近代から現代にかけての社会は 読解検定長文 高2 秋 1番
近代から現代にかけての社会は、老人にとってけっして生きやすい場ではない。なぜそうなったかを考えると、わたしたちは進歩とか効率性といった近代社会の原理にぶつかることになる。
資本主義的な生産様式が全社会に 浸透していく近代世界にあっては、生産性の進歩と向上が生産現場においてだけでなく、生活のあらゆる場面で求められるようになる。スポーツがいい例だ。スポーツはそれ自体がなにかを産みだす生産活動ではなく、体のこわばりをほぐし、合わせて精神の 緊張をもほぐす気晴らしの遊びなのだが、近代の原理がそこにも 浸透し、その結果、勝敗にこだわって 真剣に訓練を積み、技術的にも体力的にも進歩・向上をめざすことが大切だと考えられるようになる。金もうけを目的とするプロスポーツならともかく、競技を楽しみつつ体の調子を整え、健康を 維持するのが目的の 遊戯スポーツまでが、体に無理を強いても勝つことを求めるものに変質しかねない。勝つか負けるかと、楽しいかどうかとはそう簡単に結びつくものではないのに、勝ち負けこそが楽しさの基準だとする 錯覚が、社会的な力をもってくる。勝つことを最優先し、勝つために効率性・合理性を追求することがスポーツを楽しむことだ、と、競技者自身が思いこむようになるのだ。
進歩や向上を求めることは、ある限られた場では大いに意味のあることだが、そうした気運が社会全体に広がりを見せるようになったとき、そんな社会が老人にとって住みよい場であるはずがない。老人の暮らしとは、とくに体を動かすという場面において、進歩・向上を期待できず、むしろ 停滞と退行を 余儀なくされるような暮らしなのだから。
(中略)
老いをめぐる関係性の変化としては、大きく二つのことが考えられる。
一つは老人 相互の関係性の変化だ。前線を退いた人は、前線にいたときに組みこまれていた人間関係を外れていったんは 孤立する。が、そうした人びとの数がふえれば、たがいに 接触する機会も多くなる。仕事を 媒介にするのではなく、遊びや楽しみを 媒介にした関係が生じ、競争や効率にとらわれないつきあいのなかで、 人柄や経験の 触れ合いが生じる。近所の 道端で老人同士のそういう交流を∵よく見かけるし、やや遠く、 奥武蔵や 秩父の山登りや、都心の美術館や社会人向け大学講座やカルチャーセンターなどで、いまを楽しみつつ、たがいの来しかたを確かめ合う老人たちのすがたをしばしば目にする。ながめるこちらをもほっとさせるような安らぎが、そこにはある。
人間関係の変化として、もう一つ、老年と若年の関係性の変化が考えられる。進歩・競争・効率を至上命令とする仕事の論理は、働きの度合によって人を序列化する 傾向が強く、勢い、働きの少ない老人は軽視されるが、仕事の論理は社会を 覆いつくすものではなく、 覆いつくせば社会がかえって不幸になることにわたしたちは気づきはじめている。不幸の自覚が深まれば、老人の 寂寥感は、まだ老いには至らない人びとにも 寂寥感として受けとめられ、 寂寥感の 克服が社会全体の課題とならずにはいない。個人がさまざまな他人とともに社会をなして生きていくということは、他人の 寂寥感をなにほどか自分のものとして感じることをぬきにはありえず、大きくいえば、人間はそのようにして共同の歴史を作りあげてきたのだ。
じいさんやばあさんの 炉端の昔話も、長屋のご 隠居さんの 悠々自適の生活も、それぞれに人間の共同の歴史の 一齣なのだ。社会の近代化と家庭の 核家族化はいまだ進行 途上にあるから、 炉端の昔話や長屋のご 隠居さんの再生は期待できないが、近代化や 核家族化が老人の 孤立と 寂寥感を強めるのではなく、老若の新しい経験の交流を 促す方向へとむかう可能性は十分にある。そして、課題が課題として提示されたとき、課題 克服の可能性をつねに追求してきたのがこれまでの人間の歴史だったし、今後もそれは変わらないと考えてよい。老若の交流が多くの場面で自然に、さりげなく、おこなわれるようになったとき、その社会は老いを楽しめる社会といえるだろう。
(長谷川 宏『高校生のための 哲学入門』による)
のみならずシドニーの 読解検定長文 高2 秋 2番
のみならずシドニーのゲームを見て感じることだが、今後スポーツがさらに 国威発揚と 無縁になるのは、どんな政治の意図も 及ばない時代の 趨勢のように思われる。現代では、国家が 国威発揚をめざせばめざすほど、その国家の意味が変質するという逆説が働くらしいのである。たまたま目に 触れた野球の試合のなかで、オランダ・チームのほとんど全員が 黒褐色の 肌をしていたのが、 示唆深かった。この選手たちはもちろんオランダ国民であろうが、歴史的な背景を考えればそんなに古い国民であるはずがない。 彼らが移民の初代か二代目かは知らないが、強いチームを送ろうとすれば、国家はそういう新しい国民に 頼るほかはない。伝統的な多民族国家はいわずもがな、この日本ですら今回は二人の中国生まれの選手の力を借りているのである。(中略)
そう思ってさらに根本を 振り返ると、もともと近代スポーツが工業化と国民国家の時代に生まれ、長らく国の政治や経済の力の 象徴と見なされてきたことが不思議であった。さらにいえば、スポーツが現実的な力や効率を連想させ、進歩や拡大のイメージと結びつけられていたことが異様であった。なぜなら、スポーツはその本質において、むしろ人間の総合的能力を制限することのうえに成り立つ技芸だからである。それはとりわけ近代において、技術は深く 磨くと現実的な効用を失うという逆説のうえに立っている。早い話が人間が走る能力を特化して訓練すると、その 壊れもののような 俊足は日常の役には立たないものに変質する。そもそも人間が足で走ろうと考えること自体、この自動車文明の時代に、現実的な効用を無視することを意味しているはずである。
けだし国民国家の近代化は、いわば目的のために手段を選ばぬ精神によって進められてきた。 中核となる工業化そのものが目的至上主義であって成果のためには刻々に手段を 取り替えることによって成長を続けてきた。人間の能力を 含めて、あらゆる手段は 陳腐化されるのが宿命となり、むしろその 陳腐化によって発展が保証されるのが工業化であった。人間の身体能力についても、重用される側面があわただしく変わるばかりか、全体として軽視されるのが科学∵技術の歴史であった。そしてほとんど 奇跡のようにこの歴史と並行してそれに逆らって育ってきたのがスポーツなのである。それぞれの個人が特定の身体能力に 固執し、それだけを 磨きぬくことで、本来は手段であるものを目的にしてしまう文化である。スポーツはあたかも工業の精神をあざ笑うように、あえてそれにとって無用の能力を極限までのばしてきた。
このスポーツの文明史的な意味は、ちょうど芸術の場合と同じく、時代精神の 欠陥を 癒す補完物としてしか考えられない。 極端な効用と効率の時代に、それに 抵抗して文明の健全さを保つ 緩衝材としての意味しか考えられない。だとすればますます 奇怪なのは、そのスポーツの強さが国力の表現として 錯覚され、愛国的な 熱狂の対象とされてきたことである。どう見ても過去百年、人類は国家観の 狐に 憑かれていたのであり、集団ヒステリアの悪夢にうなされていたのにちがいない。ようやくその悪夢が 醒めはてた今、スポーツと国家は初めて健全な関係を結びつつあるように見える。オリンピックは今も各国の国旗のもとに 闘われているが、その国旗はもはやあの神聖で宿命的な国家のイメージを表していないからである。
オランダの黒人選手や中国生まれの日本選手にとって、国家はもはや神話や文化伝統によって結ばれた共同体ではない。それは法と制度によって 彼らの権利を守り、よい生活とスポーツの 環境を保証する合理的な機関である。また世界の選手が 闘う柔道競技は、もはや生まれつきによってしか理解できない民族文化ではない。それをなお現在の日本国民が 誇りうるとすれば、この文化が 特殊日本的であるからではなく、逆にここまで 普及しうる 普遍性を持っていたからである。国の強さは今や閉じる力ではなく外に開く力によって、開いても 壊れない 強靭さによって評価される時代を 迎えている。およばずながら日本もその道を歩み、一歩を進めている姿を見て喜ぶ私は、しかしやはり国を愛しているのだろう。
( 山崎正和『世紀を読む』による)
グローバリゼーションが 読解検定長文 高2 秋 3番
グローバリゼーションが、少数の新しい「 言葉をもつ」人々と、多数の新しい「 言葉をもたない」人々を作り出し、このところ数年来、日本では「勝ち組」と「負け組」の分化がメディアをにぎわせている。
同じことが、アフガニスタンにも、中国にも、メキシコにも、 東欧にも、エジプトにも、いえるに 違いない。グローバリゼーションは、これを「言葉があること」のほうから見ると、光を広める動きだが、「言葉がないこと」のほうから見れば、世界に 闇を広げる動きなのである。
なぜ内部にゆがみを蔵した日本発の「小さなもの」――「かわいい」文化――が、いま米国発の「小さなもの」――スヌーピーであり、ミッキーマウスであるもの――の優位を 揺るがしつつあるのか。
日本のGNPならぬ「グロス・ナショナル・クール(Gross National Cool 国内ソフト・パワー総生産)」がもつソフト・パワーとしての 潜在力について 煥発力ある論文を書いたダグラス・マッグレイは、現在のジャパニーズ・クールとアメリカン・クールの 争闘において 肝腎な要素は、「文化的な正確さ」でもなければ「正統的なアメリカ起源」でもないと述べ、Tシャツに 銘打たれる「Harbard(正しくはHarvard)University」のロゴやポテトサラダのピザのような、本国人から見れば首をかしげるようなうさんくさいフェイクなアメリカ文化の日本での横行に注意を 喚起している。どのくらい自覚的かはわからないが、 彼の直観は 正鵠を射ている。ジャパニーズ・クールの本質は、それがうさんくさいアメリカもどきであること、 偽物の 欧米化であること、 偽物のグローバル・スタンダードであること、その意味で「言葉がないこと/言葉をもたないこと」の表現であることにこそある。新しい独創的な 対抗原理がそこにあるのではない。戦後日本は 占領期以来、「アメリカもどき」の「追従にどこまでも似た 抵抗」、「 抵抗にどこまでも似た追従」を通じ、政治方面での 壊滅的な低迷に並行しつつ、「言葉をもたないこと」の文化表現の力を養ってきた。その結果、半世紀の経験をへて、いま自分も予期∵しなかった形で、その副産物の 勃興を見ている。あの、『古事記』に 描かれた口のない 海鼠こそ、ハローキティの先祖なのではないだろうか。
これに対し、さほど準備のない――本国でなら「言葉をもたない」階層に分類される――個人でも、アメリカ人でさえあれば、「光の言葉」の母国語使用者(ネイティブ・スピーカー)として、日本で、現在 隆盛の語学学校の英会話の教師になれてしまう。こうした 挿話が示すように、いまやグローバリゼーションの波の中で、ミッキーマウス、スヌーピーをはじめとする 欧米の文化産物は、すべて米国の「本国」以外では、正統的な「言葉をもつこと」の使節として受け取られ、「光の言葉」の後光を身に帯びざるをえない。ミッキーマウスが文化的に 劣位な 鼠であることに明らかなように、それらはかつて本国において 劣位の「言葉をもたないこと」の表現であり、そうであることで、本国同様、他の国においても、人々に 訴えかける力をもっていたのだが、いまや、グローバリゼーションの波に洗われるさまざまな国で、ミッキーマウスもスヌーピーも、グローバリゼーションの本国たるアメリカからの 到来者、いわば文化使節として正統的かつ優位な神と感じられる。その 傍らにフェイクな 精霊たるハローキティやセーラームーンを置いてみよう。そうすれば、ミッキー、スヌーピーは立派でお 偉い「識字者」であり、よそゆきであり、時には少々、 抑圧的、さらにはマッチョにすら、感じられる。 彼らはいまや、気楽な友達であるには、ほんの少し 抑圧的なのである。(中略)
マイクロソフト社は否定しているが、かつて同社のビル・ゲイツ会長がハローキティの権利を六千億円で買い取りたいと申し入れたという 挿話は、 喚起的である。 彼が、スヌーピーではなく、ハローキティに目をつけたのは、そこに、よりマイクロソフトにはないものがあると感じたからだろう。そこに 彼は何を見たのか。筆者の考えをいえば、ビル・ゲイツの中で、口をもたないハローキティは、未知の「言葉がないこと」の力を、体現している。
( 加藤典洋「グッバイ・ゴジラ、ハロー・キティ」による)
理想的なものとは 読解検定長文 高2 秋 4番
理想的なものとは現実を 超えたもののことだ。現実にはない、現実とはどこかちがうところにある、それが理想的なもののありようだ。古代ギリシャの 哲学者プラトンは、そんなありかたをする理想的なものを「イデア」と名づけた。理想的な人間、理想的な馬、理想的なオリーブ、理想的な家、理想的な都市、理想的な政治……それらはこの現実世界のうちには存在せず、どこか別の世界にある。そして、現実の人間、馬、オリーブ、家、都市、政治その他は、人間のイデア、馬のイデア、オリーブのイデア、……を手本として、それに似るように作られている。が、それらが現実のものであるかぎり、イデアの完全さに達することはできない。それがプラトンのイデア論の骨子で、芸術作品も、人間が作りだした現実の存在である以上、イデア(理想的なもの)ではなく、イデアの不完全な模造品だ。
理屈としては筋が通っているが、芸術作品を前にしたときのわたしたちの感覚とは大きくずれる考えかただ。観音 菩薩のイデアが現実世界とは別のどこかに――たとえば作者の想像世界に――存在し、それを手本として作られた不完全な模造品が目の前の百済観音だ、とはどうしても考えられない。制作にかかる前に作者の頭のなかに像のイメージがあり、それが制作の導きとなった可能性は十分にあるが、出来上がった作品を見ると、頭のなかのイメージや、さらにそのむこうにあるとされるイデアのほうが、 曖昧かつ不完全なものであって、それを明確な形に表現した現実の作品は、形なき理想らしきものを形のある理想へと高めたものと思えるのだ。だからこそ、見るほうは気息を整えて、静かにゆったりと作品に 対峙したくもなるので、作品のむこうにイデアをうかがうのは、芸術とつきあう楽しみをわれから 放棄する所業のように思える。
絵の場合、話はもっと分かりやすい。
たとえば、レオナルド・ダ・ ヴィンチの「 モナ・リザ」の美しさは、モデルとなった女性の美しさをはるかに 超えるものではなかろうか。絵のむこうにモデルとなった美しい女性を想定し、そのむこうに美しい女性のイデア(理想形)を想定することは可能だ。しかし、「 モナ・リザ」の絵(この際、細部まで写しとられた大判のカラー写真を絵の代わりと考えてもいいことにしよう)を見ていて、美しいモデルや、モデルのむこうのイデア(理想形)に思いが行く∵ようなら、それはもう絵を見ていないのと同じことだ。イデアをいうなら、目の前に 描かれてある女性の絵姿こそがイデアであり、それ以上のイデアなどどこにもありはしない。それが 傑作の 傑作たるゆえんだ。ダ・ ヴィンチは絵の細部においても全体においても、女性の理想形を――永遠に女性的なるものを――追求しているといえるので、その理想形が縦77センチメートル、横53センチメートルのカンバス上に見事に定着されているのは、やはり不思議なことといわざるをえないのである。
時代が下って、ポール・セザンヌが故郷の山を 描いた「サント・ ヴィクトワール山」についても同じことがいえる。同じ題名の絵が何枚もあって、その一枚一枚が、山の理想的な美しさの追求、あるいは、山とは何かという問いへの解答、あるいは、山というものがこの世に存在するその存在の意味の解明、といったふうな試みだが、表現された山は、その一つ一つがこれこそが山だ、山とはこんなふうにあるものだ、と感じさせる。その意味で、そこに定着されてあるのは山の理想形といっていいのである。
理想形が、絵ならば絵具を 塗りかさねた布のカンバスとして、 彫刻ならば大理石の 塊やブロンズの 塊や木の 塊や 粘土の 塊として、音楽ならばリズムとメロディーとハーモニーを備えた音声として、目の前に、あるいは、耳に聞こえるように、ある。くりかえしいえば、それが芸術作品の基本的なありかたであって、作品を楽しむ側からいえば、目に見え、耳に聞こえる物との感覚的なつきあいを通して、形や色や音の理想的なすがたを感受できるのが喜びの源だといえる。芸術作品に接するとき、わたしたちは、現実を 超えた理想的なものが、いま、ここに、現実のものとしてある、という 矛盾を楽しんでいるのだ。
(長谷川 宏『高校生のための 哲学入門』による)
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