組のプロデューサーなどが使っているのか、私はよく知らないが、とにかく、この二つの言葉がいま電波や活字に乗って横行（おうこう）しているというのは、どういうことであろうか。　
　「見どころ」、「聞きどころ」というのは、芸能を享受（きょうじゅ）する人たちが出し物や曲目からつよい感動をうける個所を指すが、その感動は、それを演ずる人の芸をはなれては生じないが、享受（きょうじゅ）する側の鑑賞（かんしょう）力をはなれてもありえない。芸能は享受（きょうじゅ）し鑑賞（かんしょう）する側と演ずる側とが対等であって、両者の交感が成立するときにはじめて十全なものになる。そして、「見どころ」、「聞きどころ」は、享受（きょうじゅ）する側の批評意識においてこそ成立するはずである。「見どころ」が隙（すき）のない芸の全体をつうじてしか成立しないことを知っている本もの芸能人は、けっして、「見せどころ」、「聞かせどころ」などとは言わないにちがいない。「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉は、享受（きょうじゅ）する側を無視して、演ずる側が自己を

誇示（こじ）しようとする態度を示すものであろう。その言葉には、演ずる側がその芸をセールス・ポイントにして享受（きょうじゅ）する側におしつけようとするあつかましさ、「ここが見聞きする価値のあるところだ」というおしつけがましさが感じられる。少なくとも、そこには、芸能人または興行者（放送のプロデューサーや解説者を加えてもいい）が、観客や聴衆（ちょうしゅう）にいわば指導者として臨むという思い上がった姿勢が見られる。　
　だが、他方から見れば、多くの人びとが伝統芸能に対する教養と関心を失っていることもたしかである。かつて、歌舞伎（かぶき）の観客なり浄瑠璃（じょうるり）の聴衆（ちょうしゅう）なりは、演じられる出し物や曲目についてよく知っており、演ずる者と共通の理解のうえに立っていたが、今日、その共通の地盤（じばん）は大きく崩れ（くず　）ている。伝統芸能は生活の根から切りはなされて、いわば保存の対象にされている。だから何とかして多くの人たちに伝統芸能のよさを認識させようと熱意と焦り（あせ　）が、芸能関係者たちに啓蒙（けいもう）的指導者としての姿勢をとらせて、「見せどころ」、「聞かせどころ」などという言葉遣い（ことばづか　）を生みだしたのかもしれない。　
　いずれにせよ、「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉は、伝統芸能の危機の深さを端的（たんてき）に表現している。そして、そのような伝統芸能の危機が、日本の社会と日本人の生活意識とのすさまじいほどの急激な変化の一つの局面であることは、言うまでもあるまい。私は「見せどころ」、「聞かせどころ」という言葉のことを考えながら、言葉遣い（ことばづか　）の変化という些細（ささい）な現象がどんなに複雑な要因をその背後にもっているかに思いあたって、あらためて驚い（おどろ　）た。こうした言葉の変化が日本語の混乱として現れているとすれば、それは日本の社会の変化というより、日本の社会と文化そのものの危機を表しているのではあるまいか。