エジプトのピラミッドの
中のかべには、たくさんの
絵文字がしるされています。タカやつぼ、
人間や
太陽のような、さまざまな
絵で
表された
文字です。
大昔、エジプトにはピラミッドを
作ったすばらしい
文明がさかえていましたが、いつしかほろびてしまいました。それから二
千年の
間、その
絵文字をどうやって
読むのか、どんな
意味があるのか、だれにもわからなくなっていました。
ところがあるとき、エジプトの
砂の
中から一
枚の
石の
板が
発見されました。そこには三
種類のことばがきざまれていました。
古代ギリシア
語、
昔のエジプト
語、そしてピラミッドに
書かれている
絵の
文字であるヒエログリフということばです。おそらく、
同じ文章がこの三
種類のことばできざまれているのではないかと
思われました。この
石の
発見に、
学者たちは
興奮しました。
当時、
古代ギリシア
語は
知られていたので、それとくらべればヒエログリフが
読めるかもしれないと
思われたのです。この
石にはロゼッタ・ストーンという
名前がつけられました。
しかし、
事はかんたんにははこびませんでした。いくら
名だたる学者たちが
考えて
研究しても、だれもヒエログリフの
読み方をとくことができなかったのです。
ロゼッタ・ストーンが
発見されてから十
年後、シャンポリオンというフランス
人の
少年が、お
兄さんにすすめられてこのヒエログリフのなぞにとりくむことにしました。シャンポリオンは
貧しい若者でしたが、もう
既にたくさんのことばを
学んでいました。
シャンポリオンは、それからもさらにたくさんのことばを
学びながら
研究を
続けました。
研究を
始めてから
何年もたったある
日、ひらめきがおとずれました。この
絵文字には、
音だけを
表す字と、
意味だけを
描いた
字が
両方まざっているのではないかと。∵
私たち
日本人は、
意味を
表す漢字と
音を
表すかなをまぜた
文を
使っています。
例えば、「
森だ」という
言葉では、「
森」が
意味で「だ」が
音です。「
森」は
字を
見ただけで
木が
何本か
生えている
場所らしいことがわかりますが、「だ」には
何の
意味もありません。ヨーロッパの
文字は、
音だけを
表すアルファベットで
作られているので、
文字に
意味があるという
発想がだれにもわかなかったのです。
シャンポリオンは、ヒエログリフの
読み方の
表を
作り、
発表しました。ほかの
学者たちも、やがてそれが
正しいとみとめるようになりました。
その後、シャンポリオンはあこがれのエジプトに
行き、
本物のエジプトの
遺跡の
中に
入ることができました。そこで、シャンポリオンはぎっしりと
描かれたヒエログリフに
圧倒されて
声も
出ませんでした。なぜかというと、シャンポリオンにはそれらが
自分が
思っていた
以上にすらすらと
読めることがわかったからです。それはまさに「
祖先からの
声が
聞こえてきたようだった」とシャンポリオンは
記しました。二
千年もの
間眠っていた
声が、あちこちから
聞いたこともないすばらしい
神話やエジプト
文明の
物語を
語りかけてきたのです。シャンポリオンは
感動のあまり、二
時間も
動くことができませんでした。
今では、エジプトに
観光旅行すると、このヒエログリフ
文字で
自分の
名前をつづったペンダントを
作ってもらうことができ、おみやげに
買って
帰る人がたくさんいます。
言葉の
森長文作成委員会(λ)
大分県の
幸島というところにいる
野性のサルのむれは、
人間がまいてやるサツマイモを
海の
波であらって、
塩水の
味つけをして
食べることで
有名です。
そのころ、
日本ではまだあまりサルの
研究をする
人がいませんでした。しかし、サルが
大好きだった
京都大学の
今西錦司さんたちは、
幸島のサルを
観察したくてやってきたのでした。ところが
幸島のサルは、
猟で
狩られたことがあったために、
人間をとてもこわがっていました。そこで
京都大学の
人たちは、サルを
安心させようと、サツマイモをまいてやりました。そのサツマイモを、サルはあらって
食べるようになったのです。それまで
外国では、サルの
研究をするとき、えさをまいてやるということはしていませんでした。
そのほかにも、
外国の
人がやっていないことを、この
日本の
若い研究者たちはしました。むれのサルに、
一匹一匹名前をつけて
観察したのです。たとえば、こわいボスザルには「カミナリ」、わかくて
頭のいいオスザルには「ヒヨシマル」といったぐあいです。
日本での
研究になれてくると、
京都大学の
人たちは、アフリカに
行ってゴリラやチンパンジーの
研究もするようになりました。
そして、
研究したことを
国際会議で
発表しましたが、それを
聞いて
世界のサル
学者たちはたいへんおどろきました。
日本で、こんなにりっぱなサルの
研究がされていたとは
思っていなかったのです。
日本のサルの
研究がいちばん
進んでいる、と
世界のサル
学者たちは
感心しました。そんな
世界のサル
学者たちが
最も驚いたのが、
日本人がサルたちに
名前をつけていたことなのでした。
世界の
学者たちは、サルに
番号しかつけていませんでした。それに、サルの
顔や
性格が
一匹一匹ちがうことにも
気がついていなかったのです。∵
西洋の
人は、
人間と
動物はまったくちがうものだと、はっきりわけて
考えていました。けれど、
日本人は
昔から、
人間と
動物とはあまり
変わらないものだという
考え方だったのです。サルもタヌキもキツネも、
日本人にとっては
同じ村の
仲間のようなものでした。だから、
今の
時代になっても、
若い研究者はごく
自然に、サルになまえをつけたのでした。サルを
番号でよぶことのほうが、むしろやりにくかったのです。
最初のころ、
世界の
学者たちは、
日本人がサルに
近いからそういうことができるのだと
考えていました。しかし、
今では、
世界中のサルの
研究者たちは、この
日本の
方法を
使って、サルたちに
名前をつけて
研究するようになっています。そのほうが、サルたちの
社会や
生活について、よく
理解できることがわかったからです。
言葉の
森長文作成委員会(λ)