しかし人間というのは 読解検定長文 高3 冬 1番
しかし人間というのは気まぐれなもので、人間の遊びは、決して 玩具によって百パーセント規定されるものではないのである。これは大事なことだと思うので、とくに強調しておきたいが、 玩具のきまりきった使い方を、むしろ裏切るような遊びを人間は好んで発明する。そもそも遊びとは、そういうことではないかと私は思うのである。たとえば、汽車や自動車の 玩具があったからといって、私たちはそれを必ずしも汽車や自動車として用いるとはかぎらない。もし戦争ごっこをやりたいと思えば、その汽車や自動車を敵の 陣地として利用するかもしれないし、お医者さんごっこをやりたいと思えば、それを 医療器具として利用するかもしれないのである。 玩具がいかに 巧妙に現実を 模倣して、子供たちに 阿諛追従しようとも、子供たちはそんなことを 屁とも思わず、平然としてこれを無視するのだ。
すべり台は、必ずしもすべり台として利用されはしない。私の家にも、かつて屋内用の折りたたみ式の小さなすべり台があったものであるが、私はこれをすべり台として用いた 記憶がほとんどない。あんなことは、子供でもすぐ 飽きてしまうのである。私の気に入りの遊び方は、すべり台のすべる部分と 梯子の部分とをばらばらに分解して、すべる部分を 椅子の 腕木の下に通し、それとT字形に交わるように 梯子を設置して、飛行機をつくることだった。飛行機ごっこをすることだった。つまり、すべる部分が 翼であり、 梯子の部分が 胴体なのである。 梯子には横木がいくつもあるから、そこに 腰かければ数人の子供が飛行機に乗れるのである。このアイディアは大いに気に入って、私はすべり台を私の飛行機と呼んでいたほどだった。ボードレールにならっていえば、「 座敷の中の飛行機はびくとも動かない。にもかかわらず、飛行機は 架空の空間を矢のように速く 疾駆する」というわけだ。
子供たちはしばしば、 玩具の現実 模倣性によって最初から予定されている 玩具の使い方とは、まるで 違う玩具の使い方をする。もう一つ、私自身の経験を語ることをお許しいただきたい。私は三輪車∵をひっくりかえして、ペダルをぐるぐる手でまわして、氷屋ごっこをやって遊んだことを覚えている。いまは電気で回転するらしいが、かつては氷屋では、車を手でまわして氷を 掻いたのである。
ここで、この私のエッセーの基本的な主題というべきものを、ずばりといっておこう。すなわち、 玩具にとって大事なのは、その 玩具の現実 模倣性ではなく、むしろそのシンボル価値なのである。この点については、いくら強調しても強調しすぎることにはなるまい。 玩具は、その名目上の使い方とは別に、無限の使い方を暗示するものでなければならぬだろう。一つの遊び方を決定するものではなく、さまざまな遊び方をそそのかすものでなければならぬだろう。すべり台にも、三輪車にも、その名目上の使い方とは別に、はからずも私が発見したような、新しい使い方の可能性が 隠されていたのだった。つまり、これらの 玩具には、それなりのシンボル価値があったということになるだろう。
私の思うのに、 玩具の現実 模倣性とシンボル価値とは、ともすると反比例するのではあるまいか。 玩具が複雑 巧緻に現実を 模倣するようになればなるほど、そのシンボル価値はどんどん下落するのではあるまいか。あまりにも現実をそっくりそのままに 模倣した 玩具は、その 模倣された現実以外の現実を想像させることが不可能になるだろうからだ。その名目上の使い方以外の使い方を、私たちにそそのかすことがないだろうからだ。そういう 玩具は、私にはつまらない 玩具のように思われる。
( 澁澤龍彦「 玩具のシンボル価値」より)
のび太の孫の孫のセワシ君が 読解検定長文 高3 冬 2番
のび太の孫の孫のセワシ君が、未来の世界からタイムマシンでやってくるところから、このお話は始まっている。ドラえもんとは何か。それは、のび太の残した借金が多すぎて、百年たっても返しきれないセワシ君が、どじなのび太の運命を変えようとして、現代に 送り込んだロボットである。だから、ドラえもんがなすべき仕事は、当然、のび太を 援助して、その悪い運命を改善することである。
しかし、考えてみれば、ドラえもんのおかげでのび太の運命が改善されてしまうと、セワシ君がのび太によって受けた 被害もなくなってしまい、 彼がドラえもんを 送り込んだ理由そのものが消えてしまう。そのとき、のび太の借金のせいで 貧乏だったセワシ君は、いったいどこへ消えてしまうのだろう。そして、ドラえもんがいまのび太の家にいるその原因そのものが消えてしまってもなお、ドラえもんはそこに存在していられるのだろうか。
そう考えると、ドラえもんとはきわめて不思議な存在であることがわかる。 彼は、いま自分がそこに存在している原因と、その存在理由そのものを、消し去るために存在しているのだから。自分の存在理由を消し去ることがその存在理由である存在! 彼が少しでも内省力のあるロボットなら、ある日そのことに気づいて、「ぼくっていったい何のために存在しているのだろう」という実存の不安に 襲われるはずである(実際にはそんなようすはまったく見られない。のび太ほどの 思索力もない、能天気なやつなのである)。
いや、そうではなく、この話には論理的な 矛盾が内在しているのかもしれない。ドラえもんとは、そもそも不可能な存在なのかもしれない。『ドラえもん』の世界は二つの 矛盾した事態の成立を主張している。ドラえもんの 援助を受けないのび太と、ドラえもんの 援助を受けているのび太。借金で首がまわらないセワシ君。等々。この 矛盾をどう考えたらよいだろうか。
(中略)
それを変える? そうだ、とセワシ君は言うであろう。ぼくはこの 境遇を変えたいんだよ。ぼくは、自分が幸福になりたいから、この不幸の原因を取り除いているんだよ。∵
しかし、借金で首がまわらないセワシ君の 境遇は、もう実現してしまっているのだ。ここで、第四の可能性が考えられる。セワシ君が大借金をしている世界と、セワシ君が借金などしていない世界とは、二つの別の世界なのだ、と考える可能性である。しかし、もしそうだとすると、セワシ君もまた二人いることになるから、 貧乏だったもとのセワシ君自身の 境遇はちっとも改善されないことになる。ドラえもんの 活躍のおかげで、どこかの世界に 裕福なもう一人のセワシ君が存在するようになっても、自分自身の運命はぜんぜん改善されないのだ!
( 永井均『マンガは 哲学する』による)
たしかに「解放」された 読解検定長文 高3 冬 3番
たしかに「解放」された旧植民地の人びとにとって「自由」は新しかった、しかもまったく「新し」かったことだろう。というのも、 彼らにはかつて一度も「自由」の経験などなかったのだから。その地に「ヨーロッパ」が訪れ、この「文明の中心」に 鎖で 繋がれる以前には、 彼らには 彼らなりの自在さがあったとしても、「自由」など必要なかったことだろう。 彼らはいわば自生していたのであり、「独立」を主張する必要も「解放」される必要もなかったはずだ。植民地支配によってこれらの地域は、 輝かしい発展を 謳歌する西洋近代の黒いエクス・マキーナとして、その「進歩と 繁栄」に 繋縛され 搾取され、まさにそのために「独立」や「解放」を必要とするようになったのだ。とはいえ 彼らは独立によってけっして「解放」されたわけではない。なぜなら「独立」とは、すでに不可逆的に進行している西洋的歴史のなかで一主体としての承認を求めることであり、 彼らが「解放」される空間は、すでに西洋化した世界空間なのだから。そこに「主体」として参入するために、 彼らは結局あらためて「西洋システム」という学校に入り、それこそ未知の「自由」を学ばなければならなかったのだ。そのことが現在の世界のいわば 既決性というものを 端的に示している。
ヨーロッパは世界化し、世界はヨーロッパ化した。というより、この世界はヨーロッパによって<世界>として形成された。そしてヨーロッパは自己の 普遍性の主張を、形成された<世界>の内に実現することになった。ただ、この 普遍性の実現が全体としての<世界>の形成として成就したのは、この世界が地球という球体の表面にあるという単純な物理的条件に規定されている、ということには注意しておいてよい。でなければ、 普遍性の主張が全体化として実現されるということはありえない。どんなにヨーロッパが 膨張しても、それが無限の平面上のことだったら、その 普遍性の主張も有限な領域に 甘んじるひとつの 普遍性にすぎず、 膨張の前線の向こうにはつねに未知で手つかずの 圏域が広がっているからだ。その外部が、拡張するもの自身をつねに個別性へと送り返す。ただ地球が丸いということが、前線の解消と全体化を可能にするのだ。ヨーロ∵ッパはそのようにして全体となった。
だがすべてがヨーロッパ化されてしまったとしたら? ヨーロッパが拡張を続けている間は、つまり同化する外部をもつ間は、ヨーロッパは有限な、したがって固有性をもつものでありえた。ただその境界がなくなり、すべてがヨーロッパ化されて全体がヨーロッパ的になってしまうと、ヨーロッパはもはやその固有性を主張しえなくなる。あらゆる差異を 超える共通 項、全体の全体性たる所以をなすものは、この全体の内でいかなる固有性ももたない 所与の条件である。いまヨーロッパはそのような世界の全体性の自明の条件になってしまった。だからこそ、世界のどこにいても「世紀末」を語って何の 違和感もないのである。「 西暦」は 依然としてこの世界の世界性形成の刻印だとしても、もはや個別ヨーロッパへの帰属という意味を失ってしまっている。そして実はそれが現在の 状況の 象徴的な反映なのである。だからいま「歴史の終り」が語られるとしても何の不思議もない。たしかに歴史は終ったとも言える。だがその「終った歴史」とは、歴史 一般ではなく西洋を主体とする世界化の歴史なのである。
(西谷修『世界史の臨界』による)
生産性向上を目指してきた 読解検定長文 高3 冬 4番
生産性向上を目指してきた近代社会は、機械化と時間管理の 徹底化によって単位時間当たりの生産性を高め、一日、一週間、一月、一年といった各周期の労働時間の短縮を行なってきた。一九八八年、労働基準法の改正により、日本でもようやく週四〇時間を目指して労働時間の短縮を図る動きが国の側から開始された。いまだに実質的に週四〇時間労働が実現しないとはいえ、自由時間の増大に対応するための社会システムのあり方が 模索されている。そこで目標とされるのは年間で一八〇〇労働時間の社会であり、 睡眠時間や通勤時間を除いても年間の自由時間は約四〇〇〇時間となる。さらに、 圧倒的に多い自由時間は、人生全体のなかで大きな比重を 占め、人びとは自由時間の過ごし方を中心に人生の設計を図らなければならない。
しかしながら、近代社会の理念の下では、けっしてこの自由時間は個人の自由に完全に委ねられるわけではない。それは、自由裁量の時間でありながら、労働や他の義務的活動によって生じた 疲労を回復し、気晴らしになり、しかも自己の発展と文化の発展につながるような活動で 埋めることを求められる。 享楽主義や自己 破壊につながるような時間の過ごし方は、近代の理念に反するのである。その意味で、レジャーは、新しい時代の社会 規範にしたがって水路づけられることになる。
他方で、自由時間の過ごし方は、時間をあくまで定量的に 把握する近代の時間観念に 依拠している。労働時間が資源として 扱われ経済的価値を帯びるにつれ、それを 切り詰めることによって 獲得された自由時間にもその経済的価値意識が反映されてくることは、必然の成り行きでもある。すなわち、自由時間を有効に 無駄なく過ごそうという意識が、自由時間内の活動自体に 浸透するのであり、近代の時間意識は、自由時間においても変わらない。複数の人びとが共同で行なうレジャー活動は、多くのスポーツや 趣味のクラブや個人の日常の各周期のスケジュールのなかで、厳格に共時化され、順序づけられ、進度調整が図られる。
しかし、時間を合理的に使おうとする割には、自由裁量性に目を 奪われたり期待をかけすぎて、われわれはすべての活動が時間を消費することを忘れがちである。たとえば、テレビの番組をビデオに∵収録して自分の好きなときに見るという発想は、時間消費の自由裁量性を高める工夫であるように見える。しかしこれは、今は読めないがいつか読むつもりでたくさんの本を 買い込む悪癖を想起させる。現実には、それは限られた自由時間にきわめて時間消費量の多い活動を 詰め込み、結局 睡眠時間を 切り詰める結果になりがちである。この 傾向は、消費社会の論理によってさらに加速される。
(長田 1攻一「現代社会の時間」『岩波講座現代社会学 時間と空間の社会学』岩波書店、一九九六年による。)
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