そもそも本能を定義することは 読解検定長文 高2 秋 1番
そもそも本能を定義することはきわめてむずかしいが、とにかく本能というのは行動と 切り離せない 概念である。人間をも 含めて動物の行動のごく基本的なモデルとして、ローレンツの古典的なモデルがある。ここに一個の 水槽があり、上からたえず水が流れこんで 水槽内にたまる、このたまった水がいわゆる 衝動にあたる。水層の下部には 蛇口が一個あり、それに 栓がついている。適当な 刺激によって、この 栓がひっぱられてぬけると、 蛇口から水が 噴きだす。この水の 噴出が行動を示すものとするのである。
水が 噴出するかどうか、つまり行動がおこるかどうかは、 衝動の大きさ( 水槽内の水圧)と 刺激の強さによってきまる。しかし、どんな型の行動がおこるかは、 蛇口の形によってきまる。同じ 衝動にもとづく同じ種類の行動でも、その型は動物の種類によってちがう。つまり、動物の種類によって 蛇口の型がちがうのである。多くの動物では、 蛇口は生まれつき完成されており、その型は遺伝的に決まってしまっていて、同じ種類の動物は、同じ条件のもとではほとんど同じように行動する。学習する必要はほとんどなく、たとえその必要が多少あったとしても、 蛇口をすこしけずって変型する程度のもので、型の本質的な 変更には至らない。このように、種によって一定の、遺伝的に型のきまった 蛇口にしたがった行動がおこる場合を本能というのが、動物行動学での共通見解であるようにおもわれる。
このような観点に立って人間をみたら、どうなるであろうか。書店にいくと、育児百科のような本や別冊付録がたくさんある。もし、人間に育児行動のための 蛇口が遺伝的に備わっているのなら、こんな手引書はいらないだろう。子供を産んだ女性は、何一つ教わらなくとも、本来もっている遺伝的 蛇口にしたがってすらすらと育児ができるはずだからだ。しかし現実にはそうでない。人間には、動物行動学でいうような育児本能はないのだと考えたほうがよい。あるのは育児 衝動だけなのである。(中略)
人間について日常安易にいわれている「本能」は、すべて 衝動と∵いいかえられるべき性質のものである。このことはフロイトの文脈からみても明らかなのであるが、本能という言葉の 魅力は 依然おとろえているようにはみえない。
実際には人間の行動は、遺伝的制約からかなり自由であり、その 蛇口の多くは社会や文化の 影響のもとに作られるものと考えられる。その点を見のがして安易に本能という言葉を使っていくと、いつのまにか、この言葉のもつ 雰囲気にひきずられて、社会の制約から解き放たれた人間本来の姿という 幽霊をつくりあげることになろう。本来的なものはむしろ 衝動であり、しかも現実にそれを満たす方法すなわち行動の型のほとんどが社会と文化の中でしか形成されえないものである以上、「社会のくびきから本能を解放する」ことは単なる 幻想にとどまる。
けれど、人間の行動もじつは動物的なレベルからそれほど 脱しきっているわけではない。たしかに人間には遺伝的に決まった一定の行動がごくすくない。しかし社会のコミュニケーションという点では、これではいちじるしく不便である。そこで社会的に、とくに支配者の暗示のもとに一定の行動型が設定され、それがしきたり、制度、あるいはいわゆる良識として確立される。すると人間の行動型が遺伝的制約から自由であるという、まさにそのことのために、多くの人々にはいつのまにかこの型の 蛇口がはめられてしまう。
もちろん思想や発想の形式にも相応する 蛇口(良識なるものの大部分はこれであろう)がはめられる。思考と行動の 蛇口は相補って、しばしばどちらもきわめて固定的なものとなりがちである。そして人々がこの 蛇口を通して行動していることを意識しないという点でも、そこには動物における本能とたいへんよく似た性格があらわれてくる。つまり文明は本能を 抑圧するのではなく、本来存在していなかった本能に代わる、代理本能ともいうべきものを作り出すのである。その結果いささか逆説めいてくるが、人間は文明によって動物から 脱するのではなく、むしろ逆に動物のレベルにひきおろされるのである。もしそこから 脱却したいとのぞむなら、ありもしない本能の解放をめざすのではなく、この代理本能とその産物をたえず否定してゆかねばならないであろう。
(日高 敏隆『人間についての 寓話』による)
ゲーテがその色彩論を 読解検定長文 高2 秋 2番
ゲーテがその 色彩論を活発に展開したのは、ニュートンの物理学的な光学に立った 色彩理論をどうしても認め難いと思ったからであった。 彼は述べている。ニュートンの光学にもとづく 色彩理論は、この一世紀以来世の中に君臨してきているが、それは 屈折光線というきわめて限られた事象を 基礎にして築かれているにすぎない。そのために、光と色について、それ以外の重要な現象はほとんど無視されることになってしまった。
それに対して自分は――とゲーテは続ける――、光と、光に対立する 闇とが両々相まって初めて 色彩を生み出すのだと言いたい。ニュートンの犯した誤りは、 彼が行なった実験そのもののうちに見出される。プリズムを通した白色光が 色彩を生み出すためには実は「境界」が必要なことをニュートンは見落としたからである、と。このゲーテの批判そのものは、ニュートンの実験を自分に引き寄せて 解釈しただけの 空振りに終わった。
だが、 空振りによってゲーテの考え方は、まったく無意味に終わったわけではない。 彼はニュートンの光学理論が見落としていた 色彩のもう一つの側面をとらえていたからである。ゲーテが見たのは人間経験としての 色彩現象であり、その代表的なものは「補色作用」である。 彼の挙げている例でいえば、 白壁に黄色の紙片を 貼り付けてじっと見つめていると、それは 紫色に見えてくる。また、夕焼けに照らされてブロッケン山の雪が赤みがかった黄色い光を放つとき、その雪の 影の部分は青 紫色を 呈するのである。
そのような補色作用をもっと 端的に示す実験装置としては、次のようなものがある。すなわち、ここに、交差する白色光と赤色光の二つの光源を用意する。そして、それらの光の交差した前に片手をかざして、 壁面に映った 影を見てみると、その 影の一つは「赤色」に、もう一つはその補色の「青緑色」に見えるのである。
この場合、なぜそこに、まるで気配さえもない青緑などという色が出てくるのであろうか。このような事実は、色は一定に波長から構成されているというニュートン的な考え方からは、どうやっても説明することができない。たとえ、波長についての計測装置を使っ∵ていくらその 影の部分の光の構成を調べてみても、青や緑と呼ばれる波長は少しもそこに検出されないからである。興味深いのは、W・ハイゼンベルクのような現代物理学の革新者が、 彼自身の見地から、近代科学の知を 超えたゲーテ的な 色彩論を高く評価していたことである。
コンピュータの性能としての表現可能な色数は、いうまでもなくニュートンの光学理論の発展に基づいて技術的に可能になったものである。しかし現在、人間経験としての色を表わそうとするときには、それを、ゲーテ的な 色彩の考え方によって補わねばならないだろう。実際の色の感知というのは最終的には人間の 色彩経験であって、単に客観的な現象ではないからである。
(中略)
コンピュータによって一六七〇万の色が発色できるようになったということは、一見それだけ色が高度に客観化されたようにみえるが、果たしてそうだろうか。かつて、 某大家電メーカーの研究所の上級研究員の人から、興味深い話を聞いたことがある。それは、日本から世界中の諸国にテレビの受像機を輸出する際に、どのように 色彩の調整を行なうかというと、その国の大多数の人々の 皮膚の色がもっとも美しく見えるように、調整して送り出すのだということであった。だから、 欧米などのテレビでは、日本人の顔がひどく黄色っぽく見えることになるのである。
色というのは人間の知にとって「最後の秘境」であるとの私の確信はいよいよ強まっている。
(中村 雄二郎「色という最後の秘境」一九九六年による)
一般に人間には 読解検定長文 高2 秋 3番
一般に人間には対象のなかに自分と同質の生命を感じとる能力があって、この共感によって対象の生命と一体化することを感情移入という。そして犬や花であれ無生物の人形であれ、とくに自分より小さいものに感情を移入したときに、その対象を可愛いと感じるらしい。そういう感情移入が起こるのは対象の形や性質にもよるが、それ以上に人間の心の側の積極的な能力によっている。現に実際には生命のない人形を可愛いと思うのは、明らかに特定の文化に育てられた心の作用の結果だろう。
ところで、この心の作用はもともとは「可愛さ」とは関係がなく、もっと広く物神 崇拝という伝統的な精神の文化のなかで働いていた。 巨大な岩石に 畏敬を覚えたり、日常の食物や道具を「もったいない」と感じるのは、そういう文化の現れであろう。いうまでもなく 巨石も一 粒の米も可愛いものではなく、むしろ人が頭を垂れるべき対象であった。それをいえば人形も古代では可愛さの対象ではなく、 恐れたり願をかけたりするまじないの道具であった。なまじ人間の形をしているからややこしいが、人形は人間以上に大きい生命の 象徴であって、いわば物神 崇拝の精神を 凝縮して具象化した対象だったようである。
これにたいして一 匹の子犬に可愛らしさを感じるのは、これまではもっと直接的な生命の共感によるものと考えられてきた。大きさの点でも子犬は人間を 超えた生命の 象徴ではなく、逆に人間より弱く小さな生命の持ち主である。それを愛するのは物神 崇拝とは別の文化の現れであり、動物愛護と呼ばれる精神の発動だと考えられてきた。いったい動物愛護の感情がいつ生まれたか定かではないが、おそらく十七世紀ごろの近代的な自然観の誕生と何らかの関係があるだろう。ともかくそれは一 粒の米をもったいないと思う感情とは異なり、むしろ人間の子供を可愛がる感情に似ていると見なされてきた。そしてたぶん人形が人に可愛がられる対象に変わったのも、こうした文化の歴史的な変化と並行していたはずである。
だが人形が初めて可愛い存在に変わったとき、それはおそらく人間の想像力の多大な発揮を必要とするものだっただろう。形も単純だったし、もちろん自分の力で動くものではなかった。犬や 猫のような 愛玩動物とは 違って、向こうから人間の感情移入の働きを 誘発する存在ではなかった。これには直接的な生命の共感が難しいだけ∵に、人間はより多く努力して実在しない生命を読みとる必要があった。いいかえれば人形を可愛いと感じるためには、人は物神 崇拝の文化を失いながら、物神 崇拝のために求められるような強い想像力を要求されていたはずである。やがて何百年もの 歳月をかけて、人間は少しずつ人形を可愛がる感情を育て、同時に可愛らしさをそそる人形の形状を生みだしてきた。しかしそれでも、近代文化は人形と 愛玩動物のあいだに厳然たる区別を置く一方、どんな単純な人形にも生命を感じとる感受性を残してきたのである。
こう考えると「アイボ」の出現はこの長い区別を 攪乱し、物神 崇拝と動物愛護の文化の終わりの始まりになるのかもしれない。まるで生きた動物のように反応する機械にたいして、人間にはそこに生命を読みとる強い想像力はいらない。可愛らしさは対象のほうからかってにやってきて、人間の受け身の心を直接にとらえてくれる。これを続けて行けば感情移入の能力は 萎縮して、やがて動かない人形は可愛いものではなくなるかもしれない。同時に 愛玩動物の可愛らしさも生物の特権的な 特徴ではなくなり、少なくとも感情の次元で動物と機械との区別が弱くなることが考えられるのである。
すでに科学の世界では物神 崇拝的な生命観は完全に否定され、生物と無生物の 距離さえ大きく縮まろうとしている。法律の世界でも動物と物体の区別は捨てられ、飼い犬を殺しても器物 損壊としてしか 罰せられない。そこへまったく思いがけない方向から、いま感情文化の世界にも同じ流れの変化が 迫っているのかもしれないのである。
( 山崎正和「物神 崇拝と動物愛護ののちに」による)
モーツァルトという 読解検定長文 高2 秋 4番
モーツァルトという人類史上まれにみる美を生み出した、近代西洋の機能和声音楽とは、人間にとって何なのか、それを考えるために、私は若いとき、医者になるのはやめて音楽学を勉強しようと思ったことがある。音楽美学のように 哲学的・ 抽象的な 概念を問題にするよりも、音を 聴くという具体的な感覚体験のほうからそれを考えようとしていたのは、私が医学部生だったからだろうか。
機能和声音楽では、ソシレの属和音の次にドミソの主和音が来ると、音楽が一段落したという終結感が生み出される。属和音にファを加えてソシレファの属七和音にしてやると、この終結感はもっと明確なものになる。これは、シの音が半音上がってドに向かおうとし、ファの音が半音下がってミに向かおうとする、この二つの音のもつ強い方向性のためである。ある音がそれ自身にとどまろうとせず、自らを 離脱して別の音を求めようとする、ほとんど生理的といってよい法則的 傾向、これが機能和声の 基礎になっている。
平均律でどの半音も 等間隔で並んでいるピアノのような楽器だと、それぞれの音は完全に均質化されていて、だからこそ転調というような技法も可能になるのだが、そこにひとつの調性が 与えられたとたん、音階上のそれぞれの音に、他の音と異質な個性が生まれる。 鍵盤上のすべての音は、音の高さ以外はまったく均質であるはずなのに、いったん調性が 与えられると、どの音もそれぞれ異なった未来指向性を示すようになる。
この個性、たとえばシのド指向性は、人間の感覚にとって 抗いがたいもののようである。だからピアノと 違って平均律に固定されていない 弦楽器の奏者だと、シの音を 弾く場合、この指向性に無意識にひきずられることになり、シをあらかじめドの方向に寄せて、つまり平均律より少し高く、純正調に近い音で 弾こうとする 傾向が出てくる。モーツァルトはヴァイオリンソナタを書くとき、ヴァイオリンのシとピアノのシがなるべく重ならないように注意していたらしい。音が 濁らないようにという 配慮からである。
調性が 与えられると音が個性をもつようになる。調性が 与えられるというのは、それを決める音がすでにいくつか聞こえたということである。つまり、音楽にその経歴が 与えられたということであ∵る。音楽が鳴りはじめると、あらゆる音は自らの経歴を、過去の想起(アナムネシス)を 含むことになる。過去に鳴ったすべての音の積分として鳴っているといってもよい。そしてこのアナムネシスが、現在の音の未来指向性(プロレプシス)を生み出す。シがドに、ファがミに進もうとするのは、調性のアナムネシスそのものが 紡ぎ出す 微分的な方向のプロレプシスである。属和音から主和音への進行が終わると、プロレプシスはそこで一段落となり、さらなる行動への要求が消えて、安定感と終結感が得られる。
生命的行動のアナムネシス・プロレプシス構造というのは、 ヴァイツゼカーの理論を語るときに欠かすことのできない 鍵概念である。人間に限らず、あらゆる生きものの主体的な行動は、物体の物理的な運動と 違って、「そこから」と「そこへ」の性格をもっている。それはつねに 記憶に裏づけられた未来の先取だと ヴァイツゼカーはいう。アナムネシス的な経歴に支えられたプロレプシス的な未来の先取りが、そしてそれのみが、主体の主体性を可能にしている。だから主体というものは、つねに現在の 最先端でプロレプシス的に未来を生きている面と、それまでの過去の全部をアナムネシス的に生きている面との、境界的性格をもつことになる。(中略)
人間の感覚は、このプロレプシスの意識とアナムネシスの意識とのはざまに「時間」を感じとる。時間という実在があらかじめ 与えられていて、われわれがそれを消費しながら生きているのではない。生きるということは、行動の各 瞬間が過去を 継承しながら未来を先取することによって、その界面に時間という現実を生み出し続けることにほかならない。
(木村 敏「音楽と時間」より)
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