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 巣穴の中が、 読解検定長文 小4 秋 1番
 あなの中が、どのようになっているのか知りたくて、調査ちょうさしたことがあります。帰るあながなくなってしまって、かわいそうだったのですが、あなの中に石こうを流しこんで形を調べました。
 あな単純たんじゅんな形で、途中とちゅう枝分かれえだわ  しているようなことはありません。
 あなの出入り口は一つで、その部分がいちばん細くて、断面だんめんが丸くなっています。出入り口の部分が、とくに波の影響えいきょうをうけやすいわけですから、出入り口は小さいほうがこわれにくいのでしょう。
 あなのまん中あたりが、少し太くなって、ゆるやかにまがっています。満ち潮み しおのとき、カニが休むのは、この場所です。
 オスとメスで、あなの形にちがいはありませんが、カニの大きさによって、あなの深さがちがいます。浅くあさ て十センチ、深くて二十センチくらいなのですが、深さが五十センチをこえるれいもあります。もっとも深い記録きろくは、九十五センチです。
 シオマネキは、横向きにあなに入っているので、もちろん、下がわのあしを使ってあなを深くほってゆきます。少しほると、すなどろをあしで丸めて、出口までかかえあげ、そして、あなの外にすてます。
 カニの甲羅こうらはばは二センチくらいのものなので、五十センチをこえる深さまであなをほるのは、さぞかし、たいへんな重労働じゅうろうどうだろうと思います。
 カニの大きさとあなの深さを、単純たんじゅんに人間におきかえて考えると、人間が自分の手で深さ四十メートルくらいのあなをほるのと同じですから、確かたし 重労働じゅうろうどうだといえます。
 シオマネキは、昼間に活動するカニです。夜は目がみえないのかどうかわかりませんが、とにかく、夜間にしおが引いても、あなから出てきません。昼間は、しおが引いて、日がさしていれば、ほとんどのカニが出てきます。∵
 たまには、これらの条件じょうけんがすべてそろっているのに、なぜだか、出てこないカニもいるのですが……。しおの引き方、気温、日ざしなどは時間によって微妙びみょう変わるか  ので、干潟ひがたに出ているかにの数は、いつもと同じというわけではありません。晴れていたのに、急にくもってきたり、雨がぽつぽつ降っふ てきたりすると、あなに入ってしまうカニが、だんだん多くなってゆきます。
 初めはじ からざあざありの雨なら、しおが引いていても、けっして出てきません。シオマネキは、しおが引いている間に活動するとはいっても、やはり、海のカニなので、雨はきらいなのです。
 満ち潮み しおの時間が近づくと、どのカニも、みなあなに入ってゆきます。
 あなに入るときは、入り口近くのすなどろをあしでかき集めて、くるくると器用きように丸め、「すなだんご」をつくります。そして、体を先にあなに入れてから、このすなだんごでふたをします。
 すなだんごが小さすぎれば、ふたにはなりませんし、大きすぎれば、もり上がってしまいます。でも、カニは自分のあなの大きさをよく知っているらしく、どのカニも、あなの大きさとすなだんごが、いつもぴったり合います。
 シオマネキが、あなにふたをする作業には、たっぷり時間がかかりそうに思えるかもしれませんが、どのカニも、わずか数秒間でたくみにふたをして、地中にすがたを消してしまいます。
 カニがあなにふたをしたあとは、近くでみていても、もうどこがあな位置いちだったのか、すっかりわからなくなってしまうのには、感心させられます。

武田たけだ正倫まさつね干潟ひがたのカニ・シオマネキ おおきなはさみのなぞ」)
           
 

 ライオンの「食」といったとき、 読解検定長文 小4 秋 2番
 ライオンの「食」といったとき、ライオンが肉切れを食べるところだけを頭に描いえが たとすればそれは一面てきなとらえ方でしかなく、ライオンのライオンらしさをとらえることはできない。どのような生物界にくらしているのか、そこでどのようにして獲物えものを見つけだし、どのようにして接近せっきんし、その獲物えものをどのようにして捕えとら 殺すころ のかということまでもまた描かえが なければいけない。
 同様に、人間の「食」といったときも、食卓しょくたくにすわっての食事だけを頭に描いえが たのではやはり一面てきなとらえ方になってしまう。カロリーと栄養えいようのバランスだけが人間の「食」のすべてではないのである。
 人間の「食」には、さまざまな人間の手が加わっくわ  ている。食事のときにはしやスプーンを使うのも一つのあらわれだが、それだけではない。わたしたちが毎日食べているお米をれいに考えてみよう。お米のもとはイネの種子しゅしである。このイネは人間が人間のためにつくりだした作物の一種いっしゅであり、田んぼで栽培さいばいされている。
 この田んぼを耕すたがや ためにはいろんな農機具のうきぐを使う。その農機具のうきぐべつの所でべつの人たちがつくる。堆肥たいひ別にべつ しても化学肥料ひりょうを入れるとすればその肥料ひりょうもまったくべつのところでべつの人たちがつくっている。
 人間は社会てき存在そんざいとして食べているというのは、まさにこのことである。動物の食べるとはまったく違っちが ているのである。
 できたイネの種子しゅしは、つくった人たちとはまったく関係かんけいのない人も食べている。こんなことも動物の世界にはない。
 また、収穫しゅうかくした種子しゅし全部を食べてしまわないで、つぎの年にまたタネまきをするために保存ほぞんする。意識いしきてきにこんなことをするのもまた人間だけである。
 種子しゅしはそのままでは食べない。この種子しゅしにはまだしっかりとしたえい(外皮)がついており、これをまずはずす。はがしとったえいはもみがらと呼ばよ れ、もみがらがない種子しゅし玄米げんまいという。玄米げんまいはさらに∵果皮かひ種皮しゅひがはがされるが、このときはいもはがしとられ、はいを育てる栄養分えいようぶん(デンプン)が主体の白米となる。はがしとったこなはぬかといっている。
 白米はそのままでは食べない。水と一緒いっしょにして煮るに 。いまは電気を用いる炊飯すいはん普及ふきゅうしているが、すこし前まではすべて火でたものだ。
 煮るに ことによって、口の中でかみ砕きくだ やすくなる。もう一つ大切なことは米を煮るに と米の中に含まふく れているデンプンがアルファデンプンに変化へんかしてくれることだ。ヒトの口の中の唾液だえきにはプチアリンという酵素こうそ含まふく れており、このプチアリンは煮るに ことによってつくられたアルファデンプンに対してよく作用する。
 この意味で、米を煮るに ということは消化の第一歩にもなっているのだ。口の外で食物を意識いしきてきに消化させるようなことをするのも人間だけであり、火の発見がこれを可能かのうにしている。米を食べることは、米をつくる人の、そして道具をつくる人の労働ろうどう結晶けっしょうを食べることでもある。この意味でも人間は社会てきに食べているといえる。

(黒田弘行ひろゆき「食の歴史れきし」)
           
 

 望遠鏡には、 読解検定長文 小4 秋 3番
 望遠鏡ぼうえんきょうには、レンズが使われている。小さな虫や字を大きくしたり、光を集めたりする虫めがねは、まん中がふくらんだ「とつレンズ」。反対に、近視きんし用のメガネなどに使われるレンズは、中央がへこんだ「おうレンズ」だ。
 とつレンズは、光をレンズの中心にむかって、まげる(屈折くっせつする)はたらきがあるので、レンズにさしこんだ太陽の光は、焦点しょうてんとよばれる一つの点に集まって、明るく、熱くあつ なる。また、小さな文字が大きく見えるのは、ほんとうなら、目以外いがいのところにいってしまうはずの文字からでた光を、レンズが集めて、目にはいるようにするからだ。おうレンズは反対に、光を広げるはたらきがある。
 レンズの、このはたらきを使うと、近くのものだけでなく、遠くの人や星なども、大きく見ることができる。これが望遠鏡ぼうえんきょうだ。
 望遠鏡ぼうえんきょうは、今からほぼ四百年前の一六〇八年、オランダのリッペルスハイという、めがね屋さんが発明したとされ、それからは天文観測かんそくにかかせない道具になった。ガリレオ・ガリレイは、二まいのレンズをくみあわせた、屈折くっせつ望遠鏡ぼうえんきょうを自分でつくり、木星に四つの月(衛星えいせい)があることや、金星が地球の月と同じように、みちたりかけたりすること、月にでこぼこのクレーターがあることなどを、次つぎに発見した。
 ガリレイは、これらの発見をまとめ、一六一〇年に小冊子しょうさっしにして発行した。ガリレイは、地球は太陽のまわりをまわっているという、「地動説ちどうせつ」をとなえたが、当時は、「すべての星は、地球のまわりをまわっている」とする「天動説てんどうせつ」がかたく信じしん られていた。
 そのため、ガリレイは、神の教えに反するせつを広めようとしたとして、宗教しゅうきょう裁判さいばんにかけられ、「地動説ちどうせつはまちがいだった」といわされた。このとき、つぶやいたという、「それでも地球はまわっている」という言葉は有名だ。
 遠くの星を、より明るく見るには、星からの光がはいる「対物レンズ」を大きくすればよい。そうすれば、レンズにはいってくる光のりょうがふえるからだ。これは、部屋のまどを大きくすればするほ∵ど、光が多くはいり、明るくなるのと同じだ。
 しかし、レンズは大きくすると、どんどん重くなり、わくがささえきれなくなる。また、色のにじみも、大きな問題だった。光がレンズを通ると、にじの七色にわかれてしまい、小さな星のぞうは、にじんでぼやけてしまうのだ。
 これをふせぐには、望遠鏡ぼうえんきょうを長くするといいが、何メートルもの長さになると、風などで少しゆれただけでも、星のぞうがぶれて、見えにくくなってしまうなど、あつかいにくくなってくる。そこで、レンズのかわりに「凹面鏡おうめんきょう」を使ったのが「反射はんしゃ望遠鏡ぼうえんきょう」だ。
 凹面鏡おうめんきょうは、中華ちゅうかなべや、衛星えいせい放送のパラボラアンテナのように、まん中にむかってへこんだかがみだ。レンズは光を通すが、かがみは光を反射はんしゃする。しかし、光を集めるというはたらきは、どちらも同じだ。
 反射はんしゃ望遠鏡ぼうえんきょうは、ニュートンが一六七二年に発明した。凹面鏡おうめんきょうで集めた光を、たいらなかがみで横に反射はんしゃし、つつの横につけた、のぞきまどから観測かんそくするもので、今でも「ニュートン式」として、デパートの望遠鏡ぼうえんきょうコーナーなどでも売っている。

吉田よしだ典之のりゆき「『すばる』がさぐる宇宙うちゅうのはて」)
           
 

 身近な自然は 読解検定長文 小4 秋 4番
 身近な自然しぜんはありふれているだけに、失っうしな てからでないとたいせつさに気づかないという矛盾むじゅんをかかえています。それだけでなく、高度成長せいちょうの時代には、住民じゅうみん自らが望んのぞ で遠ざけたのです。
 親しみやすい等身大の自然しぜんも、油断ゆだんすると大敵たいてき変身へんしんします。裸足はだしで小川に入ると、ガラスの破片はへんやとがった岩で足を切るし、まれにはおぼれて命をとられることもあります。淀川よどがわなどすこし大きくなると、不思議ふしぎにもあきらめが先に立ちます。しかし等身大の小川やため池になると、くやしさがまさり、だれかに怒りいか をぶつけたくなり、裁判さいばん訴えるうった  ケースが増えふ てきました。
 民主みんしゅ主義しゅぎがみんなのものになり、泣き寝入りな ねい しないで行政ぎょうせい責任せきにんを問う市民しみん増えふ たこと、裁判所さいばんしょ行政ぎょうせい責任せきにんをきびしく問い、住民じゅうみん勝訴しょうそするばあいがあったことは評価ひょうかできます。しかし地域ちいき住民じゅうみん参加さんかしないで、後の対策たいさく行政ぎょうせいだけに負わせる結果けっかになったことは、いまから考えると大きな矛盾むじゅんを生みだしていたのです。
 淀川よどがわなど大きな川にはない金網かなあみが、小さな川に張らは れてしまいました。落ちたりけがをすることは確かたし に少なくなりましたが、反面で身近な自然しぜんを生活の場から遠ざけることになってしまいました。子どもの遊び場でなくなると、とうぜん関心かんしんがうすれます。自転車や単車たんしゃ捨てす られていても長いあいだそのままになっていますし、雑草ざっそうも年一回刈り取らか と れるくらいなので景観けいかんもよくありません。家庭排水はいすい捨てす 場になり、汚れよご てくるとうめ立てて道路にしたほうがいいということになり、小さな川がまちのなかから消えていきました。
 思わぬところで矛盾むじゅんが頭をもたげます。十年ほど前、子供こども会で遠足に行ったとき、就学しゅうがく前の女の子がなにかにつまずいて倒れたお ました。手が出ず顔をまともに地面にぶつけたのです。本能ほんのうで手が出るのではなく、戸外で遊びながら身につける運動能力のうりょくの一つだった∵のです。最近さいきんは小学生にもいるとの報道ほうどうがありました。
 ある衛星えいせい都市の保育ほいく所では、すこし手足にけがをすると、もうれつに怒るおこ お母さんがいるそうです。理屈りくつ上はけがをさせたことになるので、責任せきにんを問われると対応たいおうせざるをえません。朝来園したとき、家でついたきずいなかのチェックをしなければならなくなったそうです。家庭での生活能力のうりょくがおとろえるにしたがって増えふ てきた遅刻ちこく指導しどうがエスカレートして、生徒せいと殺しころ てしまった状況じょうきょうています。「すみません」ですまない世界がどんどんひろがりつつあるようです。

(森住明弘あきひろ環境かんきょうとつきあう50話」)