a 読解マラソン集 1番 列車に乗って ru3
 列車に乗ってぼんやりと窓の外を眺めなが たり、瞑想めいそうにふけったりしている時間は、私のほとんど唯一ゆいいつといってよい、何物からも開放されたリラックスした時間である。 
 何度も眺めなが たことのある同じ風景も、季節や時刻が変わるごとに新たな味わいを見せ、あるいは過ぎ去った日々へのノスタルジアを、あるいはまだ見ぬ場所へのイマジネーションを誘っさそ て、飽きるあ  ことがない。身体が座席に縛らしば れて窮屈きゅうくつなのに反比例して、想念の方は、世の束縛そくばくから解き放たれて奔放ほんぽう飛翔ひしょうし、さまざまな着想が浮かんう  でくるのもこのときである。まったく自分自身に帰って、真に心の安まる自由な時間を過ごすのが、何物にもかえ難い旅の醍醐味だいごみの一つなのである。 
 こういうわけで、列車の道中が長いことは私には少しも苦にならず、むしろ長いほどありがたいくらいである。(中略)
 時として、傍若無人ぼうじゃくぶじんな団体客の喧騒けんそうや、携帯けいたいラジオの無遠慮ぶえんりょな放声に悩まさなや  れることがあり、また車内アナウンスが親切すぎるという難点があるとはいえ、列車の中は概してがい  静かで、旅の楽しみを著しく妨げさまた られることがあまりないのはまずまずありがたい。もしスピーカーからのべつに観光案内やら、「音楽」やらが流れることにでもなったら、私の最良の憩いいこ の時間が奪わうば れてしまうことは必定で、想像するだけでも慄然りつぜんとする。 
 ある国鉄の車掌しゃしょうさんが嘆いなげ ていた。発車するとすぐに、くどいほど行く先の到着とうちゃく時刻や接続案内などを繰り返すく かえ のに、放送を終えて車内の巡回じゅんかいを始めると、とたんにたった今アナウンスしたばかりの到着とうちゃく時刻を必ずといってよいほどきかれるので、まったくがっかりする、と。車掌しゃしょうさんには気の毒だが、私はむしろ当たり前ではないかと思う。案内放送というものに乗客は慣れっこになってしまっていて、せいぜいバックグラウンド・ノイズとしてしか聞こえていないのが一般いっぱんだから。そう言っては申し訳ないが、もっと効き目がないのは忘れ物の注意で、降りるまぎわまでそわそわしているところへ十年一日のような放送が流れてきても、それをまとも
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につかまえる耳はそうたくさんはないであろう。注意のあるなしにかかわらず、忘れ物をする時にはするものであることは、私自身の経験を顧みかえり ても、まず間違いまちが のないところだと思う。 
 もともと忘れ物の注意などは各自の責任でするべきことで、忘れ物をしたからといって、なぜ注意してくれなかったのかと乗務員をなじる筋合いのものではないであろう。到着とうちゃく時刻や接続関係にしても、本来がめいめい調べればよいことである。 
 ただしそれができない場合に車掌しゃしょう尋ねるたず  ことはもちろん差し支えない。いやそれどころか、そんな時に親切丁寧ていねいに教えてくれることこそ、期待してよいことだと思う。一人ひとりのバラエティーのある要求には、しょせん応じきれず、また特別に注意を払っはら ていない限り聞きのがしてしまう、一律で型にはまったおしきせ放送よりも、その方がはるかに乗客の主体的な選択せんたくにきめ細かく応じた、本当の意味でのサービスになり、かてて加えてバックグラウンド・ノイズが小さくなって、静けさを望む客にとってもまた上々のサービスとなるに違いちが ない。 
 私は観光バスというものに乗ったことがない。ガイドの絶え間のないおしゃべりが、バックグラウンド・ノイズとして聞き流す限界を超えこ た本格的ノイズであるうえ、ガイドの指図に従って右や左を向くことに虫酸が走る(ガイドに限らず、ガイドづらをするものにはすべて同じだが)からである。知りたいことはガイドに聞くよりも、自分でしかるべく調べた方がよほど確実であるし、別段知りたくないことまで教えてくれるのは有難迷惑ありがためいわくの気味が大いにある。バスガイドが車窓から見えたきれいな山の名を教えてくれなかった、と憤慨ふんがいしている投書をある新聞で読んだことがある。その時、あんぐりと口をあけて、過保護ママが食べ物を入れてくれるのを待っているモヤシっ子を、私は思わず頭に浮かべう  た。
 観光バスには乗りたくなければ乗らなければよいのだし、ガイドされたり世話をやかれながらの、にぎやかな旅を好む人々の楽しみに、水をさすつもりもない。しかし一般いっぱんのバスや列車に関しては、旅の味わいを人それぞれの心に任せてくれる、車内放送も発車のベルもない静かな欧米おうべい諸国の旅行風景が、私にはこよなく懐かしいなつ   。 
ほり淳一じゅんいち 「地図から旅へ」)
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a 読解マラソン集 2番 いちばん新しい推計によれば ru3
 いちばん新しい推計によれば、この小さな惑星わくせいの表面には、五十億もの人間が群れている。今からそれほど遠い昔ではない石器時代には、地球上における人類の地盤じばん軟弱なんじゃくなものでしかなかった。それ以来、人類は拡大を続け、今のように災厄さいやくのごとく蔓延まんえんするまでに人口を増やしてしまった。しかし、人類が地球環境かんきょう施しほどこ てきた変化が、この惑星わくせいを人類の居住には適さないものへと急速に変えつつある。われわれは、自らの創意の犠牲ぎせい者である。その創意は、今でさえばく大な人口をここ四十年以内に倍増させて百億の大台にのせてしまうことだろう。人類は希少種ではない。それなのに、絶滅ぜつめつのおそれのある種なのである。 
 われわれはまさに、生存の危機に直面している。しかし、そうした事実を隠すかく ことはたやすい。世界にはまだ、すべてが万事うまくいっていると言葉巧みたく 信じ込ましん こ せられるような場所が存在している。たとえばアフリカには、空気が澄みわたっす    ていて美しく、野生動物はのんびりと歩き回り、かなたには広大な地平線が横たわっているという場所がある。そういう土地を訪れると、自然そのものは安泰あんたいであるかのような印象を受ける。見かけとは、あてにならないものなのだ。 
 人間は、かつてそこにあったものがわずか二世代あまりで姿を消してしまうほどのスピードで、自然の空気を侵略しんりゃくしている。はたしてそういうことが必要なのかと、われわれ全員は自らに問いかけるべきである。その破綻はたん避けさ がたいものなのか。われわれは、あまりに多くのルールをあっさりと破ってきたのではないか。 
 環境かんきょう保護論者たちの頭の中は、水質を汚濁おだくし、土地を荒廃こうはいさせ、大気を汚染おせんする人間の行為こういに関することでますますいっぱいになりつつある。しかも、人間が自らに対して犯している罪はもう一つある。それは、動物との契約けいやくに対する違反いはんである。その契約けいやくとは、この地球を共有するうえでのパートナーとなるために人間とそれ以外の動物とのあいだで交わされたものである。 
 その契約けいやくの原則は、個々の種は、他の生物との共存が十分に可能な限度内に自らの個体数増加をとどめなければならないというものである。もちろん生物間の競合は存在する。しかしそれは、一部の
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人たちが想像しているような、情け容赦ようしゃのないものではない。ほかの生物をすべて一掃いっそうするほど残酷ざんこくなしかたで競合するような生物種が収める勝利は、むなしいものでしかない。そうやって支配する土地は荒れ果てあ は た不毛の地にすぎず、不毛の地が生物を養うことはない。そして支配する種とて、その例外ではない。 
 人間以外の動物たちは、お互い たが どうし結んだ契約けいやくになんとしても敬意を払うはら よううまくやってきた。われわれ人類は、かれらに学ばなければならない。もしアフリカの草原にすむライオンが、空腹でもないのにシマウマやアンテロープを手当たりしだいに殺しまくったとしよう。それも、自分は強くて足も速いからしようと思えばできるからというだけの理由でそうしたとする。そうすれば、獲物えものはただちに絶滅ぜつめつし、ライオン自身も滅ぶほろ ことになる。生物種はみな、互いにたが  依存いぞんし合っている。肉食動物には草食動物が必要であり、草食動物には草が必要である。個体数の過密は飢えう を意味する。個々の種はみな、個体数が破滅はめつ的なレベルを越えるこ  のを防ぐために、独自の個体数調節機構を進化させている。いちばんありふれたやり方は、混みすぎたらメスが繁殖はんしょくを中止してしまうというもので、卵や胎児たいじの発生が止まったり、産んだ子どもを育てられなくなったりするのである。そうすれば個体数は、もう一度繁殖はんしょくを開始できるレベルにまで減少し、正常な増殖ぞうしょくが再開させられる。 

(デズモンド・モリス 渡辺わたなべ政隆まさたか訳「動物との契約けいやく」)
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a 読解マラソン集 3番 太古の人類の祖先たちも ru3
 太古の人類の祖先たちも、ある種の独自の個体数(人口)調節機構をそなえていたはずである。ただし明らかにそれは、人口過密に基づくものではなかった。ごく初期の人類は、百人くらいの小部族で生活していた。かりをして動物の肉を手に入れることが特別の生活手段となっており、暮らすためのスペースが十分にある限りは繁栄はんえいしていた。たぶん、そこで特別な人口調節システムとして機能していたのは、手に入る食物の量だった。広がって行く先が地球全体である場合には、人口過密は問題とはならず、それが人口調節機構として作用しはじめるということはありえなかった。
 しかし、実際にはそうではなかった。人類の創意による急激な技術革新のせいで、人口爆発ばくはつが起こってしまった。進化を語るうえでは大海の一滴いってきにも等しい一万年間というわずかな期間で、人類は、石器時代から原子力時代へと進化してしまった。しかも、小集団で暮らしていたころの遺伝的遺産をそのままひきずってである。食べ物があるなら、好きなだけ産んでいいと語りかけたのが、ほかならぬその遺伝的遺産だった。人類が開発した技術が、自分たちがそなえていたそれまでの人口調節機構を無効なものとしてしまったのである。しかも、人口が急増したときに適用することのできる新たな生物学的歯止めを獲得かくとくする時間がなかった。
 その結果として何が起きたかといえば、人類は地球の略奪りゃくだつをしはじめ、それが進歩だと勘違いかんちが してしまった。適切な進歩を遂げると  ためには、量よりも質に関心を集中すべきだった。そうすれば、人口は堅実けんじつに増加していき、それにともなって生活の質も上昇じょうしょうしただろうに。ところが実際に起きたことはといえば、その逆だった。一部の人間の生活の質は昔よりも良くなっているかもしれない。しかし、何百万何千万という人たちにとっては、はるか昔の石器時代、小部族に分かれて豊かな狩猟しゅりょう生活を送っていたころよりも、日々の暮らし向きは悪くなっている。人口増加の歩調が速くなればなるほど、分け前にあずかる量は悪化していったのである。
 自分たちの生息環境かんきょう与えあた た損害は別にしても、世界の支配へとばく進したことで、ヒトという種は、自分たちも動物であり、相互そうごに作用し合う生物けんの一部なのだという重大な基本的事実から
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自らを絶縁ぜつえんしてしまった。画期的な発明が行われると、生じうる不都合も考えずに活用してきた。人類がそなえている創意工夫の才は、副作用の検査ができなかった薬品のようなものだった。われわれは、自分たちの体に隠れかく ている原始人を、さまざまな光に満ちた未来の驚くおどろ べき遊園地に引きずり出してしまった。自分で自分の目をくらませてしまい、ときには、自分たちは動物などでなくて神なのではないかとまで考えることさえあった。もちろんそうであるとしたら、その聖なる立場に守られたわれわれは自然法則が課す危難を免れまぬか ただろうに。
 そうした錯覚さっかくが犯した愚行ぐこうは、少なくともかなりの先進地域の一部ではすでに垣間見かいまみられつつある。ある朝目覚めてみたら、地球はとりかえしのつかないほど破壊はかいされていたという悪夢が、われわれの意識の中に浸透しんとうしはじめている。どうしてそんなことになってしまったのだろうか。すべては人類がルールを破ったときにはじまったというのが、私から見たその答えである。人類は、その力が動物たちの力を上回るやただちに困ったことに足を踏み入れふ い はじめた。どんどん一方的になってゆく世界を創造しはじめたのである。それは、われわれの偉大いだいな創意をもってしても制御せいぎょできないほどの不安定さに満ちた世界である。

(デズモンド・モリス 渡辺わたなべ政隆まさたか訳「動物との契約けいやく」)
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a 読解マラソン集 4番 自分が、いままさに ru3
 自分が、いままさに死にゆかんとしていることを知らないままに死んでいく人間などいないと、ぼくは思う。そうでなければ、人間が死ぬ必要などどこにもないではないか。人間は、そのことを思い知るために、死んでいくのだ。有吉ありよしの死後、ぼくが読書すら投げ出して考え続けたことは、それだった。だが何のために、そんなことを思い知らなくてはならないのか、ぼくには分からなかった。それを考えるとなぜかぼくは何かに祈りいの たくなるのだった。有吉ありよしが死んでからは、ぼくと草間とは疎遠そえんになった。草間はその猛烈もうれつな勉強ぶりに拍車はくしゃをかけ始めたし、ぼくはぼくで、ある新しい情熱を駆らか れて小説に読みふけるようになったからだ。その情熱とは、すでにとうの昔にこの世からいなくなった多くの作家たちが、生きているときに何を書かんとしたのかを知りたいという願望だった。死人が小説を書けるはずなどなかったから、ぼくが捜し出そさが だ うとしていたことはばかげたお遊びに近かった。だが、そのばかげたお遊びは、有吉ありよしの死がぼくに与えあた 後遺症こういしょうだったのだ。ぼくはまもなく後遺症こういしょうから立ち直り、あらゆる物語を死から切り離しき はな て考えるようになった。すべては死を裏づけにしていたが、死がすべてである物語は存在しなかったからである。 
 寒い朝、ぼくは草間からの電話で起こされた。「新聞に、あの絵のことが載っの てるぞォ」と草間は言った。ぼくは電話を切らずに、そのままにしたまま、階段を降りて茶の間に行き、父が読んでいる新聞をひったくって二階に駆けか のぼった。そして「消えたまぼろしの名画」と見出しがついたコラムに見入った。それは事件としてではなく、ちょっとした町の話題として載せの られたもので、ある日忽然とこつぜん 誰かだれ に持ち去られてしまった百号の油絵の由来が紹介しょうかいされ、持ち主の談話が簡単につけ足されていた。喫茶店きっさてんの店内から絵を盗み出しぬす だ てから、すでに八ヶ月かげつがたっていたから、まさかいまごろになって新聞ざたになろうとは思いもかけないことだった。作者の島崎しまざき久雄ひさおは幼いころからじん臓を患いわずら 、長い闘病とうびょう生活の果てに逝っい た青年だった。多くのデッサンとペン画が残っているが、油彩ゆさいの大きな作品としては、盗まぬす れた「星々の悲しみ」のファンも多かったので、何とか手元に帰って来てくれないものかと思っていると持ち
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主は語っていた。「用事が済んだら、ちゃんと返しとくのがルールやて言うたやろ。志水がいつまでも返さへんから、こんなことになったんや」と草間はそれほど慌てあわ ている様子もなさそうに言った。警察ざたになった訳ではなかったので、ぼくもそんなに動揺どうようはしなかったが、そろそろ潮時だという気がして、草間に言った。「頼むたの 、絵を返してきてくれよォ」「おれ一人でか? アホなこと言うなよ。新聞に載っの たとたんにおかしな動き方をしたら余計に危ない。もうちょっと時間をあけてから考えたらええがな」「店の中の、元のかべに返しとくというのは、なんぼ草間でも無理やろなァ……」草間の笑い声が、電話口から聞こえてきた。ぼくたちはその話は一応打ち切って、互いたが 近況きんきょうを語り合った。「もう、へとへとや」草間は言った。「今が一番つらいときや。もうちょっとやないか」それから、ぼくはふいに感傷的になって、ほんの少しの間涙ぐんなみだ  だ。……「K大の医学部絶対に通れよ。がんなんかやっつけてしまう医者になってくれ」 
 ぼくはニ、三日、落ち着かない日を過ごした。「星々の悲しみ」から、出来るだけ遠ざかっていたかった。だが、そうなるといっときも早く、絵を持ち主に返してしまいたくて仕方がないようになってしまった。ぼくは意を決して、妹の加奈子かなこに新聞の記事を見せた。そして妹に手伝わせて、かべ掛けか てある油絵を降ろし、たたみの上に立てかけた。そして、八ヶ月かげつ前の雨の日、図書館の横の古い橋の上で、初めて草間と有吉ありよしの二人と言葉を交わしたときのことを話して聞かせた。「あれから、たったの八ヶ月かげつやぞォ」そう言ってしまってから、ぼくはその間に読んだたくさんの小説の行方を思った。悲劇も喜劇も、悪も善も、恋愛れんあいも官能も、心理も行動も、ことごとく陰翳いんえいを失って、ぼくの中に潜り込んもぐ こ でしまっていた。ぼくは何も得なかったようでもあったし、積み重なった透明とうめいな後光を体中に巻きつけているようでもあった。加奈子かなこが自分の部屋に戻っもど てしまうと、ぼくは古新聞を集めてきて、絵の包装に取りかかった。乾いかわ たタオルで額についたほこり拭いふ た。それから、もう二度とぼくの手元に戻っもど てくることのない「星々の悲しみ」を見た。
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読解マラソン集 4番 自分が、いままさに のつづき

凄いすご なァ」死んだ有吉ありよしは、この絵を見てつぶやいたのだった。 
 「この絵、もっとほかの題がついていたら、何でもないただの絵かも知れへんなァ」――絵はいつになく光っていた。蛍光けいこう灯の光を受けて、樹木の葉は水に濡れぬ たように色づき、初夏の陽光は真夏の日差しに変わってまばゆく輝いかがや た。どこからか蝉しぐれせみ   も聞こえてくるようだった。ぼくは、結局いつかの加奈子かなこ解釈かいしゃくが、いちばん正しかったのではないかと思った。加奈子かなこは、麦わらぼうで顔を覆っおお て大木の下でうたたねしている青年を、死んでいるのだと思ったのである。絵の作者は、自分の死んでいる姿を描いえが たのだと。もし本当にそうだとしたら、この絵にもっともふさわしい題名は確かに「星々の悲しみ」以外ないではないか。ぼくは、葉の繁っしげ た大木の下に有吉ありよしを横たわらせ、そのとてもきれいな死に顔を麦わらぼう隠しかく た。 

(宮本てる「星々の悲しみ」)
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