日本の理想の上役像は 読解検定長文 高2 秋 1番
日本の理想の上役像は次のようなアンケートに明らかだ。二人の課長がいる。上役としての実務能力も 充分なことは二人とも 一緒。ところでA課長の方は無理な仕事もいいつけない。無理な 怒り方もしない。考課査定も公平だ。だが公務を 離れて部下の 面倒を見てくれない。
B課長は無理な仕事もさせる。 怒るのも無茶なときがある。査定はだいたい公平だが、ときとして感情が入る。しかし部下の 面倒は仕事関係を 離れてもよく見てくれる。どちらの上役のもとで働きがいがあるか。そういう問いを出す。
日本では八十パーセントがBを選ぶ。Aを選ぶのは十パーセント前後である。知識人でも七十対十五ぐらい。アメリカは正反対である(林知己夫『日本人の国民性』)。これは戦前戦後を通じ、共通した日本人の特性だ――もっともアメリカでもだんだん日本的になって来ているそうだが。――
では部下のことを思っている上役とは、具体的にどういう人のことか。たとえば、部下を出張に出す、大事な 契約である。午後八時までに成功したならば報告を入れよ、不成功ないしは努力中ならば報告するなと約しておいたとする。さて電話がなかった。そのときに、これがアメリカであったら、仕事の 契約がうまく行かなかったということだけを考えればよい。そしてすぐそれに対応した処置をすることで上役の仕事は果たされる。
ところが日本の場合は、職務上の処置をすると同時に、あの男は気が強いように見えるが、実は弱気で酒飲みで 寂しがりやだ。だめだったとなるとヤケになり、バーへ行くにきまっている。そういうとき、とりわけあいつは女にもてない。今ごろは 殴られるか、 大阪なら 道頓堀へでもはまっているのではないだろうか、というようなまったく会社と関係のない、個人への思いやりがきわめて自然に頭に 浮かんでこないかぎり、日本では上役としてうまくいかない。部下を 把握できないのだ。部下は、上役というものは職務上の上役で、仕事がよくできるということだけで上役像を 描いているのではなくて、自分のこと、 俺のことを知ってくれるという形で上役像を 描いているのである。∵
ある調査で、社員の行くバーへ 盗聴器をしかけ、上役の悪口を全部集め社員意識というものを考えようとしたことがあった。 純粋に学問的な試みだったのだが、プライバシーを害するというわけで 途中で 廃止された。それによるとおもしろいことに、どこでも、いつでも平社員は集まるとみな上役の悪口をいっている。
はじめの間は、その悪口は 充分に具体的なのだが、 酔っぱらってくるとみな同じ文句になってしまう。それは上役は「 俺という人間がちっともわかっていない」という文句である。それは今度の自分のやった仕事を認めてくれるとか認めてくれないというのではない。 俺という者がわからないという 駄々っ子的不平なのである。つまり、部下は人間味のある付き合いを求めている。それが可能な上役には 全幅の 信頼をよせる。
この人間的に裏打ちされている人間関係こそが、日本の会社のタテの関係のおそろしい強味であろう。(中略)
そこから公私混同もよろしいという変な結論さえ引き出せるのである。わたしは友人とともにある会社を視察に来た外人と、夜中の十一時ごろ、バーへいったことがある。そこで、ある電子 顕微鏡を作る会社の社員が 喧々囂々と議論していた。十二時になっても終らない。そこでその外人が 驚いて、いったいどこの会社の社員で、なにをやっているのだ、と聞く。こちらも悪口はいえないから、あれは会社の話で、今度売り出した電子 顕微鏡の 販売法の検討反省会をやっているのだといってみた。まあ当たらずといえども遠からずであろう。 彼は、日本の会社は 偉い、 超過勤務手当も 払わずに、十二時まで人を使っている、とふしぎな感想をもらし、これだから日本の会社はこわいのだと 感嘆した。
たしかに向こうでいえば、仕事は勤務時間内しかやらない。勤務時間がすぎたとたん、自由な私的個人となる。それをこえて働くのは管理職だけである。日本は、八時間の労働の間はアメリカみたいに 締めつけられないが、二十四時間中、会社員たることから 逃れられない。それが可能なためには、終身 雇用や年功序列にもよるが、公私混同が許されているという条件も大きく働いているのだ。
(会田 雄次『日本人の意識構造』)
彼は地方公務員だ。 読解検定長文 高2 秋 2番
彼は地方公務員だ。
東京 郊外の市役所の健康保健課という、 傍目には地味な職場で働いている。しかしだれかから職業を 尋ねられた場合、 彼はいたずらっぽい笑顔を 浮かべながらこう答えることにしている。
「ボクシングのレフェリーです」
相手が意外そうな顔をして何か 尋ねたそうにしたら、
「本業は公務員なんですけどね」
とつけ加える。ボクシングのレフェリーだけで飯を食っている人間は、日本に存在しない。たとえ世界タイトルマッチのレフェリーをつとめたとしても、ギャラは高が知れている。ましてや 彼のように初心者で、四回戦のレフェリーしかつとめたことがない者は、ほとんどがノーギャラである。ようするにボクシング好きが 昂じて、 趣味としてレフェリーを選んだ者ばかりなのだ。
もちろん 彼も、そんなボクシング好きの一人だった。(中略)
大学を出て、公務員としての地味な毎日を一年ほど送ったころになって、 彼は 唐突にボクシングに目覚めた。きっかけは、高校時代の友人がプロボクシングのライセンスを取得し、 遅いデビューを 飾ったことだった。 応援にかり出されて、初めて訪れた後楽園ホールの客席で、 彼は今までに味わったことのない興奮を覚えた。もちろん今までにテレビで観たことは何度かあったが、生の試合は全く別物だった。生身の人間と人間が、地位でもなく 名誉でもなく金でもなく、もっと 崇高な何かのために 殴り合う。リングに上がったボクサーは、ただ相手を 倒すためだけにそこに生きている。その 圧倒的な存在感は、 曖昧きわまりない人生を歩んできてしまった 彼にとって、まさに 驚きだった。
以来、 彼は 暇を見つけては後楽園ホールへ通うようになった。別にタイトルマッチでなくとも、四回戦でも六回戦でもいい。ボクサーのそばにいて、同じ空気を吸い、同じ興奮を分かち合うことが 彼にとっては大きな喜びだった。(中略)∵
初めて 彼がリングに上がったのは、四月半ば――桜が散ったころだった。(中略)
試合に先立って 彼は二人のボクサーをリング中央へ呼び、マニュアル通りに試合上の注意を 与えた。声が 震えているのが、自分でも分かった。ゴングの前に客席を見回すと、四回戦にしては意外なほど客が入っていた。デビュー戦同士だから、 応援の友人知人たちをできるだけかき集めたのだろう。全員が、二人のボクサーを食い入るように見つめるばかりで、レフェリーの 彼に気を止める者は一人もいなかった。しかし 彼は満足だった。
試合は白熱した内容だった。二人の選手は技術こそなかったが、負けまいとする 気迫は世界ランカーに 劣らないものがあった。 玉砕覚悟のやみくもなパンチの 応酬で、三回半ばには 双方とも血まみれになった。ブレイクを分けるために割って入るたびに、 彼の白いシャツにも 血糊がついた。
三人ともに必死だった。
結局、四回に赤コーナーの選手が放ったまぐれ当たりのアッパーで、青コーナーの選手はマットに 沈んだ。 壮絶な試合だった。赤コーナーに近い客席からは、 潮騒のような 歓声が上がった。その 歓声は、すべて勝者のものだ。レフェリーの 彼のために 拍手をおくる者はだれもいない。しかし 彼は、今までに感じた経験のない深い 充実感に 浸ることができた。
「 俺はリングに立った」
控え室で血のついたシャツを 脱ぎながら、 彼はつぶやいた。
「 俺は 闘った」
相手はいないけれど、お前は勝った。よくやった。よくやった。そう自分に言い聞かせている内に、 彼は 涙がこぼれてくるのを 抑えられなくなった。
二十数年間の人生で、 彼は生まれて初めて何ものかに勝つ喜びを、ひそかにかみしめていた。
(原田宗典「レフェリーの勝利」、『人の短編集』)
戦後教育システムは 読解検定長文 高2 秋 3番
戦後教育システムは、生徒に希望を 与えるシステムとして大変よく機能した。それは、
(1)能力に合った職に送り出す機能を果たし、生徒に将来の見通しと安心を 与えた。つまり、これくらいの学力があればこれくらいの学校を出て、これくらいの職に就ける(女性は、これくらいの人と出会え、これくらいの生活ができる)という期待ができた。
(2)過大な期待を 諦めさせる機能を果たした。特定のパイプラインに乗れなければ、特定の職に就くことを 諦めるしかなく、パイプを流れる過程で、 徐々に諦めがついた(いくら医者になりたくても、医学部に入る学力がなければ 諦めるしかない)。
(3)階層 上昇の機能(世代内 上昇+世代間 上昇)を果たした。少しでも 頑張って勉強すれば、上の学校に行けて、よりよい生活が送れるという期待がもてた。そして、親よりもよい学校に行けば、父親以上の職に就ける(女性の場合は、そのような相手と 結婚できる)という期待がもてた。
一九九〇年代後半、経済社会構造の大きな 転換が起こったと考えられている。それは、物を作って売るという工業が主要な産業であった時代から、情報やサービス、知識、文化などを売ることが経済の主流になる時代への変化である。これを、クリントン政権の労働長官だった経済学者のロバート・ライシュにならって、ニューエコノミーと呼ぶことにしよう。
グローバル化によってニューエコノミーの日本への 浸透が本格化すると、職業世界が不安定化する。これが、教育システムに 波及した結果生じたのが、学力低下を 含む教育システムの危機だと私は 分析している。
ニューエコノミーでは、物作り主体のオールドエコノミーとは 違って、商品やシステムのコピーが容易である。そこで生じるのが、コピーのもとを作る人と、コピーをする人+コピーを配る人への分化、マニュアルを作る人と、マニュアル通りに働く人への分化なのである。それは、将来が約束された 中核的、専門的労働者と熟練が不要な使い捨て単純労働者へ、職業を分化させる。そして、∵グローバル化による競争激化や 金融危機がその 傾向を加速させる。そして、その 影響はまず、若者を 直撃する。
企業は、若者を選別して、能力のあるものは 中核社員、専門的社員として 優遇、それ以外は、 派遣、アルバイトなど保障のない労働者で 置き換えようとする。その結果、非正規 雇用者が大量発生する。それが、日本では、フリーターの増大として表れるのだ。
一方で、旧来型の産業・職は、 徐々に衰退局面に入る。工場はアジアに移転し、メーカーは工員を大量に採用しなくなる。IT化は、営業や事務、 販売職の(熟練を前提とした)正社員を不要にする。
しかし、日本では、職に応じて学校数が調節されるわけでもなく、教育機関としての学校は残り続けた。(中略)
工業高校を出ても正社員工員になれない人、女子短大を出ても 企業一般職になれない人、文系大学を出ても上場 企業ホワイトカラーになれない人、そして、大学院で博士号をとっても、大学専任教員になれない人が 溢れ出す。それが、さまざまなレベルでのフリーターの出現となって表れる。 彼らは、学校が想定する職に就くという「ささやかな夢」さえも 叶えられなくなっている。
そして、重要なのは、パイプがなくなったわけではないことである。大卒だからといってホワイトカラーになれないということは、大学に行かなくてもいいことを意味しない。大学に行かなければホワイトカラーになることはもっと難しいということである。
その結果、パイプから 漏れた人は、「勉強」という努力が 無駄になる体験を強いられることになる。別の職に転進したり、また別の学校に入り直したらと言えればいいが、それは、今までしてきた努力が 無駄になることを自ら認めることになる。親は、自分の子どもの教育にかけてきたお金とエネルギーが 無駄になることに、心理的に 耐えられない。
(山田 昌弘「希望格差社会とやる気の 喪失」より。一部を改める)
「則天去私」というのは 読解検定長文 高2 秋 4番
「則天去私」というのは晩年の 漱石が作った言葉です。天に則って私を去る、「私」なんてない、というのは「西洋近代的自我」すなわち「私は私であり、その個性は意識にのみある」という考え方に対する、日本人としての反発だったのではないでしょうか。
戸籍制度や 漱石の思想から見れば、こうした近代化というのは明治時代に始まったと考えられます。しかし、日本の場合、こうした 思い込みがここまで確立されたのは戦後でしょう。戦後は、それまでの日本的な考え方を「 封建的」の一言で片付けてしまった。
今では 葬式といえば 火葬があたりまえですが、高度成長期の前までは 土葬も別に非常識な手法ではなかった。これがあっという間に、より死体を遠ざける方向に向かっていった。出来るだけ「死」を日常生活から 離していった。考えないようになった。
ほぼ同じ時期にトイレでも同じようなことが起きた。つまり水洗便所の 普及です。あれは人間が自然のものとして出すものをなるべく見えないように、感じないようにしたものです。(中略)
同様に戦後消えていったものはたくさんあります。お母さんが電車の中でお乳を子供に 与える姿も見なくなって久しいように思います。
肉体労働者がフンドシ一丁で働かなくなったのはもっと前からのような気がします。(中略)
このへんのことには 皆、共通の感覚があるのがおわかりでしょうか。身体に関することが、どんどん消されていったのです。
これは都市化とともに起こってきたことです。それも 暗黙のうちに起こることです。世界中どこでも都市化すると法律で決めたわけでも何でもありません。それでもほぼ似たような状態になります。これは意識が同じ方向性もしくは 傾向をもっているからです。
都市であるにもかかわらず、異質な存在だったのが古代ギリシャです。ギリシャ人はアテネというあれだけの都市社会を作っておきながら、 裸の場所を残していたのですから。 彼らにとっては 裸が非常に身近だった。
誰もが知っているのがオリンピックです。これはもともとは 全裸で行っていた大会です。マラソンだって何だって 全裸です。マンガ∵や絵本のようにイチジクの葉なんか付けていません。
スポーツに限らず、教育機関、当時のギムナジウム(青少年のための訓練所)でも 皆裸でした。
もともとギムナジウムという言葉は「 裸」を意味していたのです。おそらく 裸であることの 根拠は今で言う「 裸の付き合い」というのに非常に近かったのではないか。
アテネ型の民主主義の前提は、市民全員が平等だということです。これは 誰でも 裸の付き合いが出来る、ということでしょう。着ている物や何かで判断を受けない。若い人たちはギムナジウムでは平等だった。民主主義の原点は「 裸の付き合い」にあった、というのは興味深いことです。
ギリシャとは異なり、 ローマ帝国にはこうした「 裸の文化」はなかった。もちろん共同浴場とかそういう場所では 裸になっていました。しかし、別にそれは社会の制度と結びついていたわけではありません。
ルネッサンス時代の 彫刻は、ギリシャ時代の 裸のモデルの 彫刻を写したものですが、別にルネッサンス時代の人々が 裸だったわけではない。レオナルド・ダ・ ヴィンチは 裸で暮らしていたわけではありません。 彼らの 彫刻の題材が 裸であっても、それは着物を着た連中が 裸を創っているわけです。よく 一緒にされてしまいがちですが、ギリシャ 彫刻のように、もともと 裸で過ごしていた人たちが 裸の 彫刻を創るのとでは、意味がまったく 違うのです。
もちろん、今ではなぜ古代ギリシャ人たちが 裸だったのか、 文献で証明することは出来ません。そんなことの理由をくわしく書いている本はないのです。こういう共同体全体が持っている無意識のルールというのは、往々にして記録されません。
ただし、 彼らにとって今の私たちよりも身体というものが身近だったのは 間違いないし、それが社会的に何らかの作用をしていたと考えていいのではないでしょうか。
(養老 孟司『死の 壁』による)
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