なぜ、通常、私たちは 読解検定長文 高2 冬 1番
なぜ、通常、私たちは、「私が『私』といふとき、それは厳密に私に帰属するやうな『私』で」あると考えるのか、また「私から発せられた言葉のすべてが私の内面に 還流する」(三島由紀夫『太陽と鉄』)と信じているのか。その理由は、私たちが、「自己のなかに必ず 跡づけられている他者との関係の動き」を、そうと気づくまでもなくすぐに縮小し、 還元してしまうからである。つまり、もう少し具体的に言えば、小林 秀雄も 繰り返し指摘しているように、「精神が考へたところを言葉が表現するのだといふ 迷妄」をどうしても 逃れられないからである。
何故人々がこの 平凡な事実を忘れるかといふと、日常生活に 於いても、人々は精神の考へたところを言葉が表現するのだといふ 迷妄を 如何にしても忘れられないからである。処が事実、人は考へるのは自分の精神なのか自分の言葉なのか知る由もないのである。考へるといふ事と書くといふ事は二つの事実を指してはゐないのだ。言葉といふ技術を飛びこして何かを考へるとは 狂気の 沙汰である。(小林 秀雄「アシルと 亀の子 ?」)
私たちはランボーの小説を読むとき、フロベールの小説を読むとき、そこにたしかに作品があるという気がする。そこに独特の音色を 聴き取り、生き生きした 筆致で 描かれた 輪郭とか 色彩を見わける。かけがえのないトーンや声調を見い出し、なにかしら 新鮮な意味合いが独自な個的特性として刻印されているのを感得する。だからそういう作品(創作され、おくられた言葉)を生み出し、おくった作者がいるということも確実で、疑いようがないと思える。しかしそうした独自性や個的特性は、私たちがふつうそう考えているように、その個人(作者)に本来そなわっているような固有な同一性なのであろうか。自己のうちで必ず自己とは異なる他者との関係の動きを、他者へとおくり返す転送の運動の 痕跡を縮小し、 還元して、それ自体として 充満し、自らに現前しているような独自性や個性なのであろうか。
もし作者(個人)がそれらの言葉の構築(作品)を創造し、おく∵った絶対的な起源である――言葉を生み出し、おくる 行為や運動の外側に 抜け出し、上からそれを 宰領し、 統轄する 超越した創造主体である、いわばその「作品」に対して「神」のごとき存在である、と絶対的に決定できるならば、そうみなすことに 根拠があるかもしれない。しかし作者は自分の言葉を創出し、おくる 行為や運動を開始する真の始源である――その 行為や運動を上から 統轄する 完璧な創造主体である、と絶対的に決定することはできないだろう。なぜなら作者は、 既に、そしてつねに、おくられている言葉の運動を通して、その運動のなかで、その運動としておくるからだ。まったく 恣意的に定まった必然として動いている形相性(と一体化した意味内容)の 相互的諸関係の体系的作動のなかにいつも 既に巻き込まれながら、つねにおくられつつ、おくる運動によって、つまりつねに他なるものとの諸関係の動きを通じて、そういう動きとしておくるからである。語るということ、書くということは、その実情に最も則して言うとすれば、そういう他なるものとの諸関係の動きに参入するということではないだろうか。そうするとどのような個人であれ、作者であれ、言葉を創出し、おくるのではなく、 中継しながら 組み換えたり、ずらせたりしているのだと言ったほうが事実に近いのではあるまいか。
外国語には 読解検定長文 高2 冬 2番
外国語には 二者択一とか総てか無かというような思考法がある。 二者択一は対立するものがあるとき、そのどちらかひとつを 選択することだが、それは同時に他が否定されることを意味する。両者のよいところを採る 折衷主義もないわけではないが、両者を共存させる考えはめずらしい。これはキリスト教という一神教の 影響であるという説もあるが、絶対的対立が強調されている。総てか無かも一種の 二者択一であるということができる。
わが国では本来ならば 併存できないはずのものが何ら 矛盾も感じられないで共存している。 一般の家庭で 神棚と 仏壇とが同じ部屋にあって、朝夕それぞれの様式によって「拝む」ことをきわめて自然であると思っている。仏教を 信仰すれば神は否定しなくてはならないという一元論ではなく、仏も神も認める。多元論、複元論である。
一元論から見ると多元論が得体の知れないものに見えるのはやむを得ないことかもしれない。日本語は多元論的文化の中で発達してきたものであるから一元論的 一貫性、対立の原理をはっきりさせない。「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」主義である。一元論からすれば 矛盾だということになる。
しかし、多元論のメリットも忘れてはならないであろう。一元論は 明晰ではあるけれども同一平面の上における問題しか処理することができないのは、 矛盾する次元のものをすべて 棄ててしまっているからである。それに対して、多元論では立体的な論理を追求することができる。一元論の論理では芸術とか生命現象をとらえにくいが、多元論は感情の 比較的こまかいヒダにまで入って行くことができる。
一元論の論理が平面 幾何学的であるとすれば、多元論の論理は生物学的であるといえよう。
多元論においては 首尾一貫ということはむしろ 退屈な単調さと感じられやすい。ドライブ・ウエイが一直線に 伸びているとすれば運転者はかえって運転を誤りやすいといわれる。適当な曲線の変化があった方がよい。論理においてもまったく 純粋なロジックはどう∵も人間らしさの 乏しい冷たいものを感じさせがちである。悲劇はあくまで深刻でなくてはならない。いやしくも観客が笑いこけるような場面があってはよろしくないとするのが 純粋を貴ぶ一元論である。ところが、シェイクスピアのような天才は 滑稽な場面を 挿入することによって、かえっていっそう悲劇感を高めるコツを知っていた。しるこをうまくするには砂糖だけでなく、ひとつまみの塩を入れるのと同工異曲である。どうもわれわれの感覚には 純粋な論理だけでは満足しないところがある。それを 考慮に入れているのが多元論的な論理というわけである。
一見 矛盾するものを調和させる多元論にとって、不可欠の方法は「とり合わせ」である。同類のものや筋のとおったものを集めるのではない――それでは月並みで 退屈になる―― 互いに範疇を異にするものを結び合わせて意外のおもしろさを出す。それが「とり合わせ」である。ぼたんに 唐獅子、竹に 虎、などはそのとり合わせの感覚によって生れた絵画的世界の例である。不調和を 越えた調和を支える論理に着目したものである。日本語はこういう 柔軟な論理を表現するのに適しているし、逆に言えば日本語の論理はそういうとらえどころのない性格のものにならざるを得ない。
( 外山滋比古の文章による)
近代小説は一般に 読解検定長文 高2 冬 3番
近代小説は 一般に無制約な形式であるといわれている。無制約であるとは、限界まで 希薄化された様式性を意味する。私に帰属する固有の内面を、そのまま忠実に模写し外部に対象化するには、表現 媒体はできるだけ無制約的であることが望ましい。近代以前の日本語文には、様々な制約が課せられていた。明治期における「言文 一致」とは、たんに口語と文語の 一致を目指したものではない。国木田独歩の『武蔵野』以降の日本の近代小説であろうと、会話部分が忠実に「口語」を再現しているといえない点をあげるまでもなく、それは歴然とした事実だろう。今日でも事態は同様である。「対談」や「座談会」でも、会話のテープを忠実に起こした 原稿と、公表される文章とのあいだには大きな 相違がある。「対談」や「座談会」として公表される文章のほとんどは、日本の近代小説の会話体を 規範として修正されているのだ。たんにテープを起こしたにすぎない文章は、読者の立場からいえばほとんど読むに 耐えない。
明治における「言文 一致」とは、文語と口語の 一致を目指すことを必ずしも意味していない。それは 軍艦や軍隊を製造したり運営したりする主体(近代的な私)の内面をそれ自体として過不足なく外面化しうるための、可能な限り無制約的で無 媒介的な、 換言すれば様式性に制約されない 透明な表現形態を無から創造するために求められた運動にほかならない。「言文 一致」によって生誕した日本の近代小説のスタイルは、主語 一人称代名詞を「自分」に、文章 末尾を「デアリマス」に統一するよう決定された軍隊用語のそれとほとんど構造的に照応している。
明治期において新文章をめぐる 試行錯誤が、もっぱら近代小説の文体をめぐる問題として 顕在化したことには必然的な理由がある。小説形式は他の伝統的な文芸ジャンルと 比較して無制約的な、 没様式的なジャンルである。だから小説は近代的な内面を外面に過不足なく移しかえる 透明な表現形態として、近代における文学表現の王座の地位を確保しえた。
しかし以上のような発生メカニズムの解明は、近代小説の自己∵ 了解を裏切らざるをえない。近代的な私は、固有の内面を小説形式という無制約的で 透明な表現形態において、作品に対象化=外面化する。だが、「言文 一致」が文字どおりの言文 一致を意味していないように、無制約的で 没様式的であると信じられた近代小説の言語には、 暗黙の制約性や様式性が課せられているのだ。それは主体を規制するというよりも、主体なるものを事後的に産出するような 超越的なメカニズムにほかならない。近代小説の作者および読者は、この 超越的なメカニズムを制度であるとは認識しない。むしろ原理的に認識しえないというべきだろう。
近代小説の言語と文体は近代以前に 普遍的だった「作者のいない作品」の水準を 超えて、作者=作品(内面=外面)という直結形態を可能ならしめたと自負している。けれども認識されない表現形態の物質性は、無意識的な制約として近代小説の作者および読者を密かに 統御し支配している。それは文体についてのみいえることではない。近代小説の発生史を 克明に検証してみれば、近代的な意識には大気のように自明であると信じられているものが、長年の曲折の結果としてかろうじて確立されたシステムにすぎないことも 了解されるだろう。
( 笠井潔氏の『 探偵小説論序説』による)
「くるまざ」という言葉は 読解検定長文 高2 冬 4番
「くるまざ」という言葉は、室町時代のころにはすでに日本語の中に定着していたらしい。一六〇三年( 慶長八)に日本イエズス会が 長崎で刊行した有名な『日 葡辞書』にはCurumazaniという語が採られていて、例文としてCurumazani nauoru(車座に直る)があり、「 皆の人々が円形に座につく」という説明がついている。
何の具体的な 根拠もないことだが、私はこの「車座」という語が、いずれにしても乱世の時代になってから人々に愛用されるようになったのではないかと想像している。「車座に直る」のは女たちではあるまい。合戦を前にした武士団、自分たちの権益を犯されそうになって対策を練るためひそかに集まった 豪商たち、権力者に無理難題をふっかけられて 鳩首協議するために集合した村の代表者たち、そういう男どもの 緊張した顔が、この言葉の背後から立ちのぼってくるように思えてならない。
しかしこの形のつどいは、いったん 緊急事態が解決されれば、たちまち一転して、 酒宴と 歌舞放吟の場になるだろう。女たちもその時は車座に花を 添え、その主人公にさえなるだろう。やがて天下太平の世ともなれば、もっぱら後者の車座が全盛となる。
いずれにしても、全員が内側を向くという形の座のとり方は、集団の心構えを統一し、同心の者としての結束と忠誠を 誓い合い、敵対する者たちに対する 排他的情熱を高める上では、最も効果的な 陣形だった。高校野球でもバレーボールでも、危機に臨んだ 監督たちは 皆これを応用する。何しろ車座に座るというのは、 互いに顔と顔を向け合い、相手の一挙手一投足まで直接見つめていられる 唯一の座り方なのである。祝いの席であるなら、一同心を同じくする快い興奮、 盃を交わし合う 歓びに、おのずと歌も 踊りも出てくるのは当然だった。
(中略)
私は財政とか経済とかの方面についてまったく暗い人間なので、まことに単純なことしか言えないが、アメリカと日本の間で極度に∵ 緊張が高まっている貿易 摩擦や経済 摩擦の根源には、単なる経済問題よりもずっと深い生活原理の 食い違いが横たわっていることは明らかで、これを打開するにはたぶん何世代もかかるのではないか、さもなければ再び重大な 衝突が激発することもありうるのではないか、という 危惧さえ感じることがある。
この 摩擦は、「開放社会」と「車座社会」との対立、というふうにも単純化して言えるだろうが、アメリカの(そしてヨーロッパの、アジアの、その他全世界の)土地や不動産や美術品その他を次から次へと買い漁り、値を 釣りあげておきながら、自国の土地や不動産その他に関しては、高い 障壁を張りめぐらしてヨソ者の参入を可能な限り 阻止する姿勢を 貫こうとする日本人というものは、自由貿易、開放主義の原理を 奉ずる人々から見れば、理解できないばかりか、異様な 魂胆を内に秘めて世界 征服の野望さえちらつかせて前進する 邪悪な民族とも見えかねないだろう。アメリカ政府や議会の中にそういう感情が高まってくる時には、各地の市民の中にその何倍もの強さにおいて、同種の感情をたかぶらせている人々がいると見なければならない。
( 大岡信『詩をよむ 鍵』による。ただし一部原文を改めた)
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