しかしマキャベリの 読解検定長文 高2 夏 1番
しかしマキャベリの二重 倫理のあまりにも 直截な提示は、当時のヨーロッパ人にとっても 衝撃であり、そのまま受けとめるには 過酷すぎるものであった。そこでマキャベリ以降の政治思想のかなりの部分が、その政治 倫理の二重性をいかに 緩和するかという点に関心を寄せたのである。そこでよく用いられたのは ローマ帝国に源流をもつさまざまな 概念装置を 忍び込ませることであった。
このことの説明を進める前に、ギリシャとローマとは、古代都市国家としての共通性をもちつつも、両者の間に大きな 違いも存していたことを説明しておく必要があろう。ギリシャのポリスは、何よりもそのきわめて強い精神的統一に 特徴があった。アリストテレスの有名な「人間はポリス的動物である」という言葉は、まさにその表現であった。この言葉は、ポリスの運営に進んで参加して初めて人間は人間たりうるということを意味していた。それ以外の人間は 野蛮人であり、本質的には動物と異ならない存在とすら見なされたのである。その意味でポリスの理想は、政治への 参与、特に言論によって 参与し、共同体のために戦う義務を引き受けることこそ人間の真の自己実現の場であると 捉えられていたのである。
これに対して、ローマの都市国家(civitas)は、人間の自己実現としての政治への 参与という観念をギリシャほど絶対視していなかった。ローマでは、すぐれた統治を行うこと、つまり技術としての政治への関心が早くからもたれていたようである。その 中核は「インペリウム(imperium)」という 概念であった。それは最初、軍隊に対する命令権を意味していたが、やがて統治権であるとか、統治の 及ぶ領域であるとかを指すようになり、ついには支配 圏の 及ぶ範囲としての「 帝国」を意味するようになった。ローマの共和政は、その構成員が兵役の義務をもつという点ではギリシャのポリスと同じく「戦士共同体」ではあったが、しかしインペリウムを 誰かに委ねること、またそれを委ねるにあたって複数の権力を 相互に張り合わせる「混合政体」の仕組みをもったこと∵によって、ギリシャのポリスとは異なる特質を 獲得した。インペリウムの 概念はギリシャ世界では受け入れられなかった 概念であり、その 実践的な 柔軟性にこそ意味があった。それこそが、ギリシャ都市国家が 比較的短期間に 衰えたのに対し、ローマを地中海の 覇者に 押し上げ、その支配を長期にわたらせた、いわば「支配の天才」としてのローマの本質であった。この 概念によって、ローマは都市国家としての性質を残しながら、かなりの開放性、 柔軟性をもつことができ、やがて都市国家から 帝政へと変質していくことすら可能になったのだった。
ギリシャのポリスでは公的空間への参加を意味する徳(virtue)の重要性が 圧倒的に高かったのに対し、ローマでは市民の私的世界での自由(libertas)にもある程度の価値を認めていた。ギリシャにおいては人間は公的世界においてのみ真の人間でありえたが、ローマにあっては、公的なものが優先されはしたが、私的世界も一定の意義を 与えられた。ギリシャでは公的空間としてのポリスしかなかったのに対して、ローマでは、社会と国家の区別が認められていたのである。
近代ヨーロッパの政治理論家たちは、ギリシャの政治 哲学に 刺戟を受けながらも、その 概念、思考法は常にローマ的なるものに引き寄せられていった。そしてローマ的思考法こそが、中世の 普遍的 権威を否定した上で成立する自己完結的な政治体同士の間に、最低限の 秩序をもたらすことを許したのである。それはローマが得意とした「法」や、ギリシャからローマ世界が 引き継いだストア 哲学の基本 概念である「理性」とか「自然」といった 概念によって表現された。そこに、「国際政治」なき時代の「国際政治」、 言い換えれば、「国際政治」の「原型」とも言うべき独特の 秩序空間が成立したのである。
(中西 寛『国際政治とは何か』)
歴史のプロセスとは 読解検定長文 高2 夏 2番
歴史のプロセスとは決して直線を延ばすように進歩するものではない。ジグザグな進展でもない。それはいくつかの大きな経験や変動を経ながら先に進むものでもなく、すでに 堆積されている経験の上に新たなものが積み重なっていくプロセスである。(中略)
そして、ひとたび歴史の重層性ということを認めたならば、次のことに思い至らざるをえない。それは、われわれは、結局、常にある特定の社会の中にあって、ある特定の文化の様式のもとでしか歴史を 引き継ぐことができないということだ。 普遍主義の旗印のもとに 押し寄せてくる 西欧近代なるものと、われわれは調子を合わせることはできるし、実際そうしてきたつもりでもあるが、 西欧的な意味で 西欧近代を我がものとすることは、われわれには決してできない。
むろん、このような見方を批判する人は少なくない。「 西欧的」近代などというものはない。「近代」は「近代」であって、 普遍的なものである。「 西欧」にこだわる理由はどこにもない、そもそも 西欧と日本を対立させるのが 間違いなのだ、と。
だが私には、この 普遍主義は決定的に誤っているように思われる。歴史が重層的だとするなら、われわれは決して近代という用語によって一 括りにできるような 普遍的世界へと 収斂することなどありえないはずである。われわれは、どこまで行っても近代と前近代の 混融を生きるほかない。そしてこの 混融のあり方は、「ナショナルなもの」という文脈に 依存するほかない。
近代的 普遍主義者は、そもそも「ナショナルなもの」を持ち出すことは、 排他的な国家主義へと 対抗する第一歩であり、危険思想への導入口だと見なす。近代という 普遍的文明によって初めて、平和的に人々は共存できると見なす。しかし、これも 間違っている。 普遍主義が 排他的で暴力的であることはいくらでもありうる。 普遍主義は、 普遍であると自認する者の権利以外の一切を認めず、 普遍性からの変異を 排除しようとするものだからである。 特殊なもの、∵個別的なものを 排除した上での 普遍主義は、 普遍という名の暴力の勝利に過ぎない。
これに対して、「ナショナルなもの」に 立脚する立場、すなわちここで言う「 シヴィック・ナショナリズム」は、「ナショナルなもの」であるがゆえにこそ、他の特性を尊重する。むろん「ナショナリズム」が「ウルトラ・ナショナリズム」と化し暴走する危険に対して私も無自覚なわけではない。しかし、他者がなければ自己意識、つまりナショナリズムなど存在しないのである。他者を 抹殺すればナショナリズムも無意味となるのだ。したがって、真に危険なのはむしろ 普遍主義のほうであるように思う。それはすべてを同質化し、他者を 排除しようとする。少なくとも「ナショナリズム」の危険性は常に唱えられ、いわばチェックされているのに対して、「 普遍主義」の危険性はほとんど認知されていないであろう。だから、他者を 契機とした自己意識、自己認識としての「 シヴィック・ナショナリズム」こそが、グローバルな時代に 要請されるのである。
今日、 超近代文明(hypermodern civilization)としてのグローバルな 普遍化が性急に世界を 覆いつつある。同時に、それに対する展望のない 反抗としての過激派によるテロが暴発している。そして、その両者にはさまれて、世界中の各地で「われわれ」の再定義が 模索されている。その中心に「ナショナルなもの」の再構成という集団的なアイデンティティの 模索がある。私には、イスラム過激派武装勢力によるテロリズムに 与することができないのと同時に、 西欧近代の性急な 普遍化にも安易に 与するべきではないと思われる。そして、今日、この 普遍化を推し進めるのがアメリカだとすれば、アメリカニズムに対してどのように 距離を置くか、ということこそが、われわれにとっての最大の課題と言わざるをえないであろう。
( 佐伯啓思『 倫理としてのナショナリズム』NTT出版)
概念化された風景のなかで 読解検定長文 高2 夏 3番
概念化された風景のなかで若者たちはみずからの身体を 概念化する。規格化されたスピードで移動することに慣れた若者たちは、老人のスピードで移動する人びとが規格外の存在であることに 堪えられなくなるであろう。なぜ世の中はかれらに正常な機能をもたせるような装置を提供しているのに、それを使わないのか、と。
概念化した風景のなかで生きる人びとは、 概念化された 環境に適応していくから、そのような 概念化した 環境に適応する身体をもつようになる。ある理念のもとでつくられた風景に対して理念としての身体が設定され、それに適応することが 徹底的に求められるからである。
空間風景のなかの身体は、こうして設定された空間の意味に対応するように訓練されていく。それは空間の意味を設定した設計者に要求されるかたちでの自己調整であり、自己訓練である。そこでは、身体は空間の価値に対応するように形成され、あるいは整形されていく。
風景の 概念化と風景のなかで生きる身体の 概念化とは 相伴って進むであろう。 概念風景のなかでひとは身体を 概念化することで自由になる。たとえば、人びとは 高齢者のようにゆっくりと歩くことから「解放される」。 高齢者の身体は、健康な大人の身体の 振る舞いの風景のなかに吸収されていくのである。
解放としての自由は都市設計の重要な課題であり、そこには、コンセプトのモチーフ、テーマ、ストーリー性といったものが重視される。これらは高次のコンセプトとして機能し、都市全体の特質を決定していく。高次のコンセプトが共有されると、世界の都市の類似化が生じるであろう。風景のグローバル化がこれによって推し進められる。
概念風景のなかの 概念身体は、 環境に適応することによって、もともと自然と人間の間にあった境界を除去する機能をもつであろう。この除去は、風景と身体の間に存在する境界的 不透明性の除去といってもよい。一定の意味空間はそのような空間の 用途に沿った使用を要求し、そしてそれに見合う身体的 振る舞いだけを許容す∵る。こうして空間と身体の境界にある 不透明性は除去される。 不透明な身体的 振る舞いは、空間の価値にとって望ましくないものとされるのであり、そこに 環境と身体との 緊張関係が生じる。自己はそのような空間の意味に 汲みつくされることによって、空間の提供する快楽を 享受することができるが、それと同時に、そのような要求への 拒絶の自由を 剥奪されるであろう。自由とは本来価値の強制のとどかない 不透明な領域に成立するが、この空間の価値は身体の 不透明性に対する不 寛容をその大きな特色とする。
不 寛容性によって、整形の 緊張がひとに多くのストレスを加えるであろう。このストレスを解消するための空間と時間が必要なのだが、実は、このストレスの存在は、もともと風景の 概念化によって引き起こされたものである。つまり、一定の価値 概念による空間の意味づけによって身体が 概念化されたための 緊張である。空間の 概念化は、一定 概念によるゾーニングであり、このゾーニングは、無意味空間を 排除する。いままで意味づけのなかった空間に意味とゾーニングを 与えるので、身体は、この意味のなかで行動しなければならない。だから 緊張が生じるのである。 与えられた意味空間で要求される 行為を 遂行することで、ひとは 緊張のなかを生きる。
( 桑子敏雄『風景のなかの 環境哲学』より)
最近のローティーン以下の 読解検定長文 高2 夏 4番
最近のローティーン以下の子供たちは、あれほど教師が「個性」「自立」「自立性」を金科玉条のように主張しているにもかかわらず、目立つことを 嫌う傾向が強いそうである。 彼らの間では、「他人に 配慮ができる」気配り型が人気で、「場の空気が読めない」外し型が不人気だそうである。事実、うちの小学生の 娘を見ていても、目立たないことの重要性を学習していると感じている。
「けっこうです」という言葉は頭が痛い。高文脈言語である日本語を 象徴する言葉である。文脈を理解していないと、「イエス」か「ノー」かわからないのである。日本人でも文脈が 微妙で、どちらかわからないことさえある。最近の若者の間で、この「けっこうです」に代わる言葉のひとつに、「ビミョー」があろう。明確な判断を 避けているとの批判もあるが、若者たちの間では、共有している文脈のなかで、最近はとくに否定的な意見や感想をできるだけ述べたくないので、推し量れという高文脈言葉として使われている。まさに 微妙なのである。
(中略)
これを 巨視的にはどう 捉えるべきか。戦後の一億総中流という平等 幻想の上に築かれた 企業という名の大きな帰属集団が、いままさに 崩壊せんとしており、日本的小規模帰属集団への先祖返りが若者によってなされようとしている、と受けとれないこともない。この意味においても、日本 企業は若年層の 企業への忠誠心(この場合は英語のコミットメントという語がふさわしい)を、どのように確保するのかという大きな問題を 抱えているといえる。このまま 企業が、若者たちの 企業へのコミットメントを 喪失すれば、日本 企業の 企業力、ひいては日本の国力は 衰退していくことだろう。
したがって、若者の行動の変化が個人主義への移行につながるという議論は、明らかに論理が 飛躍している。利己主義化(わがまま化)していることを個人主義化の 根拠としているのかもしれないが、集団主義を否定すれば個人主義になるというような単純な二 項対立的な問題ではない。日本と 西欧の自我/自己構造の 違いを考え∵れば、これが乱暴な論であることは明らかである。
にもかかわらず、日本的原理の 崩壊=個人主義への移行という 極端な論を展開している人が多いのは、そうした論者自身が日本人的自己の前提構造の不安定さに 苛立っているからと 解釈したほうがよいのではないか。自己の前提となる役割構造が 崩壊してしまうときによく見られる日本的な態度、まるで 振り子のように「ゼロか百か」に 極端に 振れる姿勢が、ここにもあらわれているのである。そもそも、利己主義と個人主義を混同すること自体、日本人が 西欧的な意味での個人主義原理に向かっていない 証拠である。
繰り返しになるが、若年層の行動を子細に見ていくと、自己の相対的位置づけに基づく内向きの思考メカニズムに、構造的な変化は認められない。一見、個人主義原理へ移行しつつあるように映る若年層の行動は、自己構造にいたる手前のプロセスにおける、二つの領域での変化と 解釈すべきなのではないか。
ひとつは、従来に比べて若年層の共通文脈の設定領域が 狭くなったことと、コミュニケーション・スキルとその方法が変化したことである。もうひとつは、若年層の社会行動 規範の通念が、これまでに比べてかなり変化してきたことである。戦後の 官僚が築き上げた「一億総中流の平等 幻想」がバブル 崩壊によって 破綻し、「一億総よい子化」に息苦しさを感じる若者たちが出てきたことによって、社会通念が変化し、よい意味での階層化が進んでいる。息苦しくなくいられる、自分のアイデンティティとなるワーキング・クラスの形成である。けっして 裕福でもない家庭の子供がニートの多くを 占められるほど豊かな社会では当然かもしれない。最近は「下流社会」とか「格差社会」という言葉がはやっているが、階層化をすべて悪と 捉えるのは、社会主義的 官僚か、おせっかいな進歩的文化人であろう。
( 小笠原泰『なんとなく、日本人』による)
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