列車に乗ってぼんやりと窓の外を眺めたり、瞑想にふけったりしている時間は、私のほとんど唯一といってよい、何物からも開放されたリラックスした時間である。
何度も眺めたことのある同じ風景も、季節や時刻が変わるごとに新たな味わいを見せ、あるいは過ぎ去った日々へのノスタルジアを、あるいはまだ見ぬ場所へのイマジネーションを誘って、飽きることがない。身体が座席に縛られて窮屈なのに反比例して、想念の方は、世の束縛から解き放たれて奔放に飛翔し、さまざまな着想が浮かんでくるのもこのときである。まったく自分自身に帰って、真に心の安まる自由な時間を過ごすのが、何物にもかえ難い旅の醍醐味の一つなのである。
こういうわけで、列車の道中が長いことは私には少しも苦にならず、むしろ長いほどありがたいくらいである。(中略)
時として、傍若無人な団体客の喧騒や、携帯ラジオの無遠慮な放声に悩まされることがあり、また車内アナウンスが親切すぎるという難点があるとはいえ、列車の中は概して静かで、旅の楽しみを著しく妨げられることがあまりないのはまずまずありがたい。もしスピーカーからのべつに観光案内やら、「音楽」やらが流れることにでもなったら、私の最良の憩いの時間が奪われてしまうことは必定で、想像するだけでも慄然とする。
ある国鉄の車掌さんが嘆いていた。発車するとすぐに、くどいほど行く先の到着時刻や接続案内などを繰り返すのに、放送を終えて車内の巡回を始めると、とたんにたった今アナウンスしたばかりの到着時刻を必ずといってよいほどきかれるので、まったくがっかりする、と。車掌さんには気の毒だが、私はむしろ当たり前ではないかと思う。案内放送というものに乗客は慣れっこになってしまっていて、せいぜいバックグラウンド・ノイズとしてしか聞こえていないのが一般だから。そう言っては申し訳ないが、もっと効き目がないのは忘れ物の注意で、降りるまぎわまでそわそわしているところへ十年一日のような放送が流れてきても、それをまとも
|