清作は一歳半の時に 読解検定長文 小3 秋 1番
清作は一 歳半の時に、いろりに 落ちて、左手に大やけどを 負いました。 悲鳴を聞いて、外で 野良仕事をしていた母シカが 驚いてかけつけた時には、 清作の手は、やけどで 開くことができなくなっていました。一八七七年、 福島県の 猪苗代湖のそばにある小さな村でのできごとです。
当時の 医療では、やけどでくっついた 指をもとの通りに 戻す手術は 不可能でした。何 軒も 医者をたずね、遠い町の 医者に、
「 残念だが、この子の手はなおらん」
と言われた時、シカは声をあげて 泣きました。
まだ 幼い友達は、 清作の手を見てからかいました。 清作はものをつかむことも、 自由に 動かすこともできない左手をくやしがって、一人 泣くこともありました。しかし、学校にあがってからは、たいへん 熱心に 勉強し、だれにも 負けない 成績をおさめたのです。
父親が 大酒飲みで働かないため、たいへん 貧しかった 清作のうちでは、どんなに 優秀でも上の学校へ 進学させる 余裕がありませんでした。 子供の 清作にとっては、母のシカしか 頼る人がいなかったのです。しかし、ちょうど 清作のいる小学校に 巡回に来ていた小林先生が、 清作の 勉強に対する熱意を知り、 清作の 進学を 助けてくれたのです。
また、先生はアメリカ帰りの高い 技術を 持つ医師に 紹介状を書いてくれました。 大変お金のかかる 手術が 必要でしたが、先生や学校の 友達がお金を出し合ってくれて、 清作は 手術を 受けることができました。ついに、 指が一本一本 離れ、ものをにぎれるようになったのです。
清作は、直してくれた 医師や 恩人の小林先生らに 感謝しながら、心に 誓ったことがありました。
「一生 治らないと思っていた左手が、 医学の力で 治った。 私も 将来医者になって、自分のように 苦しむ人々を 助けたい。それが∵ 私の 恩返しだ」
この 清作少年こそが、のちの野口 英世です。その 献身的な 研究ぶりは、まさに 寝る間も 惜しむほどだったそうです。 留学先のアメリカでは、「日本人はいつ 眠るのだ」と 他国の 学者を 驚かせるほどの 猛勉強をし、その 生涯を 医学の 研究にささげたのです。
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種の起源 読解検定長文 小3 秋 2番
『 種の 起源』の 著者チャールズ・ダーウィンがミミズの 研究を 始めたのは、二十八 歳のときでした。それ 以来、ダーウィンは四十年 以上もミミズの 観察を 続けました。ダーウィンが 最初に目をつけたのは 牧草地です。 最初はでこぼこで石ころだらけだったはずの 牧草地の土が細かくしっとりとした土になり、 地面が 平らになっていくのは、ミミズが土を食べて、土のフンをするからではないかと考えたのです。つまり、ミミズが長い年月をかけて、土を 耕しているのではないかと思いついたのです。
ダーウィンは、十年ほど前に土をよくするために 石灰をまいたという 牧草地に行ってみました。すると、 石灰は、 地表から七・五センチぐらいのところに 埋まっていました。ダーウィンはミミズが 石灰の上にフンをして、十年の間にこれだけ 埋めてしまったに 違いないと考えました。しかし、もしかしたら、その十年の間に、 誰かが土をまいたのかもしれません。ほかの 動物や風が土を 運んできたということも考えられます。そこで、ダーウィンは、これがミミズの 仕事だったということを自分の目で 確かめようと 決意しました。
ある年の冬、三十三 歳のダーウィンは、 自宅の 裏に広がる 牧草地に 石灰岩の 破片をばらまきました。この 場所なら毎日 観察することができます。しかし、 石灰岩の 破片が 埋まって見えなくなるまでに数年、ミミズが 耕す土の 量をほぼ 正確に計算できるようになるまでに数十年かかります。ダーウィンは、来る日も来る日も 牧草地をながめながら、この気の遠くなるような年月を 待ち続けました。
もちろん、この間、ダーウィンはただ 待っていただけではありません。ミミズにガラスやれんがのかけらを食べさせたらどうなるか、 地面の下に何 匹くらいミミズがいるか、ミミズのフンはどのように 移動するのかなど、ミミズ に関するさまざまな 実験を行いました。まさにミミズづけの数十年間だったのです。ミミズのフンの 研究ばかりしているダーウィンに、もう青年になっていた 子供た∵ちは 憤慨しました。それでも、ダーウィンは 実験を 続けました。
最初に 石灰岩の 破片をまいてから二十九年たち、ダーウィンは六十二 歳になっていました。その年の十一月、ついに 牧草地を 掘る日がやってきました。ダーウィンは、 牧草地にざくっとスコップをさしこみます。土を 持ち上げると、白いものが見えます。それは、言うまでもなく、二十九年前に 牧草地にばらまいた 石灰でした。 深さ五十センチほどの 穴を 掘ると、 周囲の土の 壁に 一筋石灰の 層が見えます。 石灰は、 地表から十七・五センチぐらいのところに 埋まっていました。二十九年間で十七・五センチということは、毎年 約六ミリずつ 埋められていたことになります。これは、もちろんミミズのはたらきによるものです。
ダーウィンは、この 研究を三百ページをこえる一 冊の本にまとめ上げました。 進化論の 提唱者として 有名なダーウィンですが、その一方でミミズのような小さな 生き物の 研究にも 生涯をささげたのです。みんなが 見向きもしないような小さな 生き物に 注目し、その 生態を明らかにしたダーウィン。そのダーウィンが 亡くなったのは、ミミズの本を書き上げてから半年後のことでした。
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二種類の生き物が 読解検定長文 小3 秋 3番
二 種類の 生き物が 一緒に 暮らすことを 共生といいます。その一 例がイソギンチャクとクマノミです。 普通、魚がイソギンチャクの 触手に 触れると、 毒針によって 麻痺させられてしまいます。しかし、クマノミの体の 表面には 特殊な 粘液が 分泌されていて、イソギンチャクの 毒には 反応しません。クマノミが出す 粘液の 成分はイソギンチャクの 粘液の 成分と 似ているため、イソギンチャクはクマノミをえさと見なしません。このため、クマノミはイソギンチャクの 周りをすみかにして、 恐ろしい敵から 身を 守ることができるのです。
クマノミの体は、どの 種類も赤、オレンジ、黄色、黒、白などが組み合わさった 鮮やかな色をしています。 歌舞伎役者の 隈取りした 化粧に 似ているのでクマノミという名前がついたそうです。
では、イソギンチャクにとって、クマノミが 周囲にいることにどんな 利点があるのでしょうか。クマノミは、イソギンチャクの 周りに 縄張りを 持っており、イソギンチャクの 触手などを食いちぎって食べる魚など、イソギンチャクの 敵を 追い払います。また、イソギンチャクの 触手の間にえさを 置いておくのですが、その 一部はイソギンチャクのえさにもなるようです。つまり、クマノミとイソギンチャクは、 お互いに身を 守ってもらったり、えさの 一部を分けてもらったりして、ギブアンドテイクの 関係を 保っているのです。
イソギンチャクカクレエビも、その名のとおり、イソギンチャクと 一緒に 暮らす仲間です。また、ヤドカリやカニの中には、自分のはさみや 貝殻にイソギンチャクをつけて、 身を 守るものもいます。 お互いにえさのやりとりもしているようです。
ハゼとエビも 共生しています。ハゼは、エビが 苦労して 掘った 巣穴に 同居します。 視力のよくないエビにとって、自分の 代わりに 見張りをしてくれるハゼは 歓迎すべき 同居人です。また、エビが外出するときも、ハゼは 忠実なボディガードの 役割を 果たします。∵ 巣穴の外にいるとき、エビは自分の 触覚をハゼの体に 常にぴたりとくっつけています。 敵が近づいてくると、ハゼは、 尾びれをふるわせてエビに合図をします。エビは、 危険を 察知してすぐに 巣穴に入ります。もちろん、ハゼも 一緒に 巣穴に 戻ります。ハゼとエビは、同じ 巣穴の中で、ハーハー、ゼーゼーと 息を切らしながら、「 危なかったね。」と話をしているのかもしれません。
ホンソメワケベラとクエは 掃除共生する組み合わせとして知られています。クエは、本来、小魚をえさとしています。ホンソメワケベラは、クエに 近寄ったら一口で食べられてしまいそうな小さな魚です。しかし、 不思議なことに、ホンソメワケベラが近くに来るどころか、クエの口の中に入っても、クエは 決してホンソメワケベラを食べようとはしません。これは、ホンソメワケベラがクエの 寄生虫を 掃除してあげているからです。クエは、口やえらなどにについた 寄生虫をきれいさっぱりホンソメワケベラに 取ってもらって 上機嫌というわけです。クエがホンソメワケベラを食えないわけはここにあるのです。ホンソメワケベラにとって、 寄生虫はえさにもなるし、大きな魚と 一緒にいることで 敵から 身を 守ることもできて一石二鳥です。
共生関係にある 生き物たちは、 違う種類であるにも 関わらず、 調和を 保って、 平和な 関係を 維持しているのです。
言葉の森 長文作成委員会(Λ)
駄洒落とは 読解検定長文 小3 秋 4番
駄洒落(ダジャレ)とは、音が同じかそっくりな 言葉をならべて 遊ぶ言葉遊びです。 江戸中期の 雑俳と 呼ばれる 短い詩のひとつと言われています。 地口とも 呼ばれます。この 雑俳に 詠われる 内容は、みんなの知っている 言葉や、 芝居の 有名なせりふをもとにした 機知に 富んだおもしろいことがらです。いろいろな 言葉をよく知っていて、 世の中のことに 精通し、センスがよいと気の 利いたじょうずなシャレができるのです。ですから、 江戸時代では、シャレのうまい人を 教養があるとみなしたようです。 立派な 庶民の 文化だったわけです。 地口に合った絵を 行灯に 描いて、秋の お祭りに 使ったという「 地口行灯」は、 最近復活して 関東地方のあちこちで、作られているようです。
しかし、 正統派の 俳人や 文化人と言われる人たちの中には、ばかばかしいおふざけと見る人もあり、シャレに「 駄」がつけられてしまったのです。もともとは「 洗練されている」「 洒落ていて 趣がある」という 意味だったシャレですが、つまらない・ 粗末な・でたらめといった 意味を 表す、 不名誉な「 駄」がつけられてしまいました。
さて、ダジャレにはどんなものがあるのでしょう。いろいろな 種類がありますが、まずはちょっとした 語呂合わせで作る「同じ読み方の 言葉を 使ったもの」。これには、「電話にはでんわ」、「アルミ 缶の上にあるミカン」などがあります。 全く同じ音なのに 全然違うものを 表しているという 意外性のおもしろさがあります。ダジャレといえば、このようなものを 思い浮かべる人も多いでしょう。少し 発展させると、「とかげと 影」「 机にくっつく絵」「 宝があったから」などができます。
次に、「 似たような音を 持つ言葉を 使ったもの」があります。「とこやはどこや」「めじろのねじろ」「 迷子の 舞妓」などがそれにあたります。 気軽にひょいと口をついて出るような 軽いダジャレ∵です。少し 無理があると、またそれがおもしろくなることもあります。
三つめは、ニつの 言葉をくっつけて作ったやや 上級編です。「 布団がお山の方まで 吹っ飛んだ!」「おやまぁ。」ちょっとしたストーリーができあがります。
さらに、一つの文にニつの 意味をもたせるものがあります。「風林火山ない?」と「 風鈴飾んない?」、「 倒産か 辛かったな」と「父さんカツラ買ったな」、「 私と 居てください」と「 渡しといてください」などです。ダジャレのつもりでなく、口にして、「あれ、 勘違い」ということもあるかもしれません。
江戸時代には 文化だったダジャレですが、 最近では 若者たちに親父ギャグなどと 呼ばれて、 肩身のせまいところです。しかし、日本語 独特の音のおもしろさ、 言葉から広がるイメージなどを 共有することで、場が 和み、楽しい気分になるものです。ダジャレを 最もよく言う 層は、小学校高学年の男子と四十 代以上のサラリーマンだそうです。 語彙が 増えて、ユーモアを 解するようになったダジャレ入門 者の小学生と、 忙しい生活や 仕事に 疲れ、つかのまの 癒しをダジャレに 求めるダジャレ 世代のお父さんたちというわけです。
欧米人は 冗談が 好きで、ユーモアとウィット( 機知)に 富んだ会話を楽しむ、とよく言われます。ユーモアのセンスというのは、言っている本人はもちろん、 相手も楽しくなり、 円滑な人間 関係を 結ぶ上で 大変重要なものです。
ダジャレの 特徴は、 子供から大人までだれでも 気軽に言えることです。「日本じゃだれでも、ダジャレを言える」となったら、ダジャレは日本の 伝統文化の一つとして 世界に 誇れるものになるかもしれません。
言葉の森 長文作成委員会(φ)
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