次の文章はテレビ朝日の 読解検定長文 高1 秋 1番
次の文章はテレビ朝日の住宅リフォーム番組『大改造!! 劇的ビフォーアフター』について 触れた、 斎藤環「家屋は家族を幸福にするか」の一節である(設問の都合で一部省略し、表記を改めたところがある)。
リフォームを担当する「 匠」は毎回 替わるのだが、ひとつ 奇妙なことがある。「アフター」、すなわちリフォーム後の家屋は、毎回似通ったパターンにおさまっているように思われるのだ。中には、ほぼ定番と化したようなアイテムもいくつかある。暗かった家が明るくなったというイメージを強調するためか、採光はきまって 大幅に増量され、しばしば天窓が採用される。必ずなされるのは収納の工夫であり、 椅子やベッド、時には階段までもが収納スペースとしてフル活用される。 狭い空間を目 一杯活用するために、 壁を可動式にしたり二段ベッドを採用したりと、 匠の小技がもっとも発揮されるのがこの点だ。 壁から飛び出すソファやベッドなど、果たして長期間の使用に 耐えるのだろうかという心配はあるが。しばしば 液晶テレビが配置されるのも、空間の節約のためだろう。(略)
この番組をみていて、トルストイの有名な警句がしきりに思い出された。そう、『アンナ・カレーニナ』の 冒頭にかかれた言葉、「幸福な家庭は 互いに似通ったものであるが、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっている」である。きわめて個性的な「不幸な家」から、ほとんど 没個性と言いたくなるような「幸福な家」へ。もちろん、それぞれの「 匠」たちが、限られた予算内で、持てる知識と技術を総動員して「空間の有効活用」という合理的命題を追求すれば、それが似たりよったりになっていくことは 避けられない。個性追求が 没個性をもたらすという、なじみ深い逆説が 繰り返されているだけだ。
それゆえ私の関心は、いったい 視聴者はこの番組の「ビフォー」を見たいのか「アフター」を見たいのか、という点にこそ極まっている。もちろん善意の 視聴者で、家族の幸せな顔を見るのが楽しみ、という 奇特な方もいることだろう。しかし大半の 視聴者は、む∵しろ「ビフォー」を、つまり、リフォーム前のはるかに個性的な不幸の姿のほうをこそ見たいのではないだろうか。そのことへの後ろめたさが、幸福な「アフター」を見ることで 緩和されるという流れになってはいないだろうか。(略)
「ビフォーアフター」において 顕著なのは、なんといっても「土地への 執着」であろう。番組の性格上やむを得ないこととはいえ、登場する家族がいずれも「転居」ではなく「リフォーム」を考えている点は重要である。また、それぞれの家庭に共通するのは、とにかく「モノが多い」ということだ。衣類といわず食器といわず物品がところ 狭しと 溢れかえり、たとえば、衣類は 押入用のプラスチック製衣装ケースにとりあえず 詰め込まれ、無造作に 床の上に積み上げられている。 彼らの不幸の原因は、モノの 増殖が居住空間を 蝕んでいるせいではないか、と思えてくるほどだ。リフォーム後にあれらの大量の物品がどこにどう収まったのかはいつも 謎なのだが、おそらくかなりの部分は処分されているのだろう。その意味では、リフォームはモノを捨てるいい機会にもなっているはずだ。
大量のモノが無造作に置かれるということは、家族が居住空間を「仮設的なもの」と考えているためではないだろうか。この状態が放置されているのはとりもなおさず、「いつかは整理する」「いつかリフォームする」「いつか転居する」などとして解決が先送りされてきたからだろう。おそらくはこの点において、家族と家屋の問題は重なり合うはずだ。「理想の家屋」は「家族ほんらいの姿」であり、それは常に未来形にとどまるために、現在の家庭 環境、あるいは家族関係は、ことごとく仮設的でかりそめのものとみなされてしまうからだ。
法律学は、非常に精緻な 読解検定長文 高1 秋 2番
法律学は、非常に 精緻な技術の学である。その 取扱う内容は、「所有権」とか「 契約」とか「 婚姻」とか「相続」というような、われわれの日常生活に深く関係したものでありながら、これらに関する法律 或いは法律学の内容は、素人にはわかりにくい 概念や論理で複雑に構成されており、一言でいえば法律学は「秘伝 奥伝」的な技術の性格をもっている。その結果、人がひとたびこれらの技術に 或る程度精通すると、 普通の素人にはわからない秘伝 奥伝的技術を身につけたと感じて、それらの技術を運用することに一種の職人的な快感をおぼえるようになる。はなはだ不幸なことに、多くの人々は、法律学をこのような職人的技術の体系だと思っているのではないであろうか。また法学部の学生は、そのような職人的技術をおぼえなければならないことに絶望しながら、学生生活を送っているのではないであろうか。
多くの学生が法律学に対して興味をもつことができないこと、また、仮りにもったとしても、このような誤った興味しかもつことができないということのもっとも大きな理由は、おそらく、「法律学とはどのような学問であるか」ということが、はっきりわからないことに因るであろうと思われる。法律学は、 一般の他の科学に比べて非常にちがっている。少なくとも、ちがっているように見える。法律学の講義でもいろいろな「理論」が教えられる。しかし、その理論は物理学や化学等の理論とはちがっている。自然科学においては、否、他の社会科学においても、 或る理論が正しいかどうかということは、実験や観察によって――要するに、われわれの経験的事実によって――決せられるのであって、 或る人々がそれを欲するかどうかによっては 影響されないはずであり、それが「科学」の 特殊性である(教会が欲しなくても、やはり地球は太陽のまわりをまわる!)。(略)
要するに、科学としての法律学が発言しうるのは、どの価値体系を 選択すべきかではなくて、つぎのことについてである。すなわち、 或る法的価値判断はどのような社会的価値に 奉仕し、またその社会的価値はどの価値体系にとってどのような地位にあるのか(価値判断と価値との関係、価値と価値体系との関係)、またどの価値体系はどのような利害関係を反映するのか(価値体系の社会的=経済的=政治的 基礎)、社会の発展法則にもとづいてどの価値体系が∵将来支配的のものとなるであろうか、等がそれである。なぜかと言うと、これらの問題に対する答えは、個人の信念や願望によってでなく、諸々の経験的事実によって検証しえられるものであり、そのような結論を求めることが科学の任務であるからである。そうして、このような解答によってのみ、人は現象の発見と現象の 制御・支配・変革という科学の究極の目的を実現することができる。
(川島 武宜『「科学としての法律学」とその発展』より)
日本にはそれぞれのイエに 読解検定長文 高1 秋 3番
日本にはそれぞれのイエに家業 繁盛や先祖 祭祀を中心とする「イエの宗教」があるように、会社にも社業 繁栄の 祈願や創業者への 尊崇を 核とする宗教的・ 象徴的表現形態が存在する。会社といえば、経済的利益をうみだす装置で、宗教的な共同体とは異なるというのが現代の常識かもしれない。しかしながら、会社は 世俗的なもので、宗教は神聖なものであるという 聖俗二元論は、日本の会社にはかならずしも当てはまらない。
日本人は私立の会社や学園が宗教的 祭祀をおこなうことにあまり疑問をいだかない。家で神仏や先祖をまつるのとおなじように、会社が神仏や社祖の加護を 祈願するのはなんら不思議なことではないからであろう。社員も個人としての 信仰や宗教的帰属は異なっていても、一部の例外をのぞけば、会社の 祭祀に参加することにほとんどためらいはない。(略)
したがって、会社宗教を理解するための第一歩は、「イエの宗教」との 比較である。イエは建物としての家屋を意味するとともに、家族のこともさし、家業と家産を 継承し、先祖の 祭祀をおこなう集団と考えられてきた。社会人類学的により厳密に定義すれば、イエは 純粋な 血縁集団ではなく、家族や親族以外にも 奉公人などをふくむ社会的な基本単位である。しかも父系、母系にこだわらない 双系的な集団であって、ひんぱんに養子 縁組をとおしてイエの 継承がはかられてきた。つまり、イエは 血縁の連続性を 犠牲にしても、家業によってうみだされた家産を代々ひきつぎ増大させるべき経済的単位でもあったのである。経済を優先するという意味で、日本のイエは 血縁的 紐帯のゲマインシャフトよりも利益を中心に編成されたゲゼルシャフトである、といった見解もある。この点、日本のイエは、漢人やコリアンにみられるような、初代の男系先祖からどこまでも枝分かれしていく父系 血縁集団の編成原理とはおおきく異なっている。(略)
他方、先祖 祭祀とならんで重要なイエの 祭祀に、 屋敷神に対する一連の 儀式がある。 屋敷神は文字どおりには家屋と 敷地の神を意味する。 民俗学者の 直江廣治によれば、その呼び名と祭神は地方によ∵って異なるが、 一般的な 特徴としては次の点が 抽出できるという。まず、 屋敷内やその 近隣の聖地に、イエないし一族が小さな、つつましい 祠をたててまつるカミであること。第二には、先祖が 開拓した土地や生業―とくに 稲作―にむすびつくカミであること。第三には、三十三 回忌や五十 回忌のおわった先祖の 霊が 屋敷神になるという伝承があるように、祖 霊信仰が 屋敷神の性格に加味されていること。そして最後に、 祠のある森の木を切ったり、定期的な 祭祀をおこたったりすれば、人間にはげしくたたり、家運がかたむく原因になると信じられていることである。
ビルの屋上にある 祠が 屋敷神の延長であることは、 直江も 指摘している。実際、会社には 祠や 神棚のあることがめずらしくなく、亡くなった経営者や従業員の供養のために家墓とは別に会社墓をもうけ、毎年 追悼法要を 執行しているところもある。つまり会社にも「 屋敷神」が存在し、会社の「先祖」や「 企業戦士」が 祭祀の対象となっているのである。また工場をたてるときには、神道式の 地鎮祭が 執行され、社長が亡くなれば 社葬をもって 顕彰と告別のセレモニーがとりおこなわれる。
(中牧 弘允『会社のカミ・ホトケ 経営と宗教の人類学』による)
「差別」や「平等」という 読解検定長文 高1 秋 4番
「差別」や「平等」という言い方は、一種の序列構造を前提にしている。自然数のように、大小の順番がつけられるという性質を「順序関係」と呼ぶが、「差別」の対義語として「平等」を 措定する思想的態度は、順序関係という写像への 信奉によって非常に強く条件づけられている。
「差異は上下という関係に写像される」という世界観の下では、できるだけその差異を 隠蔽して、均質なものとみなそうという動機づけが生まれる。そこに立ち現れるのは、世界が お互いに 比較などできない多様なものによって構成されているという 豊潤さへの感謝ではなく、むしろすべてを中央集権的に価値づけようという「神の視点」につながる野望である。(略)
差別語とされる言葉をことさら使う人は品性 下劣であるが(とくに相手が 嫌がる場合には、あえてそのような言葉を使う必要はないと思う)、その一方で思想警察のごとき 極端な「差別語 狩り」には、以前から 違和感を持っていた。その根本的な理由は、以上述べたような、差別をことさらに 隠蔽しようとする思想の背後にある、画一的なメンタリティにある。
世界には 魑魅魍魎のごとき実に 多彩なものがあふれており、その間に単純なる順序関係(上下の序列)などつけることはできず、生肉を食べようが、目が細かろうが、 箸でものをつまもうが、それは「個性」であって、「みんなちがって、みんないい」と 称揚されるべき差異である。そのような「 覚悟」をもって世界を 見渡せば、美人だろうがブスだろうが、ハゲだろうがオヤジだろうが、別にいいだろう、と思えるはずだ。しかし、それは案外かなりラジカルで、それを生きることの難しいスタンスなのかもしれないとも思う。
もともと、近代科学自体に世界観としての原罪がある。周知のとおり、ニュートンによる 微積分の手法の発明、「万有引力」という構想自体が、世界の中の差異を消去し、すべてに 普遍的に成り立つ法則を見出そうとする動機づけに基づいていた。目の前のリンゴと、天上に 輝く月の間には、ナイーブに考えれば乗り 超えがたい差異がある。両者が同じ万有引力の法則に従って運動するという∵ 衝撃的な着想の中にこそ、近代の科学を発展させた 起爆剤はあった。しかし、それは同時に差異をどんどん無効化し、消去していく無限運動の始まりでもあった。
それぞれ 輝く個性をもって 屹立しているかに見えた生物種の起源が「 突然変異と自然 選択」という 一般原理で説明され、子が親に似るという現象はDNAという単一の物質のバリエーションの問題に帰着し、そしていまや世界の 森羅万象が等しくネットワーク上のデジタル情報の中に映し出される。男も女も、老いも若きもすべては差異の 隠蔽された平等の楽園に 取り込まれていくという「政治的正しさ」のプログラムは、ニュートン以来の近代科学のすばらしき成果と思想的に明らかに連動しているのである。
( 茂木健一郎「『みんないい』という 覚悟」による)
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