かつて私は、ある作曲家に、作曲家が自分の名を冠することのできる曲は、時代がくだるにつれて可能性がかぎられてゆき、やがて種切れになるのではないかと、質問したことがある。作曲家の答えは、まだまだ無限といってよい音やリズムの、組みあわせの可能性がある、ということであった。
まもなく私は、音楽より絵の方が、種切れになりつつあるのではないかと思うようになった。特に、現代にさかんな公募展という発表形式は、画家の自己主張の工夫と、みじめなあせりとの悪循環をあおっているように、私は思えてならなかった。「制作」と「売り絵」を描き分けている人では、売り絵の方に、その人のもっている良いものが、かえって素直に出ていると思われることがある。
数年前パリで、ジョルジオ・モランディの遺作展をみて深い感銘をうけてから、私はこうした種切れ論など、たいそう浅はかな見方にすぎないことを感じるようになった。このつつましい現代イタリアの絵かきは、それまでの何万何十万人の画家が描いてきたものに彼の独創をつけ加えようなどとは、決して考えなかったにちがいない。彼はただ透明な目と心の指示するままに、ものの色とか形とかから、不純なものを取り除いていったのであろう。その精進が、あれほど単純で、ありふれてさえみえる静物画や風景画に、あれほど大きくて深い力を与えているのであろう。こうした精進によって、私たちの前にとりだされた色と形に向かって、絵画種切れ論など頭を垂れるほかはない。ジャン・フォートリエの作品のような、感性が、そのまま色の濃淡、時として絵の具のわずかなもりあがりになって流れ出ていると思われる絵にすら、私は「創造」よりは「発見」への努力の、謙虚な崇高さを感じずにはいられない。
同じことは、学問についてもいえるかもしれない。真に深い洞察は、先人の業績におのれの独創をつけ加えてやろうとする肩をいからした精神からは決して生まれないようだ。それなら、宇宙の構成要素と、それらをつなぐ原理は、古来一定不変で、ただその組みあわせの変化の多様さや、動きの複雑さが、歴史の進行に新しい創造があるかのような錯覚を、人間に与えてきたといえるであろうか。そのことは、これから先も、おそらく人間に決してわかることがないだろう。
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